蕗の下の人の赤い花 - 3 -

なんとなく気配を感じて目を覚ます。

起きてみると、掻巻(かいまき)を肩に掛けて胡坐を掻いた月島が、本を畳の上に置いてじっと腕組みをしていた。

寝起きのぼんやりした頭で意外と筋肉がみっちり詰まった人だなと思った。これだけ鍛えているなら、体術も相応の物なのだろう。そこに日清からの古参兵という裏付けがあって、大隊長の「無理だな」発言になったのだろうか。

そこまで考えたところで、突然、相手が上官だったという事実が意識に(のぼ)ってきて一気に目が覚めた。椎久は慌てて布団の上に正座して縮こまった。

「申し訳ありません。寝過ごしました」

「ん? ああ。いや、まだ早い」

日の出は過ぎているのだろう、薄ぼんやりとではあるが障子の向こうが明るい。

「寝なかったのですか?」

「寝た。起きてしまっただけだ」

会話の間、ずっと月島は本の表紙を見ている。椎久は本と月島を何度か見比べた。

雨は小降りのようで、雨音が昨晩のようには強くない。ただ、時折、大風が吹いてみしみしと建物を揺らした。

月島は考えに(ふけ)っている様子でしばらくそうしていたが、やがて立ち上がり、上衣と軍袴を身につけだした。椎久も干してあった軍袴を手に取った。生乾きだったので、困ってしまって眉根を寄せる。下に着る襦袢と袴下は着替えを持ってきたが、兵営を離れている今、上衣・軍袴は替えが無い。迷ったが、履いているうちに乾くだろうと思って、軍袴はそのまま履いた。上衣を火鉢の近くに寄せていると、月島が訊いた。

「乾いていないか」

「あと少しだと思います。襦袢と袴下を洗わせてもらおうと思うのですが、軍曹殿の分も洗いましょうか」

「いや、俺のはいい。お前は早く洗わせてもらった方がいいだろう。少なくともそこに丸めてある昨日のはさっさと洗って干した方がいい」

「はい。ついでに、朝食を頼んできます」

「ああ、頼む」

椎久が朝食を頼んでから服を洗いたいと伝えると、客が他に居ないせいか、女中が他の物と一緒に洗ってくれるという。

「大部屋はどうしても温かくならないからね。もうちょっと乾きやすい所に干してあげますよ」

恐縮しながらじっとり湿った服を渡して大部屋に戻ると、そう経たないうちに朝食の膳が届けられた。

「雨は収まったみたいだね。風酷いから船の様子はまだ分からないけど、もう少し経ったら港に訊きに行ったらどうだい」

宿の主人に言われて月島は頷いた。

「ああ、そうしてみる」

それで二人で手早く飯を掻き込んだ。出ようかという頃には、椎久の軍服もどうにか乾いていた。外套を身につけて外に出る。風が強いので寒いと言えば寒いが、昨晩ほどの大風では無かった。

宿から港はすぐだ。既に何隻か桟橋に小さめの船が着いていて、人足が荷物を下ろしている。沖の方を見ると、湾を抱え込むように何かが陸から伸びていて、椎久は首を捻った。

「どうしたんだ」

「ああ、いえ、あれは何でしょうか」

「あれ?」

「あの、岩にしては真っ直ぐな灰色の」

椎久が手を伸ばして指す物が月島には最初分からなかったようだったが、やっと理解して頷いた。

「防波堤というものだ。俺が小樽に居た頃に作られた。あれがあると港の波が小さくなるそうだ」

「では、あちらの高い桟橋のような物はなんでしょうか」

椎久が指さしたのは、防波堤の内側、港に突き出た建造物だ。

「あの辺りは手宮か。......なんだろうな。あれは俺が居た頃には無かった。桟橋にしては高すぎるが」

この人は小樽に居たことがあるのだ、と思いながら椎久は月島の様子を窺う。目を眇めて海を見ていた月島はすぐに興味を失って、行くぞ、と声をかけてきた。そのまま二人は港に建つ建物に行き、事務員に声をかける。

「もし」

例によって月島は〈愛想の良い軍人さん〉に切り替わっている。事務員が手を止めてこちらを向いた。

「はい、何か」

「南からの船は再開したか分かりますか。青森からの船を待っているのです」

「ああ、大丈夫だと思いますよ。ただ、嵐を待避していた船がたくさんあって混雑しているから、落ち着くまでは先に近辺にいた船の出入りを待ってもらわないといけないと思います」

「なるほど、ありがとうございます」

聞くだけ聞いてしまうと建物をすぐに出て、月島は宿に向かって歩き出す。寄り道しようとする様子も無い。宿に着いてみると、ちょうど主人が縁側の電話でしゃべっているところで、二人を見てすぐに手招きした。

「あ、今、帰ってきました。軍曹さん! 札幌の聯隊からだって」

「分かった、ありがとう」

月島が急いで靴を脱いで電話に出る。椎久は一歩下がって横で漏れる会話を聞いた。そんなに長くはかからず、受話器を置くと月島が部屋に向かって歩きながら説明した。

「船はもう出ているそうだ。小樽に着くのは夕刻を予定している。小樽の天気が収まってきているのも伝えた。第二十五聯隊もその頃に合わせて到着するそうだから、港で合流する」

障子を開けて大部屋に入るなり、月島が椎久の方に向き直った。

「今日の夕方まで時間が有る」

「?」

少し迷うような様子を見せてから、月島は椎久を見上げてゆっくり言った。

「お前、あの子どもを探してきてくれないか」

「あの白い手の?」

ああ、と月島は考えるような調子で言った。

「引っ張り込もうとしたから、もう懲りて向こうからは来ないだろうと思うのだ」

月島は少し下を向く。そこには手が差し込まれていた小さな窓がある。

「アイヌ衣装の子どもが一人で小樽の街を歩いていたなら目立っただろう。誰か見ている者がいるかもしれない」

「手が出るのは我々が来る前からのようですし、その可能性はあるかもしれません」

「アイヌ語は俺には分からん。見つけ出したら、話を聞いてくれないか。何でロシア語の本なぞ渡したのか。誰かに言われたのなら、それは誰だったのか。誰かを知らなくてもいい。どんな外見のどんな人間だったのか」

いや、とそこで月島は言葉を切って、口元に見えるか見えないかぐらいの控え目な笑みをのぼらせ、黒々とした瞳でもう一度椎久を見た。

「一度ぐらい、落ち着いて温かい飯を食わせてやりたい」

急に、椎久はこの人に狂おしく従いたくなった。

「服装――いや、模様は覚えていますか」

「模様?」

「袖の」

「あー」

困ったように二度三度部屋の中を見回すような仕草をしてから、月島が縁側に顔を出して怒鳴った。

「すまんが、何か、書くものは無いか!」

しばらく反応が無かったが、窺っていると玄関の方から宿の主人の声がした。

「何でも良いんですか!」

「何でも良い。反故でも何でも!」

やれやれといった調子で主人が紙と鉛筆とを持ってきたのはしばらく後で、月島はそれを畳の上に置いて、何やら模様らしき物を描きだした。しばらく自信なさげに歪んだ曲線を描いていたのだが、眉根を寄せて描いた物に×を付けると、改めて横に模様を描き出し、それもなにやら妙な線になっていく。しばらくそれを繰り返していたが、月島は、とうとう、すん、とした顔で椎久を見上げた。

「俺に絵心はない。模様もどうだったか、だんだん分からなくなってきた」

「えーと......」

弱ってしまって、椎久は口籠もった。慣れない手つきで鉛筆を動かしているのを眺めていたので、申し訳ないような気分にもなっている。お互いに妙な顔で見つめ合っていた時、月島が小声で、すまん、と言ったので、なんだかそれで腹が決まった。

「分かりました。できる限りやってみます」

「頼む」

「軍曹殿はどうされるのですか?」

「俺はここで待ってみる。可能性は低いと思うが、探しに行っている間にまたここに来るかもしれない」

言いながら、月島は外套を脱いで衣紋掛けを取った。

「時間を決めよう。探すのは暗くなる前、十六時までだ。それで見つからなければ速やかに戻ってこい」

「はい」

「ああ、一寸(ちょっと)待て」

もう一度玄関に向かおうとした椎久を月島が呼び止める。何だろうと振り向いたものの、月島がごそごそと上衣を(まさぐ)り、頭をひねったので、椎久はおそるおそる申し出た。

「財布は雑嚢の中だと思います」

動きを止めて、月島は椎久を見上げてゆっくり瞬きを一度した。それから、黙って雑嚢を開けて、ん、と小銭を椎久に渡した。

「昼はこれで食え」

表情を浮かべない真面目な顔が、決まりが悪いのを誤魔化しているように思えてならない。ちょっと笑ってしまってから、椎久は急いで表情を引き締めて、はい、と受け取った。

とはいえ、手掛かりはほとんど何も無いに等しい。椎久は通りに出たものの、途方に暮れてしまった。

子どもが見つかるのなら、椎久も見つけたかった。あんな夜に一人で出歩くような暮らしだというのなら、本当は昨夜捕まえてやって、一晩だけでも温かい寝床で眠らせてやりたかった。

人混みに紛れて物をくすねなければならないのだとしたら、大通り沿いに誰か見た人があるかもしれない。天気が良くなってきて人の通りが多くなった道を、椎久はアイヌ装束(アミㇷ゚)の子どものことを訪ねて歩いた。だが、成果が無いまま手宮駅に辿り着くまでで、相当時間を食っていた。大きな操車場の近くで、人足たちに混じって鰊蕎麦を啜る。朝、遠目で見た海に突き出す謎の構造物を、今度は近くで眺めながら椎久は首を傾げた。

「兵隊さん、どうした?」

近くで同じように蕎麦を啜っていた男が声をかけてくる。

「あれは何かと思ったのです」

「ん、あれかい? 桟橋だって」

「桟橋? だって、あんな高い船は無いでしょう。飛び降りるわけにもいかないですし」

「俺もよく知らないけどね、高架桟橋だかなんだか言って工事してて、できたばかりなのさ」

説明されてもそれが何なのかちっとも分からなかったが、この際と思って椎久は訊いてみた。

「最近、アイヌの子どもを見なかったでしょうか。アイヌ装束で、色内大通りを歩いている」

「アイヌ?」

男が自分を上から下までじっくり検分しているので、椎久は居心地悪い気分になった。どうせ、自分がアイヌだからなのだろう。何を言われるかと身構えていたが、男は特に椎久には言及せずに、見たことねえなあ、と言った。

「こっちよりも反対の方向じゃないか。公園の方」

「公園?」

「そう。この夏にな、皇太子殿下のご宿泊のために作った御殿、あれが有る所さ」

「ああ」

聞いたばかりの話である。

「御殿を作った所を公園にしたのですか」

「逆、逆。もともと公園だった所にご宿泊所を建てたんだ。皇太子殿下がお泊まりになった後、建てた金持ちが寄贈して、區の公会堂ってやつになったんだ。そこが、ちょっとした山というか丘になってて、そっちの方でたまにアイヌを見かけるとか見かけないとか」

「なるほど」

椎久は蕎麦の代金を机の上に置いて、立ち上がった。逆方向というなら、早く行かないと夕方になってしまう。椎久は宿の前までは急いで戻った。宿の玄関はぴったり閉まっていて動きが無い。

月島の方に子どもは現れなかったのだろうか。子どもが来ていれば月島自身か宿の者に頼んで椎久を呼び止めてくれそうなものだが。

――続けるか。

椎久は、午前中とは逆の方向に大通りを歩きながら、また念入りに子どものことを聞いて回った。公園の場所も聞いて、そちらの方向に足を向けてまた人に聞いて回っていると、

「アイヌ衣装の? ああ、それなら――」

「見かけたのですか?」

身を乗り出した椎久に、街角で立ち話をしていた近所の者とおぼしき女性が数人、頷いた。

「たまに来るさ」

「その子はどちらから来るのですか?」

「だんだん大きくなって、子どもって感じじゃ無くなってきたよね」

「娘さんって感じで」

「娘さん?」

どうも雲行きが怪しくて、椎久ははたと動きを止めた。

「子どもではないのですか」

「子どもというより、もう年頃だよ」

「ずいぶんな別嬪さんさ」

「たいてい、軍人上がりの男といっしょに居るね」

「その男もアイヌなのですか」

「違うと思うよ。着物の上に、あんたが今着ているみたいな外套着てて」

別の女性が、違うしょ、紺色のだったしょと口を出す。そうだった、そうだった、と女性は話を続ける。

「顔に大きな傷があるんだあ」

「アイヌの女性がですか」

「違う違う、男の方さ」

「物騒な輩かと思ったけど、案外、気の優しい男なんだあ」

「あの傷、戦争で付いたんだってさ」

それにちょっと顔が良くてさ、この間なんか――と女性たちの話がどんどん逸れていくので、

「待ってください、男はどうでもいいのです。聞きたいのはアイヌの方なのです」

言いながら、椎久もこれは違うなとは思ったが。

「集落が近くにあるのですか」

「あるんでないかい。熊の皮なんか持って売りに来ることあったから」

「たいてい、山の方から来るよ。公園のある方向なのかな」

――コタンがある。

椎久は背を伸ばして、山の方を仰ぎ見た。暴風が過ぎ去った今、空は青く澄み渡っている。

――だめだ。今から山に探しに入っていたら、十六時には間に合わない。

月島だけならともかく、夕方にはもう第二十五聯隊と合流で、その後は公務だ。遅れることは許されない。外套の下、上衣の物入れの上に触れる。木札の公用証の固い感触がそこにある。椎久は目を閉じ――断念した。

ありがとうございます、と礼を言って、とぼとぼと上ってきた坂を下りていく。兵隊さん、公園は上だよ、と後ろから声が掛かったが、椎久は口の中だけで、はい、と呟いた。

重い足取りで海の近くの大通りに戻り、人通りの多い道を歩いて宿へと戻る。大部屋に入ってみると、今日は別な客が反対側の隅に居た。そちらに会釈して、陣取っていた入り口近くの角を見ると、荷物も布団も奇麗に整頓されているが、月島がいない。

椎久は、焦って玄関に戻った。

「すいません」

奥に声をかけると、ごそごそと人が動く音がして、主人がのんびり顔を出した。

「おや、兵隊さん。どうかしたかい」

「月島軍曹を見かけませんでしたか」

「おや、まだ帰ってませんか」

「大部屋にはおられなくて」

「桶を借りたいっていうんで渡したら、それを持って出ていったから、銭湯だよ」

ずいぶんな長風呂だねえ、と主人が笑う。

――銭湯なら出て行ってからそこまで時間は経っていないはずだ......

落ち着こうと思って椎久が自分に言い聞かせていると、微妙な顔になっていたのだろう、主人が笑いかけた。

「上官だけ銭湯に行っちゃったって顔してるな」

「いえ、そういうわけでは」

「行くなら桶貸すけど。そうそう、服も乾いてるよ」

「いえ、あ、はい」

どちらに先に答えたら良いのか迷ってしどろもどろになっていた時、ガラリと後ろの引き戸が開いた。

「椎久か」

「軍曹殿」

外套を着込んだ月島は、顔がほっこり上気していて、心なしかこざっぱりしている。月島は椎久に何か言おうとしたが、ちらっと宿の主人に目をやって、

「桶、助かった。ありがとう」

と桶を差し出した。

「軍曹さん、部下にも銭湯入らせてやんなよ」

「そうだな。まあ、出立の準備をしてからだ」

「お、とうとうご出立かい」

「ああ。後で勘定を頼む」

「はいはい。計算しておくよ」

主人が引っ込むのと同時に、月島が促すので大部屋へと向かう。部屋に入り、他の客が十分離れた所に居るのを確認する。月島が外套を衣紋掛けに掛けるのを椎久は(じつ)と観察した。

「軍曹殿」

「なんだ」

「汚れましたね」

「ん?」

椎久は外套の裾を指さした。前側の裾の一部が、炭が()れたかのように黒ずんでいた。

「いつの間に......しまったな」

「せっかく銭湯に行ったのに」

「こんな汚れが付くような所は無かったと思うが、まあ、分からんな。人通りも多かったし」

「そうですね」

椎久は月島を見る。月島も椎久を見上げる。しばし、無言が二人の間を流れた。だが、それは束の間で、月島は何事もなかったように衣紋掛けを鴨居に架けると座布団を敷いて座り、もう一枚を椎久の方に差し出した。椎久は外套のまま黙って座った。

「その分だと、見つからなかったようだな」

「はい。近くにコタンがあるのは分かったのですが」

「そうか」

ふう、と軽く息を吐いて、月島は目を閉じ、顔をやや上に向けて首を振った。

「時間切れだな」

「はい」

「無駄骨を折らせた。悪かったな」

「いえ」

「どうする、お前も銭湯に行ってくるか。集合時刻まで十分時間が有る。積み込み後はそのまま旭川まで汽車に乗ることになる。いったん、さっぱりしてこい」

「そういたします」

椎久は黙りこくって準備をし、桶を借りて銭湯に行った。湯船に浸かる。兵営での入浴は時間が決まっていて芋洗いのような有様だから、手足を伸ばせるのは有り難かった。ふう、と息を吐いて、椎久は目を閉じた。銭湯に来たのは風呂に入りたかったというより、一人になりたかったのだ。

気づいていることは、ある。

――テクンペ。

窓の外から伸ばされていたから、確かに袖は見えなかった。ただ、手の甲は見た。あの手はテクンペをしていなかった。もちろん、ごく近くに住んでいたからとか、たまたましていなかっただけだとか、可能性はあるのだが......

パチャリ、と椎久はお湯を掬って顔を両手で擦った。

考えてみたら、コㇿポックㇽのことも袖口の文様のことも、言い出したのは月島軍曹だ。

考えに(ふけ)ってのぼせる寸前、椎久はやっと湯船を出た。こざっぱりとした体に軍服を纏い、外に出て冷えた外気を吸うと、頭がはっきりした気がした。わあ、と甲高い声がして、子どもが数人横を走って行く。椎久は微笑してそれを見送った。

「戻りました」

「おう」

大部屋に戻ると、月島は既に荷物を作り終えて例の手が持ってきた洋書を読んでいた。椎久も着替えを背嚢に詰め直して、荷物を整える。ほどなく、二人は宿を出立した。客の入りが無い時に泊まったからか、主人は丁重に見送ってくれた。

港に行くのかと思っていたのに、月島が色内通りを西に歩き出したので、椎久は慌てて追随した。

「どちらへ行かれるのですか」

「手宮だ。そちらの方が港と駅が近い。軍用貨物の専用列車がそのまま入る。第二十五聯隊はそれに乗ってくる」

「なるほど」

手宮に着くと、停車場の外に整列しようとしている軍服の一団を見つけたので、急ぎ足で近づくと、将校が一人こちらを見て目を細めた。

「時間通りだな、月島軍曹」

「お久しぶりです、佐藤中尉殿」

こうなれば後はその将校の麾下に入って指示に従うだけである。船は既に到着していた。船から降ろされた木箱を列車に積み込む。第二十五聯隊の中尉と月島軍曹は顔見知りのようで、二人で荷物の数を確認していた。下士以下は異動も無いのに、古参なだけあって、異動やら出張やらでやってくる将校を案外知っているらしい。

椎久は、何も考えずにただ黙々と手を動かした。汽車が動き出すと、警備はほぼ第二十五聯隊で、椎久は来た時と同じように月島の隣に座った。

白石(しろいし)駅で積み荷をだいぶ下ろし、それについて第二十五聯隊の人員もほとんどが降りていく。椎久が不思議そうな顔をしたのに気づいたのだろう、中尉を見送ってから座席に戻ってきた月島が説明した。

「第二十五聯隊の兵営はこの駅の方が近いのだ」

「そうなのですか」

飯が配られ、交代で貨車を見張り、岩見澤に着いたのは八時を過ぎた頃だった。夜の暗いホームに第二十七聯隊の一団が整列しているのを見て、椎久は酷く安心した。第二十五聯隊とはここで完全に交代らしい。軍曹同士で敬礼を交わし、列車が動き出す。

交代要員は椎久の内務班と月島の内務班が半々程度だった。椎久の内務班からは伍長以下が来ていたので、この場の責任者は月島だということなのだろう。頭数を数えて、月島は素早く交代表を作って、全員に通達した。

月島は自分の班員の方に混じっている。(じっ)と見ていると、椎久の内務班の伍長が椎久に近づいてきて小声で訊いた。

「班長殿が気にしていたぞ。大丈夫だったか」

「はい。暴風が来て船の予定が遅れてしまいましたが、それ以外は問題ありませんでした」

「そうか......」

声に含みを感じて伍長を見ると、伍長は難しい顔をしている。

「伍長殿。月島軍曹のこと、何かご存知でしょうか」

だが、伍長は伍長で分からんと首を振った。

「上に目を付けられているようだというのは感じるんだが......。お前は今回それに巻き込まれたのだろう。班長殿は『藪をつつくな』と言っておられた」

「そうですか......」

自分の内務班員に囲まれている月島は、行きと同じく無愛想な顔で座っている。だが、時々、兵に話しかけられ、邪険にすることも無く何事か受け答えしている。

慕われているのだ、と思った。

旭川に着くまで椎久はその光景を黙って眺めていた。

軍の特別編成列車は、燃料・水の積み込みと乗員の交替のためにしか停まらない。普通列車だった行きと比べて、急行以上の早さで旭川までを駆け抜ける。近文で本線から分かれて引き込み線に入ると、練兵場まではすぐだった。夕方に小樽を出たというのに、夜にはもう着いている。

暗い中での荷下ろし作業は効率が悪いため、それは明日やることになった。練兵場からひとかたまりになって兵舎へと戻る。

小樽中を歩き回って、その後はずっと汽車だ。すぐにも就寝して明日に備えたかったが、大部屋に戻って荷物を棚に片付けた時、今度は班長殿が呼びに来た。促されるままに廊下に出ると、班長は苦虫を噛み潰したような顔をして、

「大隊長室に行け」

と囁いた。椎久はじっとりと手に汗を掻きながら、はい、とだけ返事する。ノックをする前に一瞬躊躇(ためら)ったが、観念して扉を叩く。

「椎久一等卒であります」

「入れ」

「失礼いたします」

教科書のような礼をして椎久は中に入った。大隊長は前と同じように、執務机を前に着席している。

「どうだった」

「嵐で予定は狂いましたが、物資の受領は完了しました」

「そうではない」

じろり、と大隊長が睨み付ける。椎久はぐっと手を握った。

「国鉄で小樽まで、ずっと一緒に居りました。月島軍曹は途中下車することも無く、まっすぐ小樽に行きました」

「小樽では」

椎久は目線を水平に保ち、大隊長の頭の上あたりから視線を動かさずに続けた。

「......ずっと一緒に居ました。宿は大部屋でしたが、嵐のためか他に客は無く、軍曹殿と二人、屋内に閉じ込められたような状態でした」

「四六時中見張っていただろうな」

「用便などで短い間離れたことはありましたが、軍曹殿はどこにも出かけられませんでした。出かけようとする様子もありませんでした。その後、第二十五聯隊からの連絡通りに手宮で合流し、本日只今戻って参りました」

「本当だな」

「はい」

目を大隊長の頭の上にぴったり合わせたまま、椎久は報告口調で言った。

「暴風が来ていたのであります。あるいは、軍曹殿も機を逃したのやもしれません」

そこでやっと椎久は大隊長を見た。

「意見は聞いていない」

大隊長は明らかに不機嫌そうだった。

「申し訳ありません」

「いい、分かった。下がれ」

「はい」

速やかに椎久は退出し、大部屋に戻って自分のベッドに潜り込んだ。

翌日、例の「月島ァ」が聞こえてきて、椎久は笑ってしまった。

見ると、鯉登少尉が厳しい顔をして廊下で月島軍曹を呼び止めている。月島は眉すら動かさず、すん、とした顔を少尉に向けた。二人は何やら話をしていて、月島が仏頂面で何度か首を振っているのが見えたが、椎久には会話は聞こえない。

戻ってきたな、と思った。