給養班長殿と初年兵

なんだって十二月なんて冬に入営日が決まってるんだ、と最初は思った。荷物を背負って小遣銭を握りしめ、郷里の集落から旭川にやって来て、雪を踏み分け師団の門をくぐった途端に、怒鳴られながらあちらに集められこちらに歩かされて、よく分からないまま御真影に見よう見まねで敬礼したら、初年兵ということになっていた。だが、右往左往で始まった兵営生活を、初日のうちにそう悪いもんでもないかもしれないと思ったのは我ながら現金だ。何せ、兵舎の中はしっかりとストーブが焚かれていて、布団の上に霜が降りる郷里の家よりはよっぽど暖かかったのだ。それに、朝夕腹一杯にご飯が食べられるとくる。山盛りに盛られたのは紛う事なき白米で、最初は本当に食べてもいいのかと戸惑ったものだった。

古参の目を盗んで兵舎の隅でこそこそと煙草を吹かしながら、久しぶりに会った同郷の幼馴染みにそう言うと、同じく一服していたそいつはぷっかりと器用に輪っかの煙を吐いてから、

「それにお前は当たりだったじゃないか」

(のたま)った。

「当たり?」

「お前の班、班長は月島軍曹殿だろう?」

「そうだが......当たり?」

(くだん)の給養班長殿を思い出すのは容易だった。なにせ、朝晩の点呼の際に確認をするのも十日に一度の給与を手渡してくれるのもその小柄な軍曹殿だ。軍に入って最初に覚えた名前と言っても過言ではない。だが、その班長殿と「当たり」という単語が結びつかない。常に真っ直ぐに背筋が伸びていて、厳つく生真面目で号令も行動もきびきびと隙が無い。それに。

「お前はそう言うが、あの人はずいぶんおっかないんだぞ。こないだ、俺の同室二人を投げ飛ばしてた」

そのせいで、あの軍服の下は鋼のような筋肉でできていると分かったし、背が低いからと侮れば痛い目に遭うと知ったのだ。

「でも、投げ飛ばされる理由はあったんだろう?」

「まあ、夜の点呼後に(はなまち)に行こうとしたせいだけど」

「ほらみろ。俺のとこなんて酷いぞ。軍服の畳み方がなってないとか難癖つけてきて、思いっきり殴られた。ほんの一寸ずれてただけなのに。見ろよ、ここ」

捲られた腕の中程に青あざがくっきり残っている。驚いて手を伸ばそうとしたら、幼なじみはさっと手を引っ込めた。

「触るなよ。まだ痛いんだから。――畜生、あいつ、一年ばかし早く入っただけの癖して」

忌々しそうにそう言うと、改めて煙草をすーっと吸い込んだ幼なじみは、ふーっとそれを吹いた。

「俺の班だけの話じゃない。初日に隣に並んでた奴なんて、武器の手入れがなっとらんって言われて、陛下に詫びろって一晩中小銃に頭下げさせられたらしい」

「銃に?」

「そうだ。こういう理不尽はないだろう、お前のとこ」

「そう言われれば、まあ」

「嫌いなんだそうだ、月島軍曹は、そういうことが」

確かに、あの厳格そうな班長殿は、厳格なだけに規則に無く意味も無いことはやりそうにない。

「それに、飯も『公平に』分けてるって聞いたぞ」

やけに「公平に」を強調するので、吐いた煙が立ち上るのを見上げている横顔を窺い見る。

「......違うのか、お前の班」

訊くと、ふん、と鼻を鳴らして、幼馴染みは呆れたように頭を振った。

「違う。違う方が普通なんだとさ。古兵殿が睨んでてな、結局、そっちを多く盛らないと酷い目に遭う」

ぽっかりとまた煙を輪っかに吐いて、幼馴染みは肩をすくめた。

「だから、当たりだって皆んな言ってるぞ、月島軍曹の給養班は」

そういうものか、と冷たそうに曇っている窓をぼんやりと眺めながら自分もふーっと煙草の煙を吐いてみた。

――そういえば。

入営初日に、盛られた白い飯を見て思わず「食べて良いのですか」と聞いた時に、鼻で笑うこともせずに、良いんだ、俺も初めての日は驚いた、と言ったのが月島軍曹だったのを思い出した。白い飯が甘いことも軍に入って初めて知った、と言ったのも。言われたとおり、初めて食べる白い米はほんのりと甘かった。かつかつと食べる自分のことをすこしばかり眺めて、月島軍曹はいかにも重要なことだったかのようにこっくりと頷いて、自分もまた止めていた箸を動かし始めたのだった。

風呂の当番になるのは初めてだった。下士の入浴時間の始まる時刻に間に合わせようと大慌てで薪を()べる。

「どうだ?」

一緒に当番になった同室の男が湯船に腕を突っ込んで水音を立てているが、浴室の外からは姿を見ることができない。

「少しぬるい!」

返ってきた声が焦っている。急いでもう何本か薪を手に取った時、誰かの足音が近づいて来るのが聞こえた。そちらを見て誰だか分かるなり、潜めた声で慌てて中に呼びかけた。

「おい、出てこい、月島班長殿だ!」

将校は将校集会所にある風呂を使うので、大隊に一つの兵卒用の風呂を真っ先に使うのは下士ということになる。桶を引っ繰り返したような音がしてやきもきしたが、すぐに風呂から同僚が飛び出してきた。

「そんなにぬるいのか?!」

「......多分、大丈夫だ。今日は寒いから、ぬるくても最初のうちは温かく感じるはずだ。服脱いで、入る前に体も洗うし、時間は稼げるはず」

それを聞いて頷いて、薪をもう二本突っ込んだ。後は祈るしかない。部屋に戻るかどうするか、同僚と脇腹を突き合って、結局、ぬるいと後で怒鳴られるよりはと待つことにする。風呂に響く物音と水を流す音の後で、急に静かになった。心配になって立ち上がり、背伸びして覗き込んでみると、常日頃は硬い表情を崩さない班長殿が、湯船に浸かって目をつぶりすっかり弛緩している。溶けたような顔を見てパチパチと目を瞬いた時、湯船に浸かった班長殿が急に目を開き、驚いてひっくり返りそうになった。

「どうした?」

下で屈んでいた同僚がこちらを見上げて声をかけてきたのと、班長殿が声をかけてきたのは同時だった。

「風呂の当番か?」

「は、はい!」

焦ったあまり裏返った声を出してしまったが、班長殿はしごく静かに言った。

「もう二、三本薪を足してくれ」

「はい!」

今度はまともに返事をして、同僚に指を二本立ててから入れろ入れろと手で合図する。合図を受けて、素早く薪が()べられるのを確認してから、

「入れました!」

と報告すると、おう、と返事が返ってきた。班長殿は、ぱしゃりと音を立てて両手で掬ったお湯で顔を洗った。それっきり、すっかり静かに湯に浸かるばかりで、何も言葉を発しないので、不安になる。同僚も同じ気持ちだったのだろう、隣で同じように背伸びして中を覗き込んだ。そうしているうちに、どやどやと人の足音が多くなってきて、他の軍曹たちが集まってきた。

お、月島か、しばらくぶりだな。いや、こいつ、十一月に入ってからはずっと居るぞ。さすがに入営時期ともなれば鶴見中尉殿も連れ回してばかりはいられないだろう。そういえば、和田中隊長殿が髭を震わせて探していたぞ。お前、とっとと顔出してご機嫌取っておけよ。当たり散らされちゃこっちも敵わない。

聞こえる会話は他の軍曹の声ばかりで、月島軍曹は、うん、とか、ああ、とかまともな単語を発していない。本当にお前は風呂に入ると動かなくなるなあ、と誰かが言うと、短い笑いが起こったが、それは親しみを含んだ物で、どうやら我らが班長殿は、下士の間で一定の好感を得ているらしい。

湯船に浸かるような音が何回かしても特に怒鳴り声も起きないから、風呂の塩梅(あんばい)はなんとかなっているのだろう。あまり焚きすぎると今度は熱くなりすぎる。誰かが上がった音がしたので、様子をうかがっていた同僚と目配せし合って、立ち上がった。そろそろ自分たちの支度をしないと風呂に入りそびれてしまう。

軍曹たちが出てくるのと入れ替わりに今度は伍長たちがやってくる。ふと、後ろを振り返ってから、先頭にいた玉井伍長に話しかけた。

「あの、まだ、入っている軍曹殿がいらっしゃいました」

「なに、そうなのか?」

迷う様子で立ち止まった玉井伍長に、風呂上がりの軍曹が一人、後ろから抜きさり際に笑いながら話しかけた。

「いいんだ、大丈夫だ、月島だ、月島」

「ああ。月島軍曹殿でしたか」

それを聞いて、やってきた伍長たちがほっとした顔でそのまま風呂の方に歩いて行く。どうやら月島軍曹は鷹揚なのか意外と優しいのか風呂の順番ぐらいでは怒らないらしい。そういえば、さっきも怒らなかったしな、と同僚と頷き合うと、いよいよ自室へと急いだ。入浴前に洗濯だの武器の手入れだの済ませておかなければならないことが山ほどある。案外と時間が無いのだ。

二年兵が部屋に帰ってきたのでようやく自分たちの番だ、と自分で沸かした風呂に向かったのは夕食まであと三〇分という頃合いだった。一年兵の番ともなると、風呂は芋を洗うような有様で、人の多さに湯船も洗い場もむっとしている。早めに済ませてしまおうと桶のお湯を体にかけるのとほとんど同時に手ぬぐいで雑に擦って、さあ、湯船にと振り返ったところで、ぽかんとしてしまった。

「おい、どうした」

「あの......班長殿、が......」

最初に入った所からずっと端の方に寄ってしまっているが、一番に風呂に入りに来たはずの人物がまだ風呂に浸かっている。

「ああ、月島軍曹か。大丈夫、あの人は上がる前に下の者が入っても怒らないから」

「いえ、怒るとか怒らないとかではなくて。のぼせてるんじゃないですか」

見て見れば、血色が良いと言うよりすっかり茹だって赤くなっているように見える。

「いつものことだ。大丈夫だろう」

「でも、最初に入りに来たんですよ?」

すると、相手は感心したように少しだけ目を見張った。

「へえ......。まあ、月島軍曹殿ならさもありなん」

呑気に笑っている相手と、肩までお湯に浸かって動かない軍曹とを見比べていると、よっぽど不安そうな顔をしていたのだろう、男が月島軍曹を指さした。

「大丈夫だって。見てろよ」

そう言われたが、最初、何を見ろと言われたのか分からなかった。だが、そのうちに気がついた。小柄な軍曹殿は、誰かが上がって水面が下がるともぞもぞと首まで体を沈め、誰かが入って水面が上がると今度はもぞもぞ浮き上がり、常に顎の辺りにお湯が来るよう調整しているのだ。

「な。意識はあるよ。いつも風呂に入るとああなんだ。気がつかなかったか?」

言われて、ゆるゆると首を振る。誰も気にしていないようだったから、今まで不思議にも思っていなかった。今日は幼なじみと班長殿の話をしたばかりだったのと、風呂の当番だったのとで、この常識外れの長風呂にやっと気がついたのだ。

「月島軍曹の数少ない悪癖ってわけだ」

そうか、風呂の時間は一人だいたい二〇分。だけど、この風呂場に現れる者の中では一番地位が高いから、誰も何も言わなかったのだ。それに。

「風呂に一時間半かあ......」

いつもの厳つい御面相からすっかり力を抜いてしまっている班長の顔を見て、少し笑う。やっている違反があまりに突き抜けていてあまりに緩い。腹を立てる気にもなれなかった。

いよいよ、最後の初年兵も上がってしまい、とうとう班長殿だけになった。

――本当に、最初から最後まで入ってた......

邪魔をして良いのか悪いのか迷ったが、係になっている自分らからすると、時間通りに入浴を終えてもらって後の始末を付けないとどんな叱責が飛んでくるか分からない。思い切ってまだ目をつぶっている班長殿に話しかけた。

「あの......」

ぱっとその目が開いて、少し怯んでいると、

「ああ。もう終わりか」

短く言うと、班長殿はばしゃばしゃと顔をお湯で洗い出した。その手も首も顔もすっかり茹だってふっくらと赤らんでいる。顔を洗って目が覚めたのか、溶けたようだった顔にいつもの精悍な表情が戻り、ざばっと勢いよく上がった体も、弛緩していた状態から引き締まった筋肉が硬そうに鎧っている。

「すまんな。掃除は手伝う」

「え、いえ、滅相も無い」

「違反の償いだ。これで目をつぶってくれ」

いつの間にかこちらの手元から束子(たわし)を手に取った班長殿はそう言うと、ニ、と笑みを浮かべた。

「あ......はい」

――当たりだ。

思いがけないわずかな笑みに、突然、脳裏に浮かんだのは、幼馴染みが口にしたそんな言葉だった。

〈了〉

公式ファンブックのショート漫画でお風呂入ってスイッチ切れちゃったような軍曹が好きで,(本編では入れなかったけど)やっとお風呂に入れて良かったなあと思いながら書きました.水面下がるとこっそり肩まで沈んでるあたり,本当に「お湯に浸かる」という行為が好きなんだなあ.あと,鯉登少尉はお風呂に入れば鶴見中尉とお話ができるという.お風呂が全てを解決するよ!

実は下士と兵卒で入浴時間は別だったそうなので,実はお話のようにはならないし,11時から昼食も食べずに夕方まで入っていることになってしまう.さすがにそれでは仕事ができないし,指なんかシワシワになっちゃいそう.

資料:書籍

『新旭川市史』

気候なんかは「第一巻 通史一」を,兵営生活とか花街の地名は「第三巻 通史三」を参考にしました.入営日が12月1日なのは「第八巻 史料三」で知りました.最初,「冬支度」のテーマでSSを書きたかったのですが,当時の旭川で冬支度といえば何をすることなのかが分からなくて挫折しています.でも,12月1日が入営日なら,軍曹としての冬支度は初年兵を迎える準備なのかもしれないあなあと思いました.

「第八巻 史料三」は,北鎮記念館にも展示してある第七師団の『師団歴史』がまるまる収録してあって,興味を持って読むと想像が膨らみます.

『写真で見る日本陸軍兵営の生活』藤田昌雄・著(光人社)

入営とか入浴とか食事とか参考にしたりしなかったり.

資料:Web

蔵島 周さんのツイート @amane_kura

日露戦争時の日本陸軍や,明治時代の兵営生活,第七師団・屯田兵などのツイートをされています第七師団の風呂の写真とか第27 聯隊の兵営配置図とか思わず魅入ってしまいました.日露戦争中に陣中で行われた式祭の余興で兵卒たちが女装をして高級将校の宴席でコンパニオンをしている写真があって,三島なんかノリノリでやってそうとか,わくわくしてしまいました.