蕗の下の人の赤い花 - 2 -

中央小樽に着いた頃にはもうすっかり暗くなっていた。おまけに雲が立ちこめて今にも雨が降りそうだ。午前中からこっち、ほとんど座り続けていたせいで体中が強ばっている。降りた途端に、椎久は背を伸ばした。月島はそんな椎久をちらりと見て、表情も変えずに歩き出した。椎久も駅員に切符を渡して改札を出た。改札鋏(かいさつばさみ)で出た切符の切れ端が床に散らばっているのを気にしなければ、全体的に小綺麗だ。

月島が駅の中を見回しているようなので、椎久は尋ねた。

「どうかされましたか」

「駅が新しい」

言われればその通りで、新築の建物の持つほの明るい印象がある。小樽は北海道でも随分早くから駅があるのだから、もっと古くてもおかしくはないのだが。

「建て替えたのでしょうか」

「そのようだ」

駅の構内も、駅を出てからも人がそこそこ多かった。

「初めてここを通った時は、ずいぶん寂しい場所だったんだがな。平らに無理矢理(なら)したみたいな場所で、店も何も無かった」

今は周りに店がぼつぼつ並んでいる。とはいえ、夜のせいか雨が降りそうだからか人々は急ぎ足で、本日最後の稼ぎとばかりに人力車が広場を行き交っている。それに合わせて商家も店じまいをしようとしているところが多かった。坂の下に見える海の方がまだ町並みが明るい。月島がそちらに向かって歩き出した。椎久も遅れないように続く。停車場から海に向かって続く巾の広い坂道を(くだ)りながら、

「軍曹殿は小樽の街には詳しいのですか」

「何度か来たことはある」

北海道でも指折りの街だ、海に近い色内(いろない)通りはまだ人通りが多かった。心当たりでもあるのか、月島の歩みに迷いはない。だが、とある宿の前で立ち止まった月島が訝しげな顔をした。

「妙だな」

呟きには椎久にも頷けるものがあった。閉まっているわけではないし、他と何が違うわけでもないのに、この宿だけいやに活気がないのだ。月島が訝しげだった表情を元に戻してそのまま玄関の方に足を向けたので、椎久は慌てて後を追った。

「ここにするのですか?」

「空きはありそうだからな。――もし、ごめんください」

月島は、汽車の中で親子連れに話しかけられた時のように愛想良く宿の人間に話しかけた。兵舎での様子と違いすぎて、どうにも慣れられない。

「二人、泊まれますか」

出てきた宿の者は、疲れたような顔をしていた。

「ああ、見ての通り、空いてるよ。――でも、良いのかい?」

「何が?」

草臥(くたび)れた顔のまま、ため息と共に返ってきた答えは、

「出る、て噂立っちまって」

「何が」

「手、かな」

「手?」

小さな手が外から差し込まれるのだという。いやに白くて小さな手が、夜な夜な差し込まれる。寝ぼけ(まなこ)でそんな物が鼻先でひらひらしているのを見たら、確かに肝を潰すだろう。

だが、月島は眉間に皺を作って一瞬考えたものの、あっさり言った。

「手が差し込まれるぐらい、大したことじゃない」

宿泊を決めると、主人は喜んでいそいそと二人を大部屋に案内した。柱に()けられた電話を横目に庭に面した縁側を歩いている最中、(にわか)に雨音が酷くなり、暗くてよくは見えないと分かりつつ、椎久は窓の外を窺った。

「こりゃあ、とうとう本降りだ。運良かったな、兵隊さん」

「いや、そうともいえない。飯がまだなのだ」

宿の主人の物言いが砕けているので、月島も丁寧な口調をやめたらしい。

「ええ? これからだったのかい?」

「ああ。旭川を朝出て、小樽に着いたばかりだ」

「うーん......」

宿の主人は暗い窓の外を窺う。そうやっている間にも雨は酷くなるばかりで、窓ガラスをガタピシャ言うほど叩いている。

「何か出すかい?」

「出せるのか?」

「ごはんと味噌汁とお新香ぐらいでよければ」

「十分だ。しかし、客が居なかったのなら準備していなかったのではないのか」

「わたしら食べる分が炊いてある。客も居ないし、通いの者は帰したから残ってるはずだ」

「それはありがたい」

主人が案内したのは誰もいない大部屋で、左手に行灯(あんどん)があり、右手の隅に布団が積んであった。

「本当に俺たちだけだな」

「朝から天気がおかしかったせいか、船もあんまり入ってこないし、少ない客は別な宿に取られたみたいでね」

参ったさー、と主人が溜め息交じりに首を振る。

「そちらには災難だが、こちらにとっては、広く使える分ずいぶんな贅沢だ」

主人が食事の準備に出て行くと、月島は外套を脱いで衣紋(えもん)掛けに掛け、上衣(じょうい)の襟元を緩めた。楽にしろ、と言われて椎久も少し服を崩す。月島はさっさと布団を敷いて寝床を作った。もう今日は食べたら寝るつもりなのだろう。

手持ち無沙汰だったが、行灯(あんどん)は薄暗くて携行武具の手入れは難しそうだった。仕方なく頭の中で明日の予定を反芻していると、主人と女中が食事を運んできた。女中が膳を二つ並べ、その間に主人が大きな茶瓶と何やら蓋付きの大きな藁籠のような物とを畳に置く。

(よそ)いますか?」

「いや、こっちで勝手にやる。ありがとう」

「分かりました」

ごゆっくり、と言いながら女中が出て行った。装うか訊いたからには、たぶん、藁の容れ物の中には米が入っているのだろう。兵営以外での食事の経験があまりなく、椎久は内心首を捻った。炊いた米を和人はお(ひつ)に入れる物だと思ったのだが。

――藁だとべたべたくっついたりしないのだろうか。

一方、月島は宿の主人に質問している。

「船は朝からずっと来ていないのか?」

「ああ。雨こそ降ってなかったんだけど風強かったのさ。ぜんぜん入港しなかったのかと言われれば、そったらわけでもないようなんだけど、南からの船は軒並み来てなかったさ」

「青森からもか」

「青森どころか函館からのも来てないみたいだったさ」

それを訊いて月島は渋い顔をした。

「兵隊さん、船待ってたのかい?」

「ああ」

「そりゃご愁傷様だ」

「おかげで客が少ないなら、この宿の方がご愁傷様だろう」

「まあね。汽車の客頼みだったけど、人入ってないと何でか客居着かないもんで、結局はこったら有様さ」

上官と宿の者の会話を遮ってよいものかちらりと迷いはしたが、雑談のようだし今までの様子だと月島は怒ったりしないだろうと思って、椎久は思いきって訊いてみた。

「あの」

声をかけた途端、主人と月島が椎久の方を向く。

「駅は建て替えたのですか。ずいぶん奇麗だったのですが」

訊いた途端に、そうなのさー、と主人が大袈裟に頷いた。

「ぴかぴかだったべ。この夏に皇太子殿下がいらっしゃるって言うんで、それに間に合わせようって人足もたくさん来て、なんまら凄かったよ。どんどん出来上がっていって」

客が居なくて話し足りていなかったのか、主人の話は止まらない。

「皇族の方が泊まれるような立派な旅籠(はたご)もないっていうんで、小樽(いち)豪勢な家に住んでる商人に家さ貸せって區が言ったら、その御仁、こったら平民の家にお泊めするわけにはまいりませんって御殿を一つ建てちゃったのさ。いやあ、東宮出門っていうんで私も見物に行ったんだけど、そりゃあたいしたものだったさ」

そこで、主人が月島と椎久を順番に見た。

「あれ、でも、その後、旭川にも行ったんでなかったかい? 新聞で読んだような......」

「あれか」

思い出したのだろう、月島が思わず、といった調子で声を立てた。

「ああ、やっぱり旭川にもお出ましだったんだ」

「そもそも、函館に師団長閣下がお迎えに上がったからな。護衛はずっと第七師団だ」

「で、そのまま旭川までか。旭川はどこにお泊まりだったんだい? 言っちゃあなんだけど、小樽(こっち)の方が街としては大きいべ? ここがこの有様だったんだ、旭川に小綺麗な宿なんてあったのかい?」

「偕行社にお泊まりでした」

椎久が教えると、なある、と主人は膝を打った。

「そうか、旭川には北鎮部隊の本部がある。さすが軍都ってことか。考えてみりゃ行く末は帝国軍の大元帥閣下であらせられるわけだし」

「大変だった、あれは。五月から東宮主事が下検分に来てな」

「やっぱり準備は入念なもんだ」

椎久も覚えている。行啓当日は旭川町どころか周りの集落から人々が集まる騒ぎで、師団挙げての歓迎行事の連続だった。

「あれだべ? 大砲撃って歓迎すんだべ?」

どかん、どかん、ってさ、と主人が言うと、月島は頷いた。

「そうだ。皇礼砲二十一発」

「そんなに? はは、見物してみたいもんだと思ってたけど、そんなに撃つなら飽きちまうかな」

「かもしれないな」

月島はそう言うが、その間、ずっと兵卒は直立不動で立ち尽くしていたのだから、椎久は飽きると言うより大変だった。それに、次の日はよりによって第二十七聯隊の敷地に木をお手植えするとかで、夜も更けるまであちこち掃除して磨かされて、これまた朝から整列する羽目になったのだ。

「なんか演習とかやったのかい?」

「大隊教練自体は別の聯隊だったのだが――」

月島が危うくうんざりと取られかねない口ぶりで言ったので、椎久も思いだした。

「結局、千代ノ山で連合演習でしたからね......」

ついつい椎久は後を続けて遠い目をした。

そんな二人を見て主人はくすくすと小さく笑う。

「不敬だねえ、軍人さん」

ここではまあ寛いでくださいよ、と言うと主人は部屋を出て、礼をしてから障子を閉じた。

不敬と言われて椎久は冷や汗を掻いていたが、月島の方は気にした様子も無く、部屋の奥側に陣取り、背嚢と雑嚢とを窓側に寄せている。

――もしかしたら、こういう態度を報告しろというのだろうか。

でも、皇太子殿下の行啓が面倒だったのは、下々の間では共通の認識だったし、そんなことを告げ口のように報告したくはない。だいたい、下手な言い方をしたら自分だってお咎めを受けかねない。

考えている間に、月島が膳ににじり寄っていたので、椎久は気を取り直して例の謎の藁籠(わらかご)を月島の(そば)に置いた。持った途端、感触と温かかさで気がついた。

――保温のためか。

蓋を開いてみると思った通りお(ひつ)が入っていた。予想が当たったことにささやかに満足して、椎久は気分良く申し出た。

(よそ)いましょうか」

「いい。自分でやる」

月島はしゃもじを持ってお櫃の蓋を開くと、茶碗に二度ほど(よそ)って控え目な山を作った。手を止めて、一度椎久の茶碗を見、それからお櫃の中を見て、ちょっと迷った様子だったが、まるで観念したみたいな顔を一瞬してから、お櫃にしゃもじを放り込んで椎久の方に押しやった。

椎久がお櫃を覗くと、ちょうど月島が盛ったぐらい残っていた。月島の方を見ると、すでに月島は箸を持って、無表情に米を食らっている。少し考えてから、椎久は三分の一程を残して、自分の茶碗に米を(よそ)った。お櫃に蓋をした後、冷めないように藁の蓋もはめる。

食べ始めると、腹が減っていたことを実感する。しばらくは箸と食器がぶつかる小さな音だけが続いた。お椀を取り上げ味噌汁を一口啜って膳に置いたところで、何やら雨音がはっきりしてきた気がして窓の方を見てみて、椎久はぱっかり口をあけた。月島も顔を上げ、椎久の様子を見て振り返る。

二人は息を潜めた。小さな白い手が、床近くにある小さな風取りの窓から差し込まれているのだ。

ずいぶん細くて小さな手だった。骨ばった手が、何かを求めるように、ひらひら、ひらひら、と僅かに振られる。

――いや。

ひらひら、とした動きに見えていた細い手は、懸命に伸ばされて月島の雑嚢の紐を掴もうとしているようだった。しかし、格子が填まった小さな窓からは到底届きそうにない。椎久は月島を見た。月島は荷物を引き寄せることも無く、痩せた手の動きをしばらく見詰めていたが、きゅっと口を閉じた。

「しかし、酷い風だな」

唐突に、月島がそう言った。言いながら仕草でお櫃き入った藁籠を指さし、寄越せというように手で招く。気づいていないふりをしろと言うことだと察して、椎久はお櫃を月島の方に押しながら会話をひねり出した。

「はい。港の方は大丈夫でしょうか」

「南からの船はずっと止まっていたそうだが、これは北の方からの船も止まっただろう」

言いながら、月島は残った米を全部手のひらに載せ、ぎゅうぎゅうと握って真ん丸いおにぎりを作っている。

「夜の間に収まると良いのですが」

椎久がそう答える間に月島が音も立てずに窓に寄り、懸命に伸びていた手を捕まえた。捕まえるなり、手を上向きに引っ繰り返して、その上におにぎりを載せてやる。

驚いたのだろう、月島が手を放すやいなや、白い手はひゅっと引っ込んだ。雨音に混じってばちゃばちゃと水たまりを踏む音が遠ざかっていく。

ふう、と静かに月島が息を()いた。それが合図になって、椎久自身も詰めていた息を吐き出した。

「『手が出る』などと言うから、怪談話でもしているのかと思ったが、泥棒か」

これでは客が泊まりたがらないのも無理はない。

「いかがいたしますか。宿の者に報せますか」

窓を見詰めたまま、月島はしばらく言葉を発しなかった。それから、ゆっくりと首を振る。

「いや。荷物の置き場所に気をつけておけば実害は無い」

潜めた平坦な声に憐憫が混じっているような気がした。

夜半から風の音が酷かったのだが朝になる頃には嵐になっていた。宿の者に船の出入りは止まったままだと言われて、月島はじっとり表情を消して口を曲げている。昨日のように女中と一緒に食事の用意をしながら主人が言った。

「暴風来てるんだって」

「そうか」

月島は外を睨みつけるように窺ってから、宿の主人を振り返った。

「昼食も頼めるか。この分では店が開くのも期待できないだろう」

「まかせな、要るんでないかと思ってた。なんなら(にしん)も出すかい?」

「豪勢だな」

「兵隊さんがお新香ばかりじゃ堪らんべ」

「なら、頼む」

女中が先に出て、主人も続こうとしたところで振り返った。

「今日はどうするかい? 暇つぶしに何か持ってくるかい? 新聞とか本とか軍人将棋とか」

「二人だぞ。軍人将棋は無理だ」

「じゃあ、将棋でも碁盤でも」

「使うか分からんが適当に寄越してくれ」

椎久は会話を聞いていて不安になった。将棋も囲碁もやったことがない。それに、この場合、相手はどう考えても上官の月島だ。そんな遊戯(ゆうぎ)に興じる様が全く想像できない。内心悩んでいるうちに、月島の方はごはんをてんこ盛り――今朝はたくさん入っているらしい――にしながら、出て行こうとした主人を呼び止めた。

「ああ、そうだ。縁側にある電話、あれは使えるのか」

「使えるさー。これでも、変な手ちょろちょろする前は客足だって多かったんだ、ちゃあんと引いてあるやつさー」

「後で使わせてくれ」

「はいはい、使う時は声かけてくれよ。宿代と一緒にお代はもらうから」

とうとう何か動きをみせるのかもしれないと緊張しながら椎久は訊いた。

「どちらにかけるのでありますか」

月島はかつかつとご飯を口に運んでもぐもぐ咀嚼してから、落ち着いた声で答えた。

「第二十五聯隊だ。船の出入りが止まっていることを(しら)せて指示を仰ぐ。こっちは二人だが、第二十五聯隊は大所帯だ。月寒から出る前に止めた方がいいだろう」

別に何も怪しい所はない。椎久は大丈夫そうだと胸をなで下ろし、そんな心持ちになった自分にはたと気がついた。

最初から気乗りはしていないが、月島の為人(ひととなり)が分かるにつれ、さらに気が重くなっている。しかし、大隊長の命令は命令だ。消沈しながら椎久はもそもそと機械的に食事を口に運んだ。

電話をするという月島に念のためぴったり着いていく。新たな指示があれば従うのだから、上官に付き従うのはそうおかしな振る舞いではあるまい。月島も別に椎久を追い払うようなことはなく、電話機の発電機をぐるぐる回して交換を呼び出した。

「XX番へお願いします」

会話の様子で察してはいたが、電話が終わった月島はやや渋い顔をしていた。

「どうかされたのですか」

「青森の方が天候が崩れるのが早かったらしい。俺たちが旭川を出た時には、既に船が着かないのが分かっていたようだ」

伝達の機会がずれたせいで一日を棒に振ったのだ、月島軍曹が少々不快に思うのも無理は無い。

――いや。偶然なのか?

もともと小樽で自由になる時間を作ってこの人を泳がせるために、わざと伝達を遅らせた可能性もあるのでは?

疑いが(もた)げてきて、椎久の手はじっとりと汗を掻いた。

――でも、この出張は前から決まっていた。一週間も前から暴風が来るなど分かっているわけがない。

そう考えて、思いついた疑念を取り消してみたのだが、要領を得ない大隊長の命令を思い出すにつけ、不審は椎久の中に沸いてくる。椎久が思い悩んでいたのが顔にも出ていたのだろう、月島が椎久を見上げて、

「どうした?」

「ああ、いえ......。我々はどうしていれば良いのでしょう」

「待機だな。第二十五聯隊(向こう)にこちらの宿と電話番号は知らせた。受領日時の再調整が終われば連絡があるだろう」

物資受領が今回の任務であったので、完全に時間が浮いてしまったことになる。嵐も酷く、宿に足止めになっている。朝食後、二人でやたらと念入りに武器の手入れをしてしまったらやることが無くなった。今のところ月島が外出しようとする様子は無く、新聞(北海タイムス)を隅から隅まで見終わると、宿の主人が持ってきた読本(よみほん)を読み出している。

椎久は心中落ち着かず、別の本をぱらぱら捲ってみたり、軍人将棋――結局、持ってきてあった――の黄色と橙のコマを畳にばらまいて(いじ)ってみたりした。ときどき月島を盗み見るが、たまに胡坐を掻いた足を組み直したり正座になってみたりしているぐらいで、(じつ)と本を読むばかりだ。

――いったい何を見張れというのだろう。

あるいは嵐の到来は大隊長にも誤算だったのだろうか。

薄暗い空から止めどなく降り続けていた雨は、昼頃にやや小降りになってきた。昼食を持ってきた宿の主人が、

「このまま晴れるべか」

と言うと、月島は立ち上がって窓を開け、難しい顔になった。椎久も外を窺おうとその横に近づいた。

「どうですか?」

「見ろ。どう思う」

確かに風は収まっており、晴れ間も見えぬではない。

「これは......分かりませんが。暴風の合間というだけのように思えます」

だとすると、嵐はこれから再び酷くなる。主人も窓の外をじっくりみて、うーん、と唸り声を立てた。

「こういう時、無理に船さ出すとまずいんだべな」

今日も無理かもしれないと思いながら二人で膳の前に着く。言っていた通り、朝に比べて鰊の煮物が増えていた。

「ありがたい」

「その分、お代はちょうだいするからな」

(おど)けたように言ってから主人が出て行く。

二人が食べ終わり膳も片付けられてしばらく経つと、再び雨音が酷くなってきた。

「将棋でもするか」

「申し訳ありません。やり方を知らないのであります」

ふむ、と月島が椎久を見上げて一つ頷く。

「兵卒同士でそういう機会があるかもしれないから、教えておこう。俺も強いわけではないから駒の動かし方ぐらいしか教えられないが」

そう断ってから月島が将棋盤に駒を並べ出した。覚えた方がいいのだろうかと、椎久は盤面に集中した。筆文字の書かれた駒が手前と奥とに整然と並べられていく。

再び手が現れたのはそんな時だった。ひらひら蠢くのを先に見つけたのは今度は月島で、訝しげになった表情に気づいて椎久も窓の方を見、なぜ月島が不審げになったのか理解した。

手が何かを持っていたのだ。

「恩返しでしょうか」

手の主に聞こえないように椎久が小声で囁くと、月島は椎久に表情の無い一瞥をくれてから、黙って差し込まれた物を手に取った。

「何ですか?」

「本だ」

月島は椎久に見えるように少し体をずらした。

「洋書? ですか?」

馴染みのない文字が書かれた本は、新しいものではなさそうだった。むしろ、何度も読まれ持ち運ばれたように角が擦れて丸くなっている。

「ロシア語だな。『КРАСНЫЙ(クラスヌイ) ЦВЕТОК(ツヴェトーク)』」

「読めるのですか?」

流暢な音の響きに驚いて訊くと、小柄な軍曹は、少しな、と答えた。

「『赤い花』、か。小説に見えるが」

パラパラとめくって月島はちょっと目を上げ、手がまだぱたぱたしているのを見つけてやや考えてから、背後にいた椎久に言った。

「外に出て、子どもがまだいるようなら入れてやれ。宿の主人には俺から言う。飯でもやってどういうことか聞き出そう」

「はい」

縁側を急ぎ足で抜けて、慌てて表に出た。こちらの動きに気づいていたのか、既に小さな人影が激しい雨の中を遠ざかろうとしている。

「おい! 雨宿りぐらいなら――」

途中で言葉を切ったのは、(けぶ)るように降る雨の中を小さな背中があっという間に見えなくなってしまったからだ。

戻ると、胡坐をかいて本をパラパラと捲っていた月島が視線を上げた。

「どうだった?」

「すぐに走って行ってしまって捕まえられませんでした」

「子どもだったろう」

「雨が酷くてはっきりとした姿は確認できませんでしたが、そのように思いました」

「掴んで驚かせてもと思ったが、捕まえておけばよかったか。握り飯ぐらいやれたのに」

結局、残されたのは本だけである。

「どうして、こんな本を渡してきたのでしょうか」

「分からんが、読んでみる」

月島は、本を開いて少し眉根を寄せた。

「どうかされましたか」

「いや。使わないと忘れるものだと思ったのだ。さすがにこの宿に露語の辞書など無いだろうな......」

言葉の終わりはぼやくようだったが、月島は本を読み始めた。

――使わないと忘れる、か。

兵営の中でアイヌ語を話すことは無い。休日に家に帰った際に、言葉が出てくるまでに若干の引っかかりを覚えることがあって、きっと、それと同じことだ。

言われた言葉を椎久はぼんやりと噛みしめていた。

読み進めるのに苦戦しているらしく、月島がページをめくる速度は読本(よみほん)の時と比べて随分遅かった。自分も宿の主人が持ってきた本を読みつつ、ときたま月島の様子を窺うが、小柄な軍曹殿は無表情に読み進めていて、なんなら、しばしば低い鼻の上に縦に皺が寄っている。小説と言っていたが、面白い内容では無さそうだ。ただ、集中を切らすことはなく、ずっと本から目を離さない。

だんだん暗くなってきて、椎久は宿の者を呼んで行灯に火を入れてもらった。それを月島の方に置くと、月島はいったん顔を上げて椎久を見上げた。

「ああ、すまんな」

「夕食にするかと訊かれましたが、いかがいたしますか」

「そうだな、そろそろもらおうか」

そう言うと月島はいったん本を閉じ、目頭の間を右手で揉んだ。椎久は宿の主人に夕食を頼むとすぐに戻った。月島はまだ目を閉じていた。

「お疲れですね」

声をかけると、月島は目を開いて肩と首とをぐるりと動かした。

「まだ掛かりそうですか」

「そうだな。まだ最初の短編しか読めていない」

月島は本を眺めている。

「どんな話だったのですか?」

「狂人が癲狂院(てんきょういん)に入院してから死ぬまでの話だった」

その何が面白いのかも、あの白い手との関連性も分からず、椎久は我知らず眉根を寄せてしまった。月島の方も考えに沈んでいるような調子で呟く。

「なんでこんな本を子どもが」

「......誰かに頼まれたのでは?」

「それが一番ありそうか」

ごう、と建物が揺れるほどの大風が吹いた。嵐の本番はこれからのようだ。行灯の明かりが呼応するように揺れて、月島と椎久の影も畳に揺れる。

宿の者が夕食を持ってきたので、月島は洋書を宿の本と混ざらないように脇に退()けた。

「鰊漬けか」

「漬けだしたばかりでまだ味が()れてないんだけどね」

配膳が終わると、主人は部屋を出る前に言った。

「軍人さん、窓はぴっちり閉めておいてくれな。立て付けが悪いのか、滑りが良すぎるのか、それ、そこの下側の風取り、どうも隙間から雨風が吹き込みがちで」

「分かった」

「分かりました」

簡単に()くからあの手が外から窓を開けるのだと気がついたが、手のことは二人とも口にしなかった。

宿の主人の足音が遠ざかっていくのを確認すると、月島はまずおにぎりを握り始めた。鰊漬けも真ん中に入れている。

「また来ると思いますか?」

「嵐が酷いから分からんが」

おにぎりを二つ握り終えると、月島は窓の方を振り返り、慎重に荷物の位置を調節した。

「椎久一等卒。手が出たら、お前、すぐ玄関に回ってくれ。今度は俺が手を掴むから、子どもを捕まえてくれ」

「分かりました」

鰊漬けは野菜がしゃきしゃきとしていて、白い米とよく合った。無言で食べている月島の茶碗から瞬く間に米が消えていく。頬を膨らましているわけでもないのに、もりもり米が無くなっていくのはまるで奇術でも見ているようだ。小柄な体のどこに入っていくのか分からず(ほう)けていた時、外の音が急に大きくなった気がした。

「軍曹殿」

椎久が声を潜めて呼びかける。

手だ。

ほとんど同時に気づいた月島は、無言で玄関の方をしゃくった。頷くなり椎久は音を立てないように気をつけながら急いで縁側を移動した。玄関を出ると、酷い雨音が、ばちゃばちゃという水音で乱されている。暗くて見えにくいが、小さな影が暴れているのが確認できる。椎久は雨に濡れながら大股でそちらに急いだ。もうちょっと、手を伸ばせば捕まえられる、というところで急にすぽんと抜けでもしたように小さな影が道路の真ん中に転がった。

「椎久! すまん! 滑った!」

すぐに捕まえようと飛び出したのだが、道路に転がった小さな影が反対側に駆け込む方が早かった。追いすがったものの、小さな影がするりと入っていった建物と建物の隙間は椎久には狭()ぎた。建物の裏に回ろうと走ったが、角を曲がって一本裏の路地に着いた頃には暗い夜道に人影など何も無く、ざあざあと雨が道を叩くばかりだった。

濡れそぼちがっかりしながら宿に戻ってみると、月島が玄関まで来ていて椎久を待っていた。手には手ぬぐいと背嚢を持っている。

「すまん。手が濡れていてすっぽ抜けた。着替えは持ってきているか」

手ぬぐいを椎久に手渡しながら、月島が背嚢を持ち上げる。どうやら、椎久の背嚢らしい。

「はい」

受け取って玄関で手早く体を拭い、着替えられるだけ着替えると、宿の者が起きてこないうちに二人は音を潜めて部屋に戻った。

「早く当たれ」

月島が火鉢を椎久の方に押し遣り、毛布を手渡す。ガチガチ震えながら椎久が手を当てていると、月島はさらに湯飲みにお茶を入れて渡してきた。受け取るために伸ばした手も寒さで勝手に震える。

「大丈夫か」

お茶は少し(ぬる)くなってきていたが、椎久はガクガクと何度か頷いた。それを確認すると、月島は椎久の濡れた上衣と軍袴を衣紋掛けと衝立とを利用して干した。その頃にはどうにか震えが収まってきて、椎久は背中にかけた毛布の上にさらに掻巻(かいまき)をかぶった。その格好で残っていた膳の上の味噌汁をすする。人心地ついて、ふう、とため息をついた時、向かいで椎久の様子を観察していた月島も、問題ないとみて、一つ頷き、座布団に腰を落ち着けた。少しだけ残っていた食事を片付けると、月島が(おもむろ)に口を開いた。

「昔アイヌから聞いた話みたいになってきたな」

「アイヌの話でありますか?」

「そうだ。確か、コㇿポックㇽと言った」

「ああ、手を引っ張り込む話ですか?」

「それだ」

コㇿポックㇽはいたずら好きの小人だが、貧乏な人間には施しをする。ある時、悪い奴が、施しをもたらした手を引っ張り込んで脅しつけて一生楽に暮らそうと画策する、そんな話があるのだ。

「握り飯を持っていくんじゃ逆ですが」

「くれたのも本だけだしな」

月島は本を持ち上げ、椎久に向かって軽く振って見せてから、

「その話をした奴が、コㇿポックㇽは(ふき)の下の人という意味で、背丈が俺ぐらいだと言うもんだから――」

「あの、北海道の蕗は内地より大きいですよ。螺湾川(ラアンペッ)(コㇽコニ)は自分より大きいぐらいだと伯父が言っていました」

早口でそう言うと、月島はニコリともせずに頷いた。

「同じようなことをその時にも言われた。マタギ出身の一等卒が、秋田の蕗も大きいです、と言い出してな」

小柄な軍曹殿は表情を変えずにそう言ったが、内心は推し量れないので、椎久は黙って首をすくめて話を元に戻した。

「姿も見せずに逃げるところは、確かにコㇿポックㇽみたいですね」

「人に見られるのを嫌うのだったか」

「はい、そんなふうに言われています」

月島は椎久を改めて見た。行灯の薄暗い明かりのせいか、瞳が黒々と大きく見える。

「アイヌだったな」

「え?さっきの子どもがですか?」

「そうか、お前はその位置に居たから見えなかったか。(まく)っていた袖口が俺からは見えたのだ。アイヌの文様のようだった。追いかけた時に見えなかったか?」

まるで言い含めるように、月島が椎久にゆっくり尋ねた。

「ガス灯も消えていますし、上に防寒具を着ていたのでしょう。自分からは暗い影にしか見えませんでした」

「そうか......」

月島の視線が、す、と手が差し込まれていた風取り窓の方に移る。小皿に乗せられたおにぎりが一つだけ残っている。

「一つはやったのですか?」

「ああ。それで(おび)き入れて手を掴んだのだが......」

月島は少し目を細めた。

「あれもやってしまえば良かった」

陰った声で月島は呟いた。

「こんな冷たい雨の夜にひもじい思いをするのは惨めなものだ」

「はい......」

獲物が少なかった年の冬を思い出して椎久も頷いた。

この人もそんな経験をしたことがあるのだろうか。凶作の年に。あるいは、戦場で。