早く状況を聞きたいというのに、月島が鯉登に応じて官舎にやってきたのはゆっくり外出の時間がとれる日曜日になってからだった。
「大丈夫だったか、あの椎久という一等卒」
腰を落ち着けるなり鯉登が訊くと、月島はもらった座布団に正座して慌てずゆっくり頷いた。
「道中、会話をしながら様子をみました。始終、こちらを窺ったり考え込んだりしている様子ではありましたが、私の荷物を探るでもなく、襲いかかるでもありませんでした。ごく普通の、良心的な人間でしょう」
月島は、ふう、と息をつき少々背筋の力を抜いた。
「椎久の所属する内務班の班長にも行く前にどういう性格かは聞き取りました。その感触でも、人のあらを無理に穿る人間には思えませんでした。それに、椎久が大隊長に呼び出されたのは、小樽派遣前の一度だけです。大隊長と気脈を通じているとは考えづらい」
「そうは言うが、入隊から今までを見張っていたわけではあるまい」
月島は言い含めるように鯉登に言った。
「いいですか、兵卒が他の兵卒や内務班長の目を盗んで部屋を離れることは難しい。用便一つとっても、必ず行き先を告げてから離れるよう入営当初から教育されるからです。ましてや大隊長の部屋なり居所なりに行けば、目立って仕方がない。私だって、こうやってここに来ることは隠せもしないから隠しもしないのです。前から大隊長と繋がっていた可能性はかなり低い。それはお話ししたでしょう」
別に探りも入れずに出たわけではないのです、と月島はじっとりと鯉登を見た。しかしな、と鯉登が胡座のまま腕組みする。
「大隊長がわざわざお前と違う班の兵を指名したのだ、気にもなる。だいたい、下士一名と兵卒一名だけ派遣するというのが異例ではないか」
「だとしても、何をやらせるにも人選が悪い。例えば、私が何か良からぬことをやると考えていたとして、止めるなら、同位の者かそれ以上の者を選ぶべきです」
「殺すつもりなら」
低く潜めた鯉登の声に、月島はぴしゃりと即答した。
「複数つけます。それが鉄則です。軍曹一人に兵卒数人。おかしくはないですし、大隊長の立場ならそれぐらいは動かせる」
「まあ、そう、なんだが」
鯉登の声は普通になったが歯切れが悪い。心配していたのは分かるので、月島も声を少しだけ和らげる。
「そして、探りのつもりなら同行者はやりにくい」
「それだ。小樽で他の者に尾行けられていたとか、そういうことも考えられる」
「尾行けられるも何も、暴風が来ていましたから足止めを食って宿に籠もりっきりです」
そもそも何をしようというのですか、と月島は呆れたように首を振った。鯉登が不満げに組んだ腕を揺する。
「椎久一等卒の方は宿に居る間何をしていた」
「所在なさそうでしたよ。私の方が上官ですから、寛ぐこともできない。そういう意味では無意味な命令に巻き込まれて気の毒だった」
だいたいですね、と月島は正座を崩してあぐらを掻いた。
「大隊長というのは兵卒には遠いんです。営内で毎日顔を合わせるのは軍曹以下です。急に呼び出して自分のために何かをさせようとしても、兵卒にとっては益が無い。あげくに、大隊長はあの性格だ、下の者が進んで働きたくなるような人物ではない」
「言うなあ、お前」
鯉登はにやりと笑って、急須に茶葉をざっと入れ、火鉢からしゅんしゅんと湯気のたつ鉄瓶を取り上げてぞんざいにお湯を注いだ。月島が、す、とその急須を取り上げ湯飲み二つに分け入れて、鯉登の前に一つ、自分の前に一つ置く。
「それで、大隊長の方はどう思う」
茶をひとくち口に含むなり、渋さに鯉登は口を歪めた。道理で、月島がすぐに注いだはずだ。だが、茶葉を適当に放り込んだのは自分なので文句は言えない。
「大隊長の思惑は奈辺にあるか、ですか」
月島の方は鯉登を観察して、慎重に湯飲みに口を付けた。渋かったはずだが、表情に全く変化がない。
「うむ。今になって何を探ろうというのか。何がきっかけだったのか」
こっくり一つ月島が頷いた。
「小樽に行った時に思いついたのですが」
「何をだ?」
「夏に皇太子殿下の行啓があったでしょう」
「ああ」
「あの時、随行で東京から武官が来ていました」
鯉登が口元に手を当て思案顔になる。
「そうだな......。どういう経歴の人物か気にもしていなかったが、金塊の件か権利書の件に拘わっていたなら、何か言われたのかもしれんな」
「将校同士の繋がりで少尉殿の方にこそ探っていただきたい所ですが」
「分かった、探ろう」
「もっとも、もう金塊の件から二年は経っている。本当に今更です。大隊長の方も探りを入れるという体裁だけ取ってお茶を濁したかったという可能性もあります」
「だから、一等卒にした、か。だったら、大隊長殿もそう捨てたものではないか......」
渋いのを忘れて再び不用意に口を付けてしまって、鯉登は口を曲げてから湯飲みにお湯を足した。
「大隊長の従卒の兵は引き込んであります。動きがあればお知らせします」
言われて、鯉登は動きを止め、それから、笑い出した。
「油断も隙も無いな」
「お褒めにあずかり恐縮です」
月島がすまして言った。にんまりと笑みを浮かべたまま鯉登が問う。
「それじゃ、お前、小樽では暇を持て余す羽目になっただけか」
「いえ、それが」
「?」
月島は上衣の下から本を一冊取り出した。
「露語の本?」
「実は――」
手早く月島は、宿に現れた子どものことと、この本が差し込まれたことを説明した。
鯉登は姿勢を正し、本を手にした。一枚一枚ページをめくる。書き込みがあるでもない。印があるでもない。ロシア語は読めないが、至って普通の印刷された本に見える。
鯉登は黙って本を机の上に置き、静かに月島を見た。
「内容はなんだ」
「小説本です。短編集です。自分も最初の一編を読んだだけですが」
鯉登がゆっくり訊いた。
「心当たりは無いのだな」
月島もゆっくりはっきり答える。
「ありません」
本を手に取り、表紙を少し撫でてから、月島はそれを机の上に置いて鯉登の方に押しやった。
「お読みになるなら差し上げます。自分の物とも言いがたいですから」
「お前ではないのだ、露語など読めん」
そう鯉登が言ったにも拘わらず、もう本になど関心を失ったのか、月島も本に手を出さない。
結局、月島はそれを鯉登の元に置いていった。
「まあ、赤くはなかったんですが」
部屋を辞する前にごくごく小さな声で呟いたのを、鯉登は聞き逃さなかった。
「?」
声を掛ける前に月島は外へ出て行った。小柄な部下が寒空の下兵舎へと帰ってしまうと、鯉登は胡坐を掻いて座り込み、腕組みをして置いていかれた本を眺めた。そうやってしばらく考えてから、鯉登はその本を丁寧に棚にしまった。
鯉登がその本の内容を知ったのは、数年後だった。大学校に通うために上京した折に、たまたまロシア語を選択した学友が本棚にあったこの本を手に取ったのだ。
「お前は小説なんぞ読むような質では無いと思ったのだがな、鯉登」
と、手に取った本をパラパラと捲り、
「しかも露語原文とくる」
「もらった物だ。私には読めん」
貰い物ゆえ捨てるに捨てられなかったが、と、さも何でもなさそうな素振りをしてみせてから、鯉登は訊いた。
「読めるのか」
「まあ、読もうと思えば」
「読むなら貸すが」
興味を持つかは賭けだなと思ったが、人の本棚でわざわざそう言ってきただけあったのと、ごく短編であったのとで、読む気になったらしい。貸したことも忘れた頃に、学友は酒と本とを持って鯉登の下宿に現れた。
「まあ、端的に言うと、癲狂院に入れられた狂人が罌粟を畑から根こそぎ引き抜く話だった」
「芥子を? 引き抜く?」
芥子、のその一言で、打たれたように鮮やかに思い出す人があった。
「そう、その花を悪の凝り固まった物、神の反逆者だという妄想を抱いて」
「反逆......」
立ち上るように脳裏に浮かんだのは、あの、五稜郭に突入する前のあの、敬愛する上官が兵を鼓舞する演説だった。
そうだ、芥子畑があったはずなのだ、どこかに。
赤くなかったんですが、という呟くでもなく零された声が鯉登の脳裏に浮かんだ。