第4回

感動の再会
もしくは
哀愁のホッパー

 ビリーが飛び出して行ってから、小一時間ばかり経っただろうか。

 元が多忙なギースの秘書その一は、『ビリー・カーン』の名前の横の『遅刻』に『直帰』を書き加え、サングラスを直して帰宅の途につくことにした。泣きそうだったホッパーを見兼ねた主が30分とはいえ早退希望の訴えを許可してしまったため、結果的に彼の仕事が増えてしまったものだから、普段温和で売っている(と自称している)リッパーはすこぶる機嫌が悪かった。

 とは言え、きちんと増えたぶんの仕事を整理し、ホッパーに押し付け返すぶんを過不足無く決定済みなあたり、彼もさすがの敏腕秘書であった。

 地下駐車場に姿を現し、ポケットから車のキーを取り出したリッパーは、半ば予想の範囲内にあったものを見いだしてため息をついた。
「……ホッパー。キーは受付に預けない方が良かったな」
「……リッパあああああ」

 くるうり、と振り向いたホッパーにハンカチを差し出してやる。ホッパーはハンカチとリッパーをしばし見比べ、ハンカチを受け取ると威勢よく鼻をかんだ。
「……俺のマリリンがあああああ」
「モンローか」
「違うっ!俺のトランザムの名前だよ!」

 そんなもんにそんな名前付けてんじゃねえ、とはリッパーは言わなかった。それは特別彼が優しいからではなく、それをつっこんだら今のホッパーは確実に暴れるであろうことを察知したからであった。

 愛車にすがってよよとばかり泣き崩れているホッパーを見やって、リッパーは再度ため息をついた。

 生気を取り戻し、比較的正常な思考能力を回復させたビリーであれば、移動に徒歩以外の何らかの手段を選択するであろうことは簡単に予測がついた。ビリーの単車は家に置きっ放しであろうから、コネクションの車の一台でも持ち出したかと思っていたが、彼はもっと手っ取り早いやり方を選んだらしかった。ビリーらしいと言えば非常にビリーらしい行動である。完全に復調したようで、重畳ではあった。
「ビリーのことだ、受付で顔パスなのを幸い知ってる相手の車のキーを強奪……いや、しばらく拝借するくらいのことはするだろう。無事に戻ってきているんだからいいじゃないか」

 慰めてはみたが、ホッパーの嘆きは止まらない。リッパーはそっと尋ねてみた。
「傷でも付けられたのか?」
「……マリリンのタイヤが……」
「タイヤ?」

 視線を落とし、リッパーは一瞬目を疑った。そこからは、刻まれているべきものが見事に削り落とされていた。
「……どういう運転したら一時間でここまでタイヤが減るんだよううううう」

 ブレーキ踏んで一回キキッって言ったら1000キロ走ったのとおんなじくらいタイヤが減るんだぞっ、一なき1000キロ理論って言うんだぞっ、こないだ日本の論文で発表されたんだあああ、と叫んでホッパーは泣き出した。リッパーは三度めのため息をついた。
「請求書を出しておいてやる。月末、ビリーの給料から天引きしておいてやるから泣くな」
「うわああああああん!!」

 はいはいよしよし、かなんか言いながら、そのマリリンの運転席がわの扉が妙な歪み方をしていることに気付いてしまったリッパーは、タイヤ代プラスアルファの金額を即座に弾き出した。修理屋には俺から連絡しておこう、と心に決めて、リッパーはこそりとホッパーに耳打ちした。

 泣いていたカラスがぴたりと泣き止む。
「……マジ?」
「激マジだ」

 そのかわりこれは最終手段だからな、絶対多用するなよ、と付け足して、ホッパーが頷くのを見届けると、リッパーは肩をたたいてやった。
「今日はマリリンは置いて帰ることだな。送ってやる、乗れ」
「うん……」

 涙を拭き、おとなしくリッパーにくっついて、ホッパーは彼の愛車・レクサス(『日本名ウインダム』のCMでおなじみである)の助手席に乗り込んだ。
「あれ?リッパーのレクサス、黒だったっけ?」

 黒い車体を誇らしげに輝かせるレクサスに軽い違和感を感じて何げなく尋ねると、リッパーはわずかに遠い目をした。
「ちょっと気を抜いた隙に持ち出されてな。戻ってきた時は廃車になってないのが不思議なくらいだった」
「…………ごめん」
「なに。倍返しで請求してやったからな、お陰で新車を買えたしあいつも二度と俺の車を持ち出そうとはしなくなった」

 ニヤリと笑った先輩の横顔に薄ら寒いものを感じ、ホッパーはこの人だけは怒らせないようにしようと密かに決意したのだった。



 夕闇迫る、サウスタウンのとある通り。

 さすがに無断で借用したまま家まで乗っていくのは悪いとでも思ったか、駐車場にマリリンを返したビリーは世界記録保持者もびっくりのペースで突っ走っていた。
自転車くらいだったら平気ではねとばしそうな勢いで走っていた彼は、スイートホームの見える所まで来てようやく速度を落とした。

 家の窓には、明かりが灯されていた。
「リリィっ!?」

 どばあん、と盛大な音を立てさせてドアを蹴り開ける。ビリーがそのままダイニングキッチンへ突っ込んでいったのと、金色のおさげが振り返ったのはほぼ同時だった。

 白い、フリルのかわいいエプロンは、リリィの去年の誕生日にプレゼントしたものだった。

 リリィの手が握っているフライパンは、今まさに黄金色のオムレツを──それもビリーの好きなハムとチーズが入ったやつを──焼き上げたところだった。

 リリィの綺麗なブルーの瞳が、人懐こくあの微笑をたたえる。
「──お兄ちゃん、遅い!」

 天使もかくやの輝くような笑顔が、全開でビリーを出迎える。

 ビリーの手から、今の今まで固く握りしめられていた三節棍が離れて転がった。
「……お兄ちゃん?」

 困惑したように呼びかけるリリィの声を、どこか遠くから聞こえてくるようにビリーは思っていた。

 へなへなとその場に座り込んだ兄に、リリィは慌てて駆け寄った。
「お兄ちゃん!?どうしたの!?」
「……だいじょぶ、だいじょぶだよリリィ……」

 ひらひら、と手を振ってはみせたものの、ビリーはそこまで言うのが精一杯だった。涙で目の前がにじんでしまう。

 言葉も出ずにぼろぼろと涙をこぼしだした兄に、リリィは悲しそうに首を傾げてそっとレースのハンカチを差し出した。
「泣かないで、お兄ちゃん……。心配させてごめんね、もう黙って出ていったりしないね」

 優しい謝罪の言葉に、ただもうぶんぶん首を振って、ビリーはしばらく声も出せずに泣いていた。
「お兄ちゃん、泣かないで……ね?」

 謝るなっお兄ちゃんが悪かったっ、かなんか言いたいらしいのだが体がついていっていない。優しい妹に慰められて、彼はひたすら感動していたのだった。

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