月島ァという声が聞こえて、椎久飛男は廊下の向こうを振り返った。見れば、ちょうど軍服をかっちり着込んだ小柄な軍曹が角を曲がって来たところで、月島ァの声は、鯉登少尉のものだろう。
少尉殿の「月島ァ」は聯隊内では語り種だった。なにせ、日に何度かはいろんな調子の「月島ァ」が聞こえてくるのだ。案の定、月島軍曹が現れた角に鯉登少尉も姿を見せ、険しい顔でこちらを見ている。だが、月島は振り向きもせずに椎久の方にやってきた。
「待たせたな、椎久一等卒」
「いえ、問題ありません。――あの、少尉殿の方は良いのですか?」
鯉登の声は、はたから聞いても分かるほど懸念の調子を含んでいる。
「いいんだ、きりがない」
横を通り抜ける古参の軍曹に、椎久は慌ててついていった。兵舎から出る前に、ちらっと後ろを振り返ると、少尉はまだ難しい顔をしてこちらを見ている。椎久でさえ気付くぐらいなのだから、月島本人が鯉登の声から滲み出る物に気付いていないわけがない。だが、月島は前を向いたままで歩調を崩す様子がなかった。不敬な態度と言えば不敬な態度なのだが、古株の連中の話によると、月島軍曹は鯉登少尉が士官学校を出て旭川に来た時からの教育係で、「月島ァ」はその頃から始まっているらしく、軍曹は必要が無いと判断すればしばしば適当にあしらうことがあるのだという。
実際、鯉登少尉が月島軍曹を呼びつける頻度は、他の少尉・軍曹の組み合わせと比べてはっきり多いので、月島軍曹の態度も分からないではない。だが、今回は鯉登少尉が心配するのも順当なのではないか、と椎久は密かに思っている。
椎久が大隊長に呼び出されたのは、一週間前のことだった。そもそも、一等卒が一人で佐官に呼び出されること自体がおかしかった。しかも、その呼び出した少佐というのが何かというと怒鳴り散らすと評判の人物で、もう、その段階で厄介ごとの予感しかなかった。心細く思いながら出頭した執務室で告げられた命令がまたおかしく、つい椎久は訊き返してしまった。
「自分が、でありますか」
「そうだ」
「月島軍曹殿に同行して、小樽に行け、と」
「そう言った」
「しかし、私は月島軍曹殿の内務班ではありません」
執務机の向こうに座っている大隊長の顔は、椎久が何か言うごとに不機嫌そうに歪んでいったのだが、とうとうそれが自分を睨み付けるに至ったので、椎久は口を噤んだ。
「貴様はこの私に口答えをするのか」
「いえ、月島軍曹殿のことは、あまりよく知りませんので、自分で務まるものかどうか......」
言い訳には自然と不安が滲んだが、なぜかその態度はお気に召したらしく、大隊長は何度か頷いてしたり顔で顎を擦っている。
「月島軍曹に不安を覚えるわけか」
「その......もちろん、命令なら懸命に務める所存です」
「うむ、実はな、違う班のお前に命じるのは、手心を加えてほしくないからだ」
「手心、でありますか」
「そうだ。小樽で札幌第二十五聯隊と合流し、港で物資を受領して汽車で師団まで運ぶ、それが今回の任務ではあるが、お前には他に大事な使命がある」
「使命、でありますか」
「ああ」
そこで大隊長は右手のひらを上に向けて軽く手を握り、近くに寄れというようにくいくいと椎久に向けた人差し指を動かした。素直に一歩執務机に近寄り、腰を屈めて顔を近づけると、大隊長は他に誰もいないというのに、声を潜めて言った。
「月島軍曹から絶対に目を離すな」
言われたことが分からず、椎久が固まって瞬いていると、大隊長は顔を離し、背もたれにすっかり体重を預けた。また不興を買うかもしれないと頭の隅で思いつつ、訊かずにいられなかった。
「あの、それはどういうことでしょうか」
大隊長は、椅子をくるりと回転させて椎久に背を向け、窓の方を見ながら言った。
「そのままの意味だ。何をしたか、どこに行くか、全部見張って全て報告しろ」
「止めなくて良いのでありますか?」
そこで大隊長は九十度ほど椅子を回転させ、横目で椎久を見ると、
「無理だな」
と決めつけた。それから、もう九十度椅子を回転させて元の通り椎久の方を向くと、もったいぶった調子で言った。
「お前を選んだのにはもう一つ理由がある」
「......」
「詳しくは言えんが、月島軍曹にはアイヌに仇為す行為があったという疑いがある」
「アイヌに」
「本来、アイヌの持ち物であるはずの物を奪おうとした疑いだ」
「......私に見張りを命じる理由は、私がアイヌだからですか」
「そうだ。同胞からの搾取だ、貴様なら特に思うところがあるだろう?」
「......」
椎久は拳を握りしめた。そもそも和人に何かを奪われなかったアイヌを椎久は知らない。
大隊長は椅子にふんぞり返ってさらに言った。
「いいか、お前が思っているより、これは大きな物が絡んでいる。それを明るみに出したいという意図もある。だから、余計なことはするな。とにかく、四六時中離れずに全て報告しろ」
「はい」
「あと、くれぐれもこの命令は漏らさぬように」
「了解いたしました」
「よし。では、下がれ」
「はい」
感情を微塵も出さずに椎久は戸口で一礼し、部屋を出た。
解放されるなり椎久は急いで自分の大部屋に戻った。消灯が近かったが、班長を探しに下士室に行くと、班長殿は班長殿で大隊長に呼び出された椎久のことを気にしていたらしく、すぐに椎久を招き入れてくれた。
「何の用事だった、大隊長殿は」
「月島軍曹殿に同道として小樽に行けということでした。第二十五聯隊と合流して港で物資を受領しろとのことであります」
兵営を離れるのだ、ここまでの命令は言ってもいいだろう。逆に言わずに出て、脱走などと言われてはどんな目に合うか分からない。とにかく、公用だということは認めてもらわなければならない。
「なぜ俺の班の所属なのにお前が」
「分かりません。自分も訊いたのですが、口答えするのか、と不機嫌になってしまわれて」
話を濁して伝えたが、班長は渋い顔をしただけで、さらに問い糾すことはしなかった。それがあの大隊長が隊の中でどう思われているのか示している。
「班長殿。月島軍曹殿はどういった方なのですか。大隊長殿は何か思うところがあるような口ぶりだったのですが」
椎久が月島について知っていることと言えば、同じ中隊ではあるが別の班であることと、鯉登少尉によく呼びつけられているということぐらいである。日清・日露に従軍した古参だと言うことは知っていたが、入隊して二年目の椎久が知っていることはさほどない。
椎久が若干不安そうにしているのを感じたのか、班長殿はすぐにひらひらと手を振った。
「月島はそんなにおかしな奴じゃない。それより、大隊長の方がめんど――」
言い過ぎたと思ったのか、班長殿は言葉を止め、仕切り直すように椎久に言った。
「まあ、言われたことだけやっておけ。変な色気を出すと馬鹿を見る。それで、出立はいつだ」
「一週間後の月曜日であります」
「帰営は?」
「その週の水曜日の予定ですが、天候に寄るということでした」
「分かった。公用の手続きはしておく。出る前に公用証を必ず取りに来い」
「はい。あの、」
「なんだ」
班長殿に視線を向けられたところで、椎久は言いかけた言葉を止めてしまった。アイヌに仇なす行為の意味を聞きたかったのだ。だが、その詳細を班長殿が知っているかどうか分からなかったし、また、それを口にしてすんなりと教えてもらえるものなのか椎久には判断がつかなかった。結局のところ、この人も和人で自分はアイヌである。
「......いえ、できる限りを行います」
「ああ」
そういう遣り取りがあって出立の日になり、今朝の食事後に問題なく公用証をもらえたので木札を大事に右胸に仕舞いながら、騙されたわけでも陥れられたわけでもないようだ、と椎久はほんの少しだけほっとしていた。だが、鯉登少尉が口元を引き結び、厳しい顔をして二人に向ける視線を背に受けていると、微かな不安が再び頭を擡げてくる。
曇り空だった。十月の旭川は晩秋である。日が照っていないと寒さが外套の中にも忍び込んでくる。
聯隊の門を出ると、練兵場では椎久と同じ班の兵卒が号令に従って同じ動きを何度も繰り返していた。そちらに混じらずに道を歩いているのは妙な気分だった。
練兵場の方に向けていた目線を、前を行く月島軍曹に向ける。師団の敷地が大半を占めるこの辺りでは、兵卒が外出を許可される日曜以外はそんなに人通りは多くない。後ろからついて歩きながら、椎久は件の軍曹殿を上から下まで眺めて首を捻った。その姿はずいぶんと小柄で、背丈は人より大柄な自分の肩より下だろう。自分の方が上背はあるのに、大隊長が言下に「止めるのは無理」と言ったのが解せなかった。
門を出てすぐの二七角の乗り場で手を上げ、馬車鉄道を停めて乗り込む。たまたまなのか、月曜の朝はいつもこんなものなのか、他に乗客はいなかった。誰に見られるわけでもないのに、月島はぴんと背筋を伸ばして座席に座っている。自然、椎久も気を抜くわけに行かず、ぴしりと姿勢を正して座り続けた。
すぐに分かったことだが、月島軍曹は思ったより物静かな人だった。考えてみれば、月島の声が聞こえるのは号令を掛ける時ぐらいだったし、そもそも賑やかな印象を覚えていたのは鯉登少尉の「月島ァ」であって、月島自身ではない。特に会話は無いが、上官と部下の関係だ、公務の最中なのだと思えばそれが普通だろう。
旭橋を越えた辺りから乗客が増えてきた。そこから店の並ぶ師団通りを通って旭川停車場で馬鉄を下りたのは一〇時過ぎだった。買い物客が集まってくる頃合いで、停車場前の広場はさすがに人が多かった。土を踏み締め広場を横切り、改札を抜けて赤い帯の三等車両に乗り込む。座席に並んで座ると、ほどなく汽車は動き出した。座席はそれなりに埋まっていたが、満席というほどではなかった。月島が窓側に座ったが、小柄なせいもあって椎久からも窓の外がよく見える。
旭川を出ると列車は師団への引き込み線の出る近文駅へと向かう。物資受領だというのになぜ練兵場の引き込み線からの出立ではなく、なぜ二人しか出ず、なぜ札幌第二十五聯隊と合流になるのか。考えれば考えるほど不安の種ばかりが思い当たる。椎久は隣に座る軍曹にちらりと目をやった。月島は表情を浮かべず外を眺めている。
――この人を泳がせるためなのか?
軽い不安を無理やり心の隅に追い遣り、月島の視線を辿って椎久も外を見た。
――チカプニ・コタン......
自分の生まれた土地を眺めながら、大隊長の言葉を思い出して椎久は憂鬱になった。
椎久は、近隣のアイヌが集められてチカプニコタンができてから生まれた最初の世代である。親世代に複雑な思いがあるのは感じていたが、自身はチカプニに愛着がある。だが、給与地と定められたこの土地さえ和人の投機家に取り上げられそうになり、不安定な行く末に気付いたのが少年の頃だった。その動きの原因になったのが、そもそも第七師団の移駐による地価高騰のせいなのだから、そうしてみると、「徴兵」されてその第七師団にいる自分はなんなのかと滅入る物を感じ、ちら、と小柄な軍曹殿を見る。月島の顔には先ほどと同様、何の表情も浮かんでいなかった。
――それはそうだ。
滅入るのは自分がアイヌだからであって、この風景からそんなことに思い当たる和人などいるわけがない。最初から特に期待しているわけでもなかったが、奇妙に落胆している自分がいることにうまく折り合いを付けられないでいる。
汽車は石狩川に沿って走っている。近文駅、伊納駅と、進むほどに街は遠くなり、景色は山の中になる。川が蛇行し急流の存在を示す激しい音が窓の外から聞こえてきた時、
――カムイコタン......
「カムイコタンというのは」
自分の思考とまさに同じ単語が音で聞こえて、椎久はビクッと体を揺らした。その動きを不審に思ったのか、月島がこちらを向いた。慌てて椎久は聞いているという印に返事をした。
「はい。カムイコタンがどうかされましたか」
「神の住まう場所ということだろう?」
「はい。神の集落とか神の里とかそういう意味になります」
「前から思っていたが、随分険しい場所だな」
コツコツと月島が軽く握った拳、人差し指の関節で窓を叩いた。外は荒々しく削れた岸や大岩が目立つ激流である。
「ここに住まうのは魔神で、人の乗る舟を転覆させると言い伝えられているのです」
「畏れられていた場所というわけか」
「はい」
減速をしていた汽車が神居古潭駅で軋むように止まる。外を駅辨売りが歩いていて、昼にはまだ早いが、汽車に乗る前に買い求める者もいる。〈神の住まい〉はちょっとした観光地になっていて、宿が数件あるのだという。実際、難所は難所だがこの時期は紅葉が美しい。
椎久はよく分からなくなる。急流に飲まれる者が後を絶たないが故の畏敬の地が観光地となるのは良いことなのか悪いことなのか。畏敬の地が畏敬の地のままであるには、いつまでも危険であれということで、死人が出るのも已むなしという考え方になるのだろうか......
〽雪に若葉に紅葉に
甲高い歌声が外から聞こえている。月島軍曹が不審げに窓の外を見た。
「聴いたことがある節だな」
〽風景すぐれし神居古潭......
それは流行の歌のように聞こえた。
「『鉄道唱歌』ではないでしょうか」
「『鉄道唱歌』?」
外を歌声が過ぎていく。どうやら、父と子の親子二人連れのうち子どもの方が歌っているらしい。いったん遠ざかっていった歌声は、思いがけず今度は車内に響いてきた。そろそろやめなさい、と言いながら車両端の扉を開けた父親がきょろきょろと車内を見回している。厚手の布で作られた着物の上に洋風のコートを着た父親は、中折れ帽姿も様になっていてどちらかと言えば街で暮らす者のように見える。男は座席の空きを見計らうと、子どもの手を引いて椎久と月島の前にやってきて帽子をやや傾けて会釈し、子どもを窓の方に座らせた。子どもの方は着物の上に赤ゲットの外套を着た男の子で、寒い外から車内に入って頬が紅くなっている。騒ぐようなことはなかったが、軍服姿の二人が物珍しかったのか、きらきらした目でこちらを見上げた。
と、思いがけず、月島軍曹がにこりと子どもに向かって笑みを作ってみせた。今までの仏頂面はどこに行ったのか、はっきりとした笑顔であったので、椎久は驚いてぱちぱちと瞬きをし、急にあたふたと自分も親子に向かって会釈した。
袖章を見た子どもが、軍曹さん? と尋ね、月島が愛想良く、そうだ、と答えているのを、椎久は唖然と眺めている。同じ班ではないので為人は知らなかったが、この人は子どもが好きなのだろうか。
「さっきの歌はどう続くのだ?」
月島に尋ねられて、一瞬、よく分からなそうな顔をした子どもが、すぐに気がついて口を開く。
〽こゝに地形は狹まりて 上川原野ぞ開けゆく
聞きながら外の景色を見た月島が、なるほどな、と言うのと同時に汽車がゆっくり動き出す。
「その歌は日本中全部歌詞があるのか」
「分からないけど、たくさんあるよ。内地とか、九州とか、四国とか、いっぱい」
「そうか。俺は新橋から出られない」
「?」
いぶかしげな顔になった子どもを見ながら、月島が口を開く。
〽汽笛一聲新橋を
銹びた声だった。思いがけないぐらいには良い声と言ってもよかった。だが、歌声はその短い一節で唐突に止まった。聴いていた子どももその親も椎久も、しばらく続きを待ったが、歌はそれっきりで続く様子がない。とうとう子どもがおっかなびっくり訊いた。
「続きは?」
月島は姿勢を正したまま真顔で言った。
「この続きを知らないから、いつまで経っても新橋から出られない」
ふふ、とはじけるように子どもは笑い、得意げに続ける。
〽はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として
「案外風流なものだな」
「ふうりゅう?」
「上品というか、趣があるというか」
月島の方は子どもに通じるか迷うような口調だったが、子どもは相手してもらえたのが嬉しかったらしく、人懐っこく尋ねてきた。
「軍曹さんはどこの出身? 旭川で生まれたの?」
「いや。こっちの一等卒はそうだが」
「え? あ、はい」
自分に振れられたのも、自分がチカプニの出であることを知っていたことにも驚いて反応が遅れた。子どもは一度椎久を見上げてから、もう一度月島の方を見た。
「じゃあ、軍曹さんはどこ?」
なぜか月島は渋いような微妙な表情になった。
「内地だ。内地の真ん中辺りにある島だ」
「どこ?」
月島はやや重たげに口を開く。
「......佐渡島という所だが、佐渡には――」
皆まで言う前に子どもは口を開いていた。
〽佐渡には眞野の山ふかく 順德院の御陵あり
松ふく風は身にしみて 袂しぼらぬ人もなし
「あってる? この佐渡?」
「ああ......」
口を曖昧に開いた状態で固まっていた月島が、子どもに尋ねた。
「佐渡に鉄道が通ったのか?」
「知らない。でも歌にはあるよ」
そこで父親が苦笑しながら言った。
「あんまり調子に乗らせないでください。下手すると最初から最後までずっと歌ってる。深川まで着いてしまいますよ」
「そんなにあるのですか」
「そのようです」
「全部覚えているとはたいしたものだ」
父親に向かって口を尖らせていた子どもは、月島が褒めると自慢げに肯いた。
「でも、汽車の中だからな。聴かせてもらうのはここまでにしておこう。ありがとう」
うん、と頷いて口を噤んだあたり、もともと素直な質なのだろう。
親子連れは瀧川で降りていった。窓の外からこちらを振り返った子どもが手を振るのを、月島は軍帽を少し持ち上げ愛想の良い笑みで見送る。それを、椎久はやはり信じられない気分で見ていたが、子どもが見えなくなった途端、今までの笑顔はどこにいったのかというほど、すん、と表情を消して月島が座席に座り直したので、危うく吹き出しそうになった。どうやら、軍曹殿はなけなしの愛想を掻き集めていただけらしい。どやしつけられたくはなかったので、辛うじて吹き出しはしなかったが。
昼を過ぎて、そういえば昼食はどうするのかと思い出した頃に砂川に着いた。線路の上をまたぐように橋が架かっているのが珍しく、椎久はその橋をなんとはなしに眺める。乗り換えのためか大きな町なのか、乗り降りする人が多い。窓の外を駅辨売りが呼び込みをしているのが見える。
「食べるか?」
急に言われて椎久は咄嗟に頷いた。小樽に着くのは日暮れ時だ。食べていいなら食べておきたい。駅辨売りを呼び止めようと、月島が立ち上がって窓枠に手をかけたのを見て、椎久は、自分が、と月島を止めた。
「奢ってやる。二つ買ってくれ」
「はい」
両手を広げて窓枠を下から持ち上げると、外から冷気と共に木材の香りが入り込んでくる。椎久は駅辨売りを呼び止めた。
「二つ頼む」
「はい。お茶はどうします?」
「軍曹殿、いかがいたしますか」
「頼む。お前も要るなら頼め」
「はい」
遣り取りを聞いていた辨当売りは、ちゃっかり既に土瓶を用意している。椎久が弁当二つと土瓶を二つ受け取ると、弁当売りは代金をもらおうと手を伸ばしてくる。椎久が月島の方を見ると、これがなぜかごそごそと体をまさぐっている。上衣の物入を確かめ、少し首をひねり、今度は背嚢を開けたり雑嚢を弄ったりし出したので、椎久はだんだん心配になってきた。もしかして自分が出さなければならないのでは、と思った頃に、ようやく月島が財布を雑嚢から引っ張り出した。
「これで足りるか」
「はい」
急いで代金を渡してお釣りを受け取るなり、汽車が動き出したので、ふう、と椎久は息を吐いて、月島の向かいに座り込んだ。向かいからも同じように、ふう、と溜め息が聞こえて椎久が顔をあげると、月島の方もほっとしたような顔をしていたのだが、椎久に見られていることに気がつくと、すい、と表情を消した。弁当を二つ抱えたままだったと気がついて、椎久が慌ててお釣りと弁当と土瓶を渡すと、月島は何も無かったかのようにそれらを受け取った。
ついつい、椎久は笑みを浮かべてしまい、はっとなって慌てて真顔を取り繕った。小柄な軍曹殿は椎久をちょっと見ただけで、睨むようなことも怒鳴るようなこともなく、弁当をあけてそのまま食べ出した。
椎久もぱかりと弁当を開け、ぎゅうぎゅうに詰まったご飯に箸を入れる。向かい合わせで黙々と食べるのがなんだか楽しくなってきて、しばらくもごもごやってから、椎久はちらっと月島を窺った。健啖な様子を発揮して、小柄な軍曹殿の弁当はもう空に近い。話しかけてもいいような気がして、椎久は小声で訊いてみた。
「軍曹殿」
「なんだ」
「順徳院というのは何ですか」
「ん? ああ、さっきの歌か。大昔の天皇だそうだ」
天皇と言われた時に、もしかして和人の間では当たり前の知識で拙いことを訊いたかと思ったが、月島は罵倒するでもなく淡々としている。ほっとして、さらに訊いてみる。
「御陵というのは?」
「墓だ」
ちょっと考えてから椎久は訊いた。
「大昔は、佐渡というところに天皇陛下が住んでおられたのですか? 東京みたいな場所だったのですか?」
月島はちょっと眉を上げ、ほんのちょっぴり口を曲げた。それは皮肉げな笑みに見えなくもない。
「いや。佐渡は流刑地だ。順徳院は京都から追放されたとか聞いた」
よく分からなくなって椎久は眉を寄せて考えた。それから、恐る恐る小声で訊いてみる。
「天皇陛下も罪人になるのですか?」
月島は椎久を見詰めて、ぱちりぱちりと二度ほど瞬いた。ああ、今度こそ怒られると思った時、月島が思いがけず小さく笑った。
「面白いことを言うな、お前」
閃いた笑みは瞬く間に消える。
「正確にどういう罪なのかは知らん。政争に負けたとかそういう類いのものだろう」
突き放したような言い方だ、と思った。和人はみんな天皇陛下を崇め奉っているのだと思っていた。入隊の時によく分からないまま御真影というものに敬礼をさせられたから、てっきりそういうものだと思っていたのだ。勝った側が今の陛下の祖先だから、政争に負けた側は別に崇めなくても良いということなのだろうか。
月島は会話に興味を無くして、窓の外を眺めている。
椎久は弁当を食べ終わり、土瓶から茶をいれて口に含んだ。
そのまましばらくは向かい合わせに座っていたが、岩見澤で混んできたので詰めた方がよいだろうと、再び椎久は月島の隣に座った。物静かな軍曹殿は、椎久がどう動こうと理不尽に怒るようなことはない。途中で眠気に襲われ、さすがに眠るのはどうかと思って必死に目は開けていたが、案外眠っても怒らなかったのかもしれない。
日が傾いてきた頃、駅に着く前にと便所に向かう。便所の穴から線路に敷かれた砂利が流れ去って行くのが見える。冷気混じりの風が入り込んできて、椎久はぶるっと身震いした。風にあたりながら小用を済ますとさすがに目が覚めた。
――札幌か。
札幌には第二十五聯隊の兵営がある。受領の予定はもともと明日で、必ずどこかで宿泊することになる。なのに、なぜ札幌で合流しないのだろうか。確かに、第二十五聯隊の衛戍地は札幌停車場からは離れた場所だとは聞いているが、兵隊二人だけ小樽で宿泊させるより月寒の兵営に泊めてしまう方が経費も浮くのではないだろうか。経費など微々たるものだというのなら、中間地点の岩見澤で途中下車してそこで宿泊でも良かったはずだ。その方が旅程にはよっぽど余裕が出る。岩見澤・小樽間は汽車の本数も多いようだし、物資の受領は明日の十時なのだから十分間に合うだろう。命令であるからにはどんなに時間が掛かっても移動はするが、今日中に小樽に着いていなければならない理由が分からない。命令がいつでも合理的かと言われれば確かに理不尽な事の方が多いのだが......
席に戻ると、軍曹は腕組みをしながら窓の外を見ている。
――この人を、小樽で泳がせるのが肝なのだろうか。
巻き込まれてしまったようで不安でもあり、また、月島軍曹にはここまでの道中で嫌な思いもしなかったので後ろめたくもある。
椎久は溜め息を吐きたいのを押し殺して、再び月島の横に座った。
札幌を出ると、琴似、輕川と平坦な土地が続いて錢函に至る。窓の外に海が見えてきた。北海道の中心部から出て、ようやく、の気持ちが強い。座り続けた体は背中も腰も強ばって痛いぐらいだが、相変わらず月島はぴんと姿勢を正している。よほどの体幹の強さと忍耐力が無いとこうはいかない。大隊長の言った「無理だな」の片鱗をわずかに感じながら、椎久は軍靴の中で足の指を曲げたり伸ばしたりした。いい加減、足もむくんでいる。
線路は海沿いに変わった。ちょうど切れた雲間から夕陽が海原に最後の光を投げている。窓側に座っている月島が眩しげに目を細め、軍帽の鍔を少し下げた。
「お席、代わりましょうか?」
「うん?」
小柄な軍曹はこちらを向いて、下ろしたばかりの鍔を上げて椎久を見上げた。月島は最初訝しげな顔をしていたが、椎久がなぜ座席の交代を申し出たのかすぐに気づいて、いや、と首を振った。
「大丈夫だ」
だが、もう一度窓の外に顔を向けかけたところで椎久を振り返った。
「海が珍しいのか? なら、代わるが」
「いえ、そういうわけではありません。叔母が小樽に嫁ぎ、その縁で二度ほど来たことがあります」
「小樽に」
「はい。叔父の方は鰊番屋で働いていました」
本当はもっと前はちゃんとコタンがあって、ヲタルナイ場所という所で和人と交易していたのだと聞いたことがある。だが、御維新よりもずっと前にそれは崩れ去っていて、叔父が小さい頃にはもうコタンには二、三〇人しか居なかったという。今はどうなっているか分からない。小樽にはその他にもコタンがあるのかもしれないが、この辺りに住んでいない椎久には詳しい状況は分からない。
そういった説明を口に出すのは憚られた。この人にぶつけてもしょうがないのだ。窓の外の海を見ながら、知らずため息をついた。
――アイヌに仇なす、か。
月島がちらっと椎久を見たので、叱責されるかと慌てて姿勢を正したが、月島は何も言わずに窓の外に視線を戻した。月島は無表情を崩していないが、海を眺めながらなにやら考えに陥っているようにも見えた。
列車は海沿いを走り続ける。張碓の険しい断崖が見えてきたところで、なんとはなしに椎久は口を開いた。
「この辺りも土地の者にカムイコタンと呼ばれています」
言ってしまってから、この人にとって「土地の者」は入植した和人かもしれないと気がついて、椎久は口を噤んだが、月島は窓の外を見て、なるほど、と呟いた。
「ここも険しいからな」
列車は、海に立つ奇岩の横の隧道に突入した。音が汽車の中に籠もる。月島は景色の見えなくなった窓から視線を椎久に移した。
「人が容易に寄りつけない場所をカムイの物と認識したのか。和人が険しい火山に地獄や極楽を結びつけるのと似ているのかもしれないな」
「そういう場所があるのですか、内地に」
「ああ、いや......」
小柄な軍曹殿はやや口ごもり、それからなぜか気のなさそうに話し始めた。
「子どもの時に住んでいた場所から、海を挟んだ対岸に、山が見える時があった」
故郷を懐かしんでいるようには見えないなと思いながら、椎久が単語を繰り返す。
「山、でありますか」
「冬の、ごくたまに晴れた時の、さらに稀な話だが、遠くまで霞まず見える時があって、その時に白くて高い山が見えるのだ。それが、本州の霊山の一つで」
「霊山」
「そうだ。山をまるごと信仰しているのだそうだ」
「神の住む所?」
「よくは知らん。山がまるごと神なのかもしれない。そこに、」
ちょっと言葉を切ってから、月島は言った。
「地獄の入口があると言われていた」
汽車が隧道を抜け、海がまた見えてきた。日は海に没し、僅かな明かりだけが残っている。
月島が急に訊いてきた。
「お前、アイヌ名は?」
話を変えたようだと思ったが、椎久は素直に答えた。
「ウテㇽケであります」
「意味は?」
「跳躍です」
「だから飛男、か。苗字の方にも意味はあるのか?」
「シクは大きな弓という意味です」
薄い色の目が椎久の方を見た。
「狩りが得意なのか」
「......弓は得意でした」
弓を持たなくなってもうずいぶん経つ。答えるまでのわずかな逡巡に蟠りが現れてしまったような気がして、椎久は誤魔化すように居住まいを正した。月島は、そうか、とだけ言って窓の外に視線を向けた。途端にまた汽車は隧道に入ったのだが、今度は月島は何も見えない窓から視線を移さなかった。
車窓に古参の軍曹の顔が映っている。そこから視線を外すと、椎久は真っ直ぐ前を見た。
月島軍曹は普通の人に思える。会話を交わせば、親しみだって感じる。上下関係では理不尽なことも多い軍隊において、随分まともな人だろう。特段アイヌを下に見ているようにも感じない。もっと付き合いが長ければ、そういうものが端々に見えるのかもしれないが、単に一日一緒に列車に乗っただけではそれは全く分からない。
大隊長の言う「アイヌに仇為す行為」も分からなければ、そもそもなぜ大隊長がこの人物に拘るのかも分からなかった。