頼む、さっさと出てくれよとホッパーはほとんど祈るように、耳に押し当てた受話器から流れる発信音をきいていた。 ギースタワーの地下駐車場。限られた者しか知らない最上階へのエレベーターがある秘密の通路に設置された電話をホッパーは握り締めていた。そばに止めた車の中のビリーを恐怖の目で見つめながら。幸い、まだ目を覚ましてはいない。 むこうが電話に出る音が聞こえた。 ビリーが起きるのを恐れてホッパーは囁き声だ。 そこで、リッパーの声が遠ざかった。と思ったら、違う声が受話器から流れた。 電話は無情にも切れた。 普通でない人間は普通でない人間に相手をしてもらうに限る、と判断して電話を入れたと言うのに。 この先、まだこの人をかついでいかなきゃならないのか・・・ ホッパーは泣きそうになりながらビリーを背中に半ば担いで引きずっていった。 エレベーターという狭い閉鎖空間はさらに恐怖だった。 どうか気がつきませんように、どうか気がつきませんように。 このさい、助けてくれるなら何にでも宗旨がえしてやる。 最上階直通エレベーターの扉が開いたとき、ホッパーは安堵のあまり大きく息をついた。そのとたん、ビリーが身動きしたもんだから、ホッパーは思わず、ビリーの体をほうり捨てた。 覚醒したビリーをホッパーは化け物でも見る目でみつつ、ペタン、とへたり込んだ。実際、いまのビリーは化け物と言ってもおかしくなかったが。意味もなく口をパクパクさせる。 とたんにビリーはギースのいる執務室へ駆け出した。 ホッパーは悲鳴のような声をあげた。 その声はもちろん、執務室にも聞こえた。 やっと来たか、どうしてくれよう、とギースは思った。 次に クソおやじというのがどうやら自分の事をさしているらしいのに気がつき、怒りをあらわにしたギースだったが、よく考えてみればその声が他ならぬビリーであることに思い当たって不信を覚え、続いて現れた声の主の変わり果てた姿に驚愕し、さらにその人物が一直線にギースに襲い掛かるのを見て思わず当て身投げし、投げた相手がピクリともしなくなった事実に慌てふためいた。 ちょっと揺さぶってやったが、ビリーは動かない。 ギースと同じく驚いてその光景をみていたリッパーだったが、やっと立ち直ってビリーに近寄る。 リッパーは思い当たってビリーを抱えてギースから離れる。その行動を見てギースは不思議そうに言った。 銃まで構えられちゃってさすがのギースも焦った。 そこへ第4の男、登場。 やっとのことで執務室までたどりついたホッパーとギースとを見比べてリッパーは不思議そうな顔をした。 やすらかにビリーは眠っている。ソファーの上で。 リッパーとホッパーが見張りを仰せつかっているのだが、2人とも内心ビクビクものだ。 ギースはといえば、時間を区切って調べさせた報告書を読んでいた。 え? カーンさん? なんでも、妹がいなくなっちゃったってひどく心配してたけど。うちにも尋ねてきたのよ。 ほんとうに、いいお兄さんね。 日曜なんかに嬉しそうにベランダで洗濯物干してたりして、私と目が合うと「おはようございますッ(きらきらきら)!」とかご挨拶してくれて。 娘を嫁にやってもいいわなんて思ってるんですよ。 なんでも、ギース・ハワードの側近に同姓同名の人がいるらしいけど・・・お隣のお兄さんはあんな良さそうな人なのに、世間には悪い奴もいるもんだわ。 妹さん、まだみつからないんですか? どうしちゃったのかしらね。誘拐でもされたのかしら・・・ リリィにあんなかっこいいお兄さんがいるって知らなかった。それに優しそうだったし言う事なしね。 名簿片手にリリィを探し回ってたみたい。それでうちにも来たのね。顔色が悪くってほんとうに心配してるってのがここまで伝わってくるの。 礼儀正しくて、お母さんもお父さんも気に入ってたみたい。そんなに根を詰めてもしょうがないからってうちで食事するように薦めたんだけど、丁寧に断って出てっちゃった。 そうよね、あのリリィのお兄さんだもん、いい人に決まってるわよね。 リリィ、はやく見つかるといいのに。 きいてくれよ! あいつ、いきなりサラマンダーで突っ込んできやがったんだぜ? サラマンダーで。ホテルだってのにおかまいなしさ。扉燃やして入ってくるなり、 人の話しなんか聞いちゃいねぇ、やるだけやって、すっとんで行きやがった。冗談じゃねーぜ、ったく・・・ 内心、行きたくなかったのだが。 既にどこ見てるんだか定かでない、ソファに浅く腰掛けうつむきがちのビリーの前に取って置きのお茶とヨーカンなんか出してやって、上質のスーツに身を包んだギースは沈黙を保っていた。 確かに、怖い。ビリーの背後に黒雲がよどんでいるのがなんとなくわかる。 おとがめなしの上にお茶まですすめてくれちゃうのだから、ギースがどれだけ内心にびびっているかわかろうというものだった。 短い感謝の言葉を残し、でっかく『醤油』とか書かれた湯飲みを手に取って、ビリーはこくりと緑茶を飲み込んだ。味覚なんかとっくの昔に死にかけているから、普段のビリーだったら口に含んだ瞬間吹き出しそうに苦いお茶も彼は全く気にかけなかった。 ふーっ、と、長い長い吐息がビリーの唇からこぼれた。ギースはギースで、『大悪党』と大書された長年ご愛用の湯飲みを片手にシブーイお茶を飲み下し、片目でビリーのうつむいた顔を見やった。 ビリーの口から、ぽそりとかすれた声が流れ出た。 できそこないの味噌汁みたいに濁った視線が一気に剣呑な光を帯びる。ギースはビリーに最後まで言わせる愚を犯さなかった。 軽く片手を掲げ、パチンと指を鳴らす姿がまた絵になる。実にギース・ハワードとは王者の気質であった。 リッパーが最敬礼でもってすっ飛んで行くのを見送って、ギースはこの期に及んで三節棍を手放していない部下に、肩をすくめつつ言ってやった。 珍しいくらいの優しい言葉は、ただ単にビリーを刺激したくない一心だったりするのだが、案の定ビリーはそんなもの聞いちゃいなかった。 だんだんのろけになっていく。はいはいとあいづちを打ってやりながら聞いていたギースであった。 のろけているぶんには安全だろうと思っていたギースは、しかし目の前の手負いの兄が自分の予測の範囲を遥かに越えた世界に生きていることを思い知らされた。 一秒前までのろけていたビリーが、突如唇を噛んだと思うとぼろぼろ大粒の涙をこぼし出すではないか。 えぐえぐやりだしてしまったビリーを前に天井を仰ぎ、ギースは今一度片手を掲げて指を鳴らした。 ギース秘蔵の大吟醸やらグラスやら塩辛やらを抱えてホッパーが飛んでくる。 ビリーの手にグラスを押し付け、手ずから酌をしてやる。 まこと、ギース・ハワードとは優れて王者の気質であった。 また一つ、ぱちんと指を鳴らすと、ギースは言った。 勝手に深みにはまり込んでいく部下を見つつ、これは暴れられるのとどっちがいいか、などとギースは考え込んでいた。 時間は流れていく。 ビリーは暗い顔で日本酒をなめ、ギースはギースでうにクラゲが食べたいななどと思ったとき、リッパーが駆け込んできた。 とたんにビリーは三節棍だけ持って部屋から飛び出した。 ギースはため息をひとつつき、場所をメモしてやれとリッパーに言った。 出ていったときと同じぐらいの騒々しさでビリーが帰ってくる。 ギースは黙ってメモを渡してやった。 今度こそ本当にビリーは立ち去り、ギースはやれやれと首を振った。 それで45なんだから、まったく・・・と秘書2人が同時に思った事などギースに分かろうはずがなかった。 |