翌週の日曜は雪がしんしんと降っていた。風があまり無いことでまだ救われているが、凍てつく、の言葉が似合う天候だ。月島は軍靴で雪道を踏み、白い息を吐きながら兵舎から官舎に向かって黙々と進んだ。凍った雪の上に軽い雪が乗って滑りやすく、少し気を抜けば足を取られる。北海道に移ってきたばかりの頃は、新潟の湿った雪と違うことに慣れなかったが、今ではこちらが月島の普通になった。
建ち並ぶ官舎はどれも同じ形である。しかし、何度も来ているので表札の確認は必要なかった。玄関の引き戸を開ける前に軒の下で外套の雪を払い、軍帽を一度脱いで積もった雪を落としてからかぶり直した。
訪いを入れると、急ぎ足の音が近づいてきて、鯉登がすぐに現れた。
「どうしたのだ」
「菅原が屑屋を見つけたのです」
三和土からでは鯉登の顔が見にくかったので、月島は軍帽の鍔を片手で少し上げ、やや首を傾けて見上げた。
「気になるのでしょう?」
言うなり、鯉登の顔に大きな笑みが浮かぶ。
「なる!」
奥に戻りつつ、鯉登は月島の方に指を向けた。
「少し待て! すぐに支度する!」
休養日だったが、鯉登は軍用コートで現れた。
「軍服で? 行くのはただの屑屋ですよ」
「偕行社で集まりがあるのだ。今から行って帰ると、身支度の時間があるか怪しい」
頷いて月島は外に出た。すぐに鯉登が横に並ぶ。
「どこだ?」
「常盤通りの辺りです」
「ふむ。あそこなら店もあれば人夫も職人もいるしな」
「はい。その屑屋は常盤通りと中島遊郭辺りを縄張りにしているそうです」
馬鉄に乗ってしばらく、菅原が常盤橋前でこちらを見詰めて待っているのを見つけて近くで降りた。菅原は鯉登に敬礼をしてすぐに店の並ぶ方に身体を向けた。
「あちらの飲食街の裏手にせせこましい路地があって、屑屋はそこに住んでいるのであります」
「軍人三人に押しかけられて、屑屋が警戒しないといいものだが」
月島が懸念を口にすると、大丈夫だ、と菅原は笑みをみせながら請け合った。
「まあ、のんびりした男だよ。もう何人かで話を聞いていいかとも伝えてあるし」
それは、部下相手でなければ人懐っこさの方が滲み出てくる菅原の人当たりの良さのせいだろう。菅原に案内されて行ってみると、屑屋の家は粗末で小さく、綿入れを着た男が一室しかない部屋の真ん中に火鉢を据えて待っていた。その火鉢を四方から囲んで男四人が座ると、それだけで部屋はいっぱいになった。
「あたしに聞きたいことがあるってぇお話でしたが、軍人さんが雁首揃えて何のお話で?」
「話したとおり、公用じゃないんだ。ほら、こないだ巷を賑わせてた泥棒を師団の軍曹が捕まえたって新聞に出ていただろう?」
「ああ、ああ、それが載ってる新聞を出した家もありましたね」
「その軍曹がこの男だ」
そんな口火の切り方があるか、と月島は顔にだけ不満を出したが、にこにこ愛想良く屑屋に話しかけている菅原は気づかない。屑屋が月島を見て得心いったように頷いた。
「ああ、だから、その捕まった男の話が聞きたかったんですか」
話を聞きたいのは俺じゃないと大いに言いたかったが、ややこしくなるのでそれは言わずに月島は尋ねた。
「その泥棒から屑を買ったことはあるのか?」
屑屋は煙草を一本懐から取り出し、呑気に吸って吐いた。
「ありますよ、二本向こうの道沿いに住んでいたんです。もともとは師団が旭川に来た頃に住み着いた人足だって人が言ってましたが、今は何の仕事しているやらとんと分からない有様で、すっかりごろつきですよ。しばらく見ないなと思っていたら、捕まったって言うじゃありませんか。びっくりですよ。まあ、荒っぽいところもあったし、どこで何をしてるんだかよく分からないのに酒だけはよく飲んでて、そういうことしても不思議じゃない男でしたがね」
のんびりした口調にしびれを切らした鯉登が核心を訊いた。
「その男から本を買ったことはないか。古い本だ。あるいは、こう、折った紙なんかも」
「あります」
「ある!」
興奮した菅原が声をたて、
「間違いないか?」
「だって、ごろつきが本ですよ? そりゃあ覚えてますよ。柄にないもん出してきたなって」
「それ、どこにある?!」
重ねて訊かれ、途端に屑屋は困惑したように眉を寄せた。
「ええ? だって、もう二週間以上前の話ですよ。まとめて持って行っちまいました」
固唾を飲んで返答を訊いていた鯉登は、だろうな、と力を抜いた。菅原が眉を下げて未練たらしく訊いた。
「どこに持って行った?」
「もう、持ち込み先でも使っちまったと思いますけど......」
「一応、調べるだけ調べたいんだ」
「紙でしたよね。紙はいつも――」
言葉を切った屑屋が、ぽん、と煙草の灰を火鉢に落とした。
「そういえば、その紙屑、持ち込む前に買ってくれた人がいましたよ」
途端に三人の目が屑屋に集まる。
「紙だのなんだの集めながら歩いていた時、師団の敷地からすっ飛んできた人がいて」
「なに? 第七師団に行ったのか」
「火曜に行くことにしてるんです。ほら、招魂社ってんですか、立派なお宮が建って、競馬場もできて、あこいらも紙を出してくれるんです。そのまま今度はあの真っ直ぐな道路をずっと行って――」
「工兵の方だな?」
「そうなんですか? よく知りませんが。――それで、向こうまで行ったら角を曲がって司令部も行くでしょう? そんでそこまで行ったら、どれ官舎の方にも、ってなるじゃないですか。その辺りでね、紙屑持ってるなら買いたいって」
「そうか、司令部か......」
鯉登が呟いたのを気にせず、のんびり屑屋は続ける。
「本なんか売りそうにない男が本を出して、その日のうちにいつもと逆に紙屑が買われたんですから、そりゃあよく覚えてます」
そこで屑屋はもう一度煙草に口を付け、煙をすーっと吐いてから、三人に順に目を向けた。
「その本、何か大事なものだったんですか?」
屑屋の路地を出て常盤橋まで出てくると、鯉登がとうとう笑い出した。月島が菅原を睨み付ける。
「言うに事欠いて俺の日記はないだろう」
「すまん、高価なものを探しているとばれたらまずいかもしれんと焦って」
「人を巻き込まずに自分のだと言え。しかも、疑ってたぞ、あの様子は。誤魔化しにもなってない」
「すまん、すまん」
屑屋との話を無理やり切り上げて出てきたはいいが。
「師団の中にも目利きが居たということか......」
鯉登は笑いを収めて思案顔になった。
「屑屋の箱橇にそんな高価な物が入っていては、それはすっ飛んでくるでしょう」
菅原が言ったが、月島は釘を刺す。
「菅原、お前が探しているのは折紙だろう。本を見つけても仕方がない」
「いや、待て、月島。あの屑屋、『紙屑が買われた』と言っておった。もしまとめて出したなら、そして、買い上げた人間が古美術品が分かるような目利きなら、まだ望みはある」
「誰が買ったか探すだけ探したい」
姪の為もあってか、菅原はもう少し粘りたいらしい。
「しかし、美術品が分かる兵卒などいるとは思えない。現に、俺もお前も知らないことばかりだったろう」
「となると、将校か......」
菅原が縋るように鯉登を見ると、鯉登は大きく頷いた。
「分かった、ちょうどこれから偕行社で集まりがある。将校には私が話を聞いてみる」
「恐れ入ります、少尉殿」
うむ、と頷き、早速とばかりに旭橋に向かって歩き出したところで、鯉登はくるりとこちらに向き直った。
「月島ァ!」
呼ばれて、黙り込んだまま月島は口を引き結んだ。菅原が横で笑いを隠しきれずに身体を震わせているのが忌々しい。
「何をしている、お前も来い!」
自分が話を聞くのではなかったのか。偕行社に自分など場違いだろうに。