第3回

リリィの行方
もしくは
ビリー、上機嫌

 限界をはるかに越えて酷使されていたビリーの肉体と精神は、結果的に休息と栄養を取ったことによって、ただいますこぶる絶好調であった。『アルコールからカロリー摂取』というのは、有効ではあるが非常な荒業で、実際医者も点滴も間に合わないような時、病人に無理やり酒を飲ませて一命をとりとめたという嘘のような本当の話も伝わっている。

 彼の瀕死だった精神は、妹の所在が判明したことで生気を取り戻した。いつもの調子になりさえすれば、ビリーにとってたかが二人で一升瓶一本分相当の酒など水同然であった。

 ホッパーが彼を積み込んできた、ホッパーの通勤用私物であるはずの車の合鍵を顔パスで駐車場窓口から借り受け、気持ちよくアクセルを踏み込む。カーブもノンブレーキでクリアするドライビングテクニックに乱れは全くない。
「リリィ、お兄ちゃん今行くからなっ……」

 ああ、なんて声をかけたらいいだろう。『こんにちは』。いや、間抜けだ。『久しぶりだな』。いやいや、これも変だ。『心配したぞ?』……いきなりこれじゃあなあ。そうだ、リリィの欲しがってたぬいぐるみがあったな。ニッポンのあの黄色いネズミ、なんてったっけ、でっかいのを買って持っていったら喜ぶかなあ。いやまて財布を持ってなかった、リリィと一緒に買いに行こう、その後一緒にメシでも食って映画でも見て……(後略)

 兄のドリームは、とどまるところを知らぬかのような勢いで展開してやまなかった。ギースかリッパーかホッパーが見たら、ある意味さっきまでの状態より怖いと言って遠い目をするか見なかったふりをするか泣き崩れるかであったろう。

 頭に完璧にたたき込まれているサウスタウンの地図上の座標と、渡されたメモに書かれていた住所が重なる。ビリーはその卓越した運転技術でもって制動距離を最短まで短縮し──ぶっちゃけた話そりゃもうものすごいブレーキ音を立てさせて──、車が止まるより早く、ドアを蹴破らんばかりの気合いでもってそのまま車外に転げ出た。

 一回転してくるりんしゅたっと立ち上がる。ぱすぱすと肩の埃を払って真っすぐ前を見つめ、ビリーは前置きなしで駆け出した。

 東洋の香り高い重厚な木製の門を、棍を操りジャンプ一発飛び越えて、10点満点の着地を決める。
「リリィっ……」

 嬉しそうに妹の名を呼んだビリーの前で、例の白地に青いラインの入った道着姿のキム・カッファンが、息子とおぼしき二人とともにきょとんとしている。ビリーもまた、忙しく瞬きをした。
「キムじゃねえか!あれ、じゃあここ……」
「ビリー・カーン!?いや、ここは我らがテコンドー協会のサウスタウン支部で、今回家族ともどもこの道場にやっかいになっているのだが……貴君、今までどこで何をしていたのだ?」
「何ってそりゃあんた、俺はうちの妹探して……そうだよここにいるって聞いて飛んできたんだよ、俺のリリィどこだい?」
「何度かけても貴君に電話が通じない、と言って心配しておられたぞ?心配だからうちに帰る、と言って先程ここを出てゆかれた」
「何ィ!?」

 確かにこの三日間、一度も家に寄り付かなかったから、電話に出なくて当たり前ではあった。電話に留守番機能を導入しておかなかったことをビリーは心底後悔し、さっそくサウスタウンさくらやなりサウスタウンビッグカメラなりにでも行ってこよう、と心に決める。
「そうか、邪魔したなッ!」

 挨拶がわりか、振り返りぎわにスチャッとばかり人差し指と中指をそろえてVサインなど切る。や、否や、ビリーは来た道を寸分違わず逆に辿るダッシュを開始していた。
「ウリャァ!」

 気合一発再び門を飛び越えて、着地音とおぼしき音がキム親子の耳に届いた一秒後には、エンジンスタート音が鳴り渡っていた。
「リリィ待ってろよーーー!!」

 ヴォン、ギャキャキャキャ、ガロォォォン!! すさまじい爆音を残して走り去る。

 言いたいことだけ言い、聞きたいことのみを聞いて疾風のように姿を消したビリーとビリーの車が消えた方に、キムはひらひらと手を振ってやった。彼は何故にわざわざ『開いている』門を飛び越えてきたのだろうか、と思いながら。
「とうさん、あの人がリリィおねえちゃんのお兄さん?」
「うん?ああ、そうだよ」
「なんだかかっこいいねえ!陸上の選手みたいだ!」
「ぼく知ってるよ、あれ棒高跳びっていうんだよ」

 すごいねえかっこいいねえとわきゃわきゃ言い始めた愛息二人を微笑ましく見守って、キムは二人の黒い髪に大きな手を置いた。
「さあ、ドンファン、ジェイフン。もう夕方だ、戻って食事にしよう。ミョンサクがおいしい夕飯を作って待っているよ」

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