天気が良ければ日中は暖かいが、北国の秋だ、朝晩はぐっと冷える。
鯉登の家の縁側からこぢんまりとした庭を眺めると、板塀の向こうの木々がよい借景になっている。そのうちの何本かがナナカマドで、今年は紅葉の時期が早く、既に葉が真っ赤に染まっている。寒暖差が大きいほど鮮やかになるのだとどこぞで聞いたなと思いながら、鯉登は明るい赤を抜けるような青空に伸ばすナナカマドをぼんやりと眺めた。
九月一七日、九月一七日。
それは、幼い頃に心に重く傷を負った日だった。子どもの頃は、その日が嫌いで、来る度に泣きたくなり沈み込んだものだった。時が経ち、どうにかそれが普通に過ごせる日にはなったが。
――いつまで経っても思い出すものだな。
ぐっと口をへの字に曲げて、沈む心を誤魔化すように気持ち良いほどの青空を睨み付けたところで、声が掛けられた。
「鯉登中尉殿」
視線を下げると、板塀に設けた裏門に山鳩色の着物を着た小柄な男が立っている。
「どうしたんですか、妙な顔をして」
「来るなりどういう言い草だ、月島」
「思った通りを言いました」
遠慮なく近づいて来る月島は、腕に大きな木箱を抱えている。袖が邪魔だったとみえ、たすき掛けまでしているところをみると、それなりに重いのだろう。
「どうしたんだ、その箱」
「林檎ですよ」
「林檎?」
「佐藤が持ってきたんです」
「どの佐藤だ」
「伍長の」
「ああ、あのふくよかな奴だな」
「それです。佐藤の家は近くの土地持ちで、家で取れたのだと言って持ってきたんですよ」
言いながら近づいてきた月島は、縁側まで来ると、木箱を下ろした。鯉登は背後に手を伸ばして座布団を一枚引き寄せ、月島に差し出した。それを受け取ると、箱を挟んで向かいに敷いて、月島は腰を落ち着けた。
鯉登が木箱を覗き込むと、中には小ぶりながら奇麗に色づいた林檎が入っている。その数、二十は下らない。
「うまそうだな」
たすきを解いた月島が、やれやれと首を振る。
「私の家に箱で持ってきて『鯉登中尉殿にも』と言うもんですから、こうやって。――あなたのせいですよ」
「何が」
「日頃から用がなくてもやたらと私を呼ぶから、あなたに用事があると、皆うちに来る」
「用がある時しか呼んどらん」
何か言いたげなまま、月島はむっつり沈黙したが、鯉登は無視を決め込んで林檎を一つ取り出し、いきなりかぶりついた。
「うん、うまい。お前も食え」
「うちの分はもう取りました」
「そう言うな」
空いた手でもう一つ取り出し、ぽん、と放ると、受け取った月島は大人しく齧り付いた。
「どうだ?」
「うまいですね。少し酸い」
「うん。新しくて歯ごたえがいい」
二人で並んで庭を見ながらしゃくしゃく林檎を食べる。
一つを食べきった鯉登が箱に手を突っ込むと、月島は、まだ食べるのかと言いたげに目線を寄越したが、鯉登がそれを口にはやらずに上に掲げてしげしげと眺めだしたのを確認すると、何も言わずに視線を外し、庭の方を向いて咀嚼を続けた。
鯉登は視界の中のナナカマドの赤の横に、林檎の赤を並べてみた。種類の異なる赤は、どちらも秋を思わせる。
ちらりと横を見ると、月島はまだもごもごやっている。
――そういえば。
月島はもうすぐ定限だ。そもそも定限まで現役を許される者は少ない。よって、定限の数年前に身の振り様を定めて現役を離れる者がほとんどだ。だが、辞令的にも本人の意思的な意味でも、月島にはそのような様子は見られなかった。正直、あまりにも軍人が似合いすぎて、他の事をしている姿が思い浮かばなかったので、きっと定限のその日まで月島は軍に居るだろうと鯉登は思い、実際、月島は変わることなく家と兵営との往復を繰り返している。それが自然だと思い込んでいたが、あと三年、あと二年と旧るほどに、鯉登の方が何やらそわそわと落ち着かない心持ちになってきた。
そうして、とうとう一年を切ったところで、心を過ったのは。
――水臭いではないか。
鯉登と月島の付き合いはそれなりに――いや、けっこう――長くなってきた。かなり親しいとも思っている。なのに、予備役になってからのことを、月島は一向に口にしない。もともと自分の話をしない奴だが、自分にぐらい、現役を退いたらどうするとか、そういう話があっても良いのではないか。
空に掲げていた林檎を手元に戻し、もう一度横の男を見ると、月島は林檎を食べ終わって、指に付いた果汁を舐めている。
鯉登は肩を落とし、視線を落とし、無意識にため息を吐いた。
そうか、自分は寂しいのだ。
月島の定限のことが殊更に伸し掛かるのは、今日が九月一七日だからだろう。
「どうしたんです?」
問われた鯉登は、分かりやすかった自覚もあって、再び、ふう、と息をつき、視線を地面にぼんやり固定させたまま口を開いた。
「......今日は九月一七日なのだ」
「存じておりますが」
何を言い出すのやらと言いたげに、やや呆れた調子で首を振った月島だったが、鯉登が消沈したようであることに気がついたのか、スンとした顔つきだったのを物問いたげな面持ちに変え、次の言葉を待っている。
「あのな、清との戦争があっただろう」
途端に、月島は表情を硬くした。
「松島ですか」
「うん......」
打てば響くようだ。そうなるぐらいには長い付き合いなのだ。全てを言わずとも分かってもらえるという関係性は安寧で心地好い。
「九月一七日。黄海で松島が誘爆大破して、それで兄は居なくなった」
ちら、と鯉登は横に座る男を見る。
「お前もあの戦争に行ったのだろう?」
「はい」
ふう、と力無く鯉登はため息を吐いた。
「だからか、今日という日に殊更に思ったのだ」
そこで鯉登は、こちらを窺うように見つめる月島の方に向き直った。
「なあ、月島。お前の定限までもう一年も無いじゃないか。お前、その後は――」
鯉登はそこで思わず言葉を切った。月島が、突拍子も無いことを聞かされかのように、きょとんとした顔をしていたからだ。
何か誤魔化したいことがある時に、しばしば月島はこんな顔をする。だが、今のこれ、この顔は本気で驚いている。
そのまま一度瞬いた月島は、急にぎゅっと眉を寄せ、しばらく考えてから口を開いた。
「なんで私の定限があと一年も無いなんて思ったんですか?」
あんまりな質問にぱっかりと口を開き一瞬止まってから、鯉登は急に捲し立てた。
「そりゃだって、お前。だって、兄さあが生きていたら今年で四十だ。お前は入隊後すぐに清に行ったと言っていただろう? 兄さあもそうだ。だから――」
鯉登の言を聞くにしたがって月島の表情が変わっていく。そうやって月島は、最後に納得の色を見せて、
「ああ」
と曰った。鯉登が不満げにじっとりと睨めつけ、
「ああ、ってお前......」
と、その軽い調子を咎めると、
「あのですね、食えなかったんですよ、私。食っていけるような活計が思いつかなかった」
「うん?」
急に違う話をされたように感じて鯉登が声を立てたのと、月島が頷いたのは同時だった。
「一七の時に志願したんです。私の定限は三年後です」
「さんねん......?」
ぽかんとして鯉登が固まると、月島はまるで宥めるような調子で話し出した。
「腹一杯飯が食えて、給金まで出るというし、志願兵は下士候補で通常の兵役後も軍人を職に出来ると聞いたんです。手に職があるでなし、学があるでなし、俺は一日も早く自分で食っていけるようになりたかったから、渡りに船だったんですよ」
「ああ......」
気が抜けて、鯉登の伸ばしていた背がぐんにゃり丸くなる。
「通常だと、満年齢で二十になった四月に徴兵検査を受けて、そこで甲種になったらその後の一二月だか一月に選ばれた者が入隊でしょう? 俺には待てなかった」
月島は少々口を曲げ、言いたくなさそうに、それに、と続ける。
「この通り、俺は背丈がそんなにありません。ですが、一七で検査を受けると、身長の基準が少し低いというんです」
「伸び代込みということだな」
「おそらく。二十になるまでに伸びるかどうかも分かりませんでしたし早いに越したことはないと思いました。そうは言っても、試験の時は四尺九寸あるかが一番心配だった。身の丈なんぞ計った事もありませんでしたから。身体が丈夫ならちょっとは大目に見てもらえるみたいでしたが」
「お前の体格なら大丈夫そうだがなあ」
「当時は、今より痩せてたんですよ。まともに食えないもんですから、筋肉なんぞつくわけもない。それでとにかく志願しようと思って、四月一日の生まれということになっていたから、十七になった途端に――」
「『ということになっていた』とはどういうことだ」
本筋で無いところで話の腰を折られて月島が怪訝な顔をしたので、鯉登は言葉を重ねた。
「お前は本当は四月一日生まれではないのか?」
「はあ。一応、戸籍上はそのようです。でも、親が届け出だのなんだのまともにやるような人間じゃありませんでしたから、怪しいもんだと思っています。だいたい、俺は名前だって知らなかったんですよ」
「待て」
鯉登の理解を超えた発言が飛び出して、思わず相手の顔の前を遮るように手を揚げる。
「名前を知らないって、自分のか」
「はい」
「そんなわけ――」
「あったんですよ」
面倒くさい、を内包した月島の無表情を、鯉登は久しぶりに見た。
「親は『おい』か『お前』としか言わないし、村の連中には『月島の所のくそ坊主』とか『悪童』と呼ばれてましたから」
聞かされて鯉登は、ばつが悪そうにうろうろと目を彷徨わせたが、そろそろと質問した。
「それじゃ、お前、どうして名前を知ったんだ。それこそ、志願した時に聞いたのか」
「いえ」
身体も顔も巌みたいな男が、そこで、ふ、と淡い表情を浮かべた。
「妙な女の子がいたんですよ」
気づいておられるとは思いますが、俺の子どもの頃というのは碌なもんじゃありませんでした。食い物にも事欠いていて、いつも腹を空かせていました。盗み? ええ、もちろんしました。畑の物を取って食ったり、店に並んだ物をくすねたり。米? 米は腹がくちるように思えなかったから盗りませんでした。炊いたらあんな物になるなんて、思いも寄らなかった。最初に思いついた人はたいしたもんですね。
ええと、それで。
その子が話しかけてきた時、俺は朝から碌な物が獲れなくて磯を見ながら座り込んでいました。何か獲るにしても、獲るための体力は要る。魚であれ蟹であれ今見かけても、もう一歩も動けないと思いました。まあ、本当に見つけたらたぶん動くんですが。だって、食わなきゃ死にますから。だけど、自分から探しに行く元気がこの時は擦り切れて無くなっていました。
へたり込んでいた時に、後ろから急に声を掛けられたんです。何やってるの、と。傍目にはぼんやり海を眺めているように見えたんでしょう。俺はすぐに後ろを向いて相手を睨み付けました。そこに居たのは、くるくるとしたくせっ毛の同じ年頃の女の子でした。
睨み付けたと言いましたが、腹が空いて腹が空いて、ちゃんと睨めてもいなかったのかもしれません。その子は俺の様子をちょっと眺めて首をかしげ、それから、お腹空いてるの、と訊きました。
俺はむっとして何も答えませんでしたが、その子は俺の様子には頓着せずに、ちょこんと俺の隣に座りました。そうして、手に持っていた竹皮の包みを開きました。そこには握り飯が一つありました。見ていると、その子はそれを半分に割って、はい、と俺にそれを差し出しました。
そのんこと――失礼。そんなことをされたことが俺にはありませんでした。これが、一つ丸々渡されたのだったら、あるいはいかにも華奢な子どもでなくて大人だったら、俺は差し出された物を掻っ攫って、誰にも見られない所まで逃げてから食べたかもしれません。......いや、話はもっと単純で、腹が空き過ぎていたせいで動けなかったからかもしれません。
とにかく、俺とその子は並んで半分ずつ握り飯を食べました。それで足りたわけじゃありませんが、食べ終わったら何か落ち着いたような気分になりました。そうしたら、その子が訊いてきたんです。
名前は何て言うの、と。
俺には「名前」が何のことか分かりませんでした。知らねえ、以外の答えはありませんでした。ただ、知らねえ、と言った時にその子が残念そうな顔をしたのに怯んで、声が尻すぼみになりました。なんでだか、そういう顔をさせたくなかったのです。
それきりになると思いました。
ところが、何日かして、俺がその辺の木の実やら草やらを囓っていた時に、その子が何かを探しているのを見かけたんです。今度は俺が、どうしたんだ、と声を掛けました。そうしたら、その子は、ぱあ、と嬉しそうな顔をするんです。
その子は俺を探していたのだと言いました。名前が分かったから教えようと思ったと言うのです。目端の利く子だったんです。俺の名前を知っている人を考えて――
「役場にでも行ったのか」
鯉登が口を挟むと、月島は緩く首を振った。
「もっと身近な人間です。少なくとも、俺の村ではそうでした」
目だけで鯉登が問いかけると、月島は頷いた。
「寺です。お寺の過去帳に書いてあるかもしれないとその子は考えたのです。実際、それが一番良い方法でした。俺の名前を付けたのは寺の住職だったのです」
あなたの家は江戸時代なら士族でしょう。少なくとも、今は間違いなく知識階級だ。でも、下々はそうはいかない。ぱっとした名前どころか字だっておぼつかない奴もざらにいる。なので、坊さんに名付けを頼むことはそんなに珍しいことではないのです。
その子は坊さんに俺の名前を聞き出してきたのです。嬉しそうに、「はじめ」って言うんだよ、と俺に言いました。そうして、俺の手を取って引っ張るんです。字を教えると言って。砂浜まで俺は引っ張られるままについて行きました。知っての通り、俺の名前は画数が多いので、その子が砂に書いた「基」という字はやたらと大きくなりました。文字というのを見たのは、それが初めてでした。どういう順番で線を引けば良いのかも分かりませんでしたが、俺はそれを真似て隣にその字を書きました。そうしたら、その子はたいそう喜ぶのです。どうして喜ぶのかまったく分かりませんでしたが、俺も嬉しいような気持ちになりました。
「......月島ぁ」
なんとも言えない心持ちになって、鯉登が名を呼ぶと、はたと月島は口を噤み、それから、あー、と意味の無い声を出しながら目を泳がせた。
「何の話でしたか」
「お前の名前の話だ」
「いや、違う。最初は違ったでしょう。定限の話だった」
月島が話を元に戻したのが、鯉登はなんとなく残念になった。酷い話ではある。酷い話ではあるのだが、話す間の月島は、この男には珍しくそれはそれは穏やかな顔をしていて、その思い出が月島にとって大事な物なのは分かったし、そういう物がこの男にもあったことに安堵したし、何よりそれを開陳してもらえたことが嬉しくもあったのだ。
だが、穏やかな表情を仕舞い込んで、月島はピンと背筋を伸ばした。釣られて鯉登の方も姿勢を正す。
「函館で、私に右腕になってくれと言ったでしょう」
言い方はちょっと違いましたが、と確かめるように月島がこちらを見つめるので、鯉登ははっきりと首肯した。
「言った」
「あれは今も有効ですか」
「当然だ」
疑問の余地を挟ませないために、被せるように鯉登が答えると、月島の方も単に確認をしただけだったようで、しっかりと頷いた。
「承諾の返事をした時から、ずっと考えていました。俺はあなたより一回り年上で、しかも将校より定限が早い下士です。それに、軍の人事権は私たちにはない」
うん、と情けないような気分で鯉登は頷いた。結局のところ、右腕にしただの右腕になっただのは当人たちの勝手な心の持ち様で、そんな制度は軍には無い。
「こないだあなたが大学校に推薦されると聞いて、やっと一区切り付いたと思いました」
「そんなお前、肩の荷を降ろしたとでも言わんばかりなことを――」
恨めしく声を上げた鯉登に向かって、まだ待てというように月島は鯉登の顔の前を手のひらで遮った。
「将官の配属先は全国だ。大学校を出たら、どこに配属になるか分かりません。あなたは私の定限を気にしているようですが、軍という組織に於いて、私が傍にある期間は、そもそももう残り少ないのです」
「月島ぁ......」
情けない声を出した鯉登に向かって、月島の方は静かに視線を注いだ。
「鯉登中尉。私は函館であなたを支えると決めました。能力が及ぶ限りはです。俺は、ずっとその方策を考えていて、何も軍においてのことばかりではないだろうと最近ぼんやりと思うようになりました。まだ決まったことはないのですが、あなたが俺をまだ右腕にというのなら」
いったん言葉を切った月島が、ぴっしり背筋を伸ばして言い渡した。
「何か考えます。どこに行っても連絡だけは絶やさないように」
それは、久しぶりに教育係のような物言いだった。ぽかんとしていた鯉登の顔に、徐々に笑みが戻ってくる。
「貴様、二言はないな」
「ありません。だいたい、右腕云々はあなたが言いだした話じゃないですか」
「分かった、信じる」
ふ、と静かな笑みを月島は浮かべた。
「そういうところ、貴方の良いところですね」
「何が」
「前提も打算も無しに人を信じるところですよ」
彼の右腕は嬉しげな表情を僅かに閃かせた後で、庭の方に顔を向け、天に伸びるナナカマドの赤を見ながら、ふ、と、遠い目をした。月島の中に過った人物が思い当たって、鯉登はしばし口を噤んだが、払拭したくてわざと声を上げた。
「人は選んでいる。お前だからだぞ」
名前の通り誰かの基で在り続けてきた男は、鯉登の方を向いて少し驚いたように目を見張ったが、満更でもなかったようで、その目を少し和らげた。
まだまだ、この男とは長い付き合いになる。この男がそう約したからには、きっとそうなる。
鯉登は蒼天に映える赤々としたナナカマドを見上げた。一人で見上げていた時には鬱々としていたのに、今はその赤が清々しかった。[了]