結果的に、将校の中に本を買ったという者は見当たらなかった。
「司令部から官舎に行こうとしていたと言っていただろう? だから、司令部を主に使う方々にもあたってみたのだが、なんで屑屋が本を売っているんだという者がほとんどだったのだ」
「それはそうでしょう」
月島が呆れを含んだ口調で言うと、鯉登は軽く嘆息した。
「考えてみれば、道を歩いている屑屋の押す箱橇の中なんて上からしか見えないし、となると、二階から箱橇までの距離で紙屑に混じって本が入っているかどうかなど、そうそう分かるわけもなかったのだ」
火曜日の演習後、聯隊本部前の門に鯉登と月島と菅原が立っている。さきほどからずっと立っている三人に、歩哨はいったい何事かとちらちら視線を投げている。
「変な言い訳して、変なところで話を切り上げるからこうなるんだ。もう一度、屑屋に話を聞いて、買ったのがどんな奴だったか分からなければ話にならん」
じっとりと無表情に月島が菅原を見ると、菅原は面目無さそうに首をすくめた。
「だから、ここで屑屋が来るのを待っているんじゃないか。火曜に来るって言っていただろう」
「もう行ってしまった可能性があるのではないか?」
鯉登が懸念を口にすると、
「それはそこの歩哨に確認しました。まだ見かけていないそうです。こんなに真っ直ぐな道ですから通れば目に入らないわけがありません。となると、さすがに日没後に屑集めもないでしょうから、通るとしたらそろそろだと思われます」
菅原は少し伸びをするようにして、司令部の方を見たり、その反対側を見たりを繰り返している。夕日は傾いてきていて、影が長く伸びている。誰かが話すたびに白い息が上がる。
最初は菅原が、自分が責任を取って外を見張ると言ったのだ。それを、私も待つと言ったのが鯉登で、その鯉登の月島ァのひと言で、月島もここに立つことになってしまった。正直言えば、寒空の下、なぜこんなところに自分まで立っているのかと月島は解せない気分でいる。
待つことしばし、鯉登が、ふ、と顔を司令部の方に向けた。
「何か聞こえないか」
くずーい......くずーい......
「屑屋だ!」
くずーい、おはらい......くずーい、おはらい......
師団司令部の角を曲がって姿が見えて来るなり鯉登が大股で歩き出したので、慌てて追随する。
「おおい、屑屋!」
鯉登がよく通る声で呼びかけると、屑屋はすぐに気がついて、おっとりと軽く腰を曲げて会釈した。立ち止まって屑屋が近づくのを待つと、三人の所まで来た屑屋が訊いた。
「どうしたんです? こないだは急に出て行っちゃって」
「あー、うん、後の用事が押していたんだ」
菅原が月島の方を気にしながら答える。月島は菅原に不満を込めた視線を投げたが、それはいったん脇に置いて屑屋に訊いた。
「こないだ訊けなかった続きだが」
「はいはい」
「紙屑を買ったのはどんな奴だった?」
屑屋が箱橇を再び押し始めたので、三人もそれに付いて一緒に歩く。
「そうですねぇ、ずいぶん丈は高くて、手足はひょろひょろと長くて、なんだか悲しそうな顔をしていて」
すると、突然、菅原が屑屋に向かって身を乗り出した。
「そいつ、将校殿ではなくて、ただの兵卒じゃなかったか」
「自分は将校さんだなんて言ってませんよ。普通の兵隊さんです」
「ただの兵卒が?」
疑念を乗せて鯉登が声を立てたが、菅原は畳みかけるように尋ねた。
「新兵か?」
「そうかもしれません。なんだかおどおどしてて」
「どこで売った? あそこの角を曲がって、官舎の方に行く途中じゃなかったか?」
「そこです、そこです、あの門があるところ」
となると、第二十七聯隊の、月島や菅原の所属する大隊の厨房がある辺りだ。
「心当たりがあるのか、菅原?」
「新兵全員把握してるわけじゃないが、たぶん高橋だ。――鯉登少尉殿、高橋は私の班の新兵なのです」
途端に、月島が身動ぎし、
「あ」
「あ」
「あ?」
月島、鯉登、菅原の順に声を立て、三人は三様にお互いを見た。月島は、ばつが悪そうな顔をしており、鯉登はその月島に何か言いたそうな視線を送っている。菅原はと言えば、何かを思いついたらしい二人を何度も見比べたものの、何が何やらさっぱり分からぬという顔のままである。
「あー......菅原、高橋を俺の部屋に寄越してくれ」
「お、おう」
頭を傾げたものの、菅原は頷いた。
ロシアとの戦争の後から、月島は下士室を一人で使っている。戦時の体制が解かれて部屋が空いたところに古参だったせいもあり、それはそこまで異例の扱いではなかったが、鶴見の意向が大いに働いていたのだろうということは想像に難くない。その待遇が函館での負傷からの復帰後もそのままだったのは、何らかの思惑があったのではないかと思っているが、鯉登が心配するだろうからそれを口にしたことはない。いずれにせよ、こういう時は都合が良かった。
部屋に置かれたストーブの上にやかんを乗せ、鯉登と一緒に待っていると、廊下が騒がしくなってきた。
違う、そっちは俺の下士室だ! 月島の部屋だと言っているだろう! 隣の班の! 月島軍曹の! 下士室だ! いいから一緒に来い!
菅原の怒声がだんだんと近づいてくる。
「大丈夫か、その高橋とやら」
「飲み込みが悪いところがあると聞いております」
扉を開けるなり鯉登がいたので、菅原が礼をした。
「菅原、入ります」
ついてきた高橋は菅原より頭一つ大きく、悲しそうな顔で突っ立っている。それを菅原が振り返って睨みつけると、慌てて菅原を真似て頭を下げた。
「高橋、入ります......」
二人が部屋に入り扉を閉めたので、月島が徐に口を開いた。
「高橋、三週間前の火曜、俺が浴場で薪を割った時」
「なんでお前が薪を割っているんだ」
鯉登が口を挟んだのを視線で黙らせ、何を言われるのかと高い背を屈めている高橋に話しかける。
「あの時、燃やそうとしていた屑紙はどこから手に入れたんだ」
「は、はい」
ただ訊いただけだというのに、怯えて口を震わせているので、高橋、と菅原が促すと、まるで観念したように、高橋が答えた。
「あ、あの、外を通った屑屋から買ったのであります......」
「なんで屑なんて買ったんだ」
事情を知らない鯉登が訊くと、高橋はそれだけで震えだした。高橋、とまた菅原が促す。
「焚き付けが......前に、上等兵殿に......無くて、その、ものすごく、叱られて......」
しどろもどろの上に息も絶え絶えという調子で高橋が単語を並べる。
「すぐにと、思ったら......外を、屑屋が、見えて......」
「ああ、だいたい分かった」
鯉登がもういい、と手を振って黙らせた。月島が尋ねる。
「幾らだった」
「あ、あの、五銭であります」
「そうか」
月島は机から財布を取り出し五銭を出した。
「手を出せ、高橋」
おずおずと差し出された高橋の手の中に、硬貨を乗せる。
「買った物だとは思っていなかった。巻き上げるつもりはなかった。すまなかった」
高橋は自分の手の中の白い硬貨を信じられない物を見るように見詰め、それから、月島の顔を見て、突然思いついたように、ありがとうございます、と深々とお辞儀した。月島がぞんざいに手を振る。
「返したようなものだ。ありがたがらなくていい」
「あ、あの、他に、ご用件はありますでしょうか」
「いや、これだけだ。戻っていい」
「はい、失礼します!」
長い手足をカクカクと動かして、高橋が部屋から出て行く。はっと気がついて、菅原がその背に声を投げた。
「高橋、それは衣嚢に仕舞ってから帰れ!」
鯉登が呆れて言った。
「たかが五銭ではないか」
「あいつ、巻き上げられかねないので。あ」
菅原が鯉登を気にして、視線を向ける。内務班内のいざこざは班長の責任になるのだ。鯉登は小さく頭を振って不問の意思を示し、そのまま月島の方に物問いたげな視線を向けた。
「それで、月島?」
月島は何も言わずに棚を開けた。中から古い和綴じの本を取り出して机の上にそっと置く。菅原がしげしげとそれを眺めた。
「これが、『美しい紙に印刷された本』か」
「『かつて美しかった紙』に印刷された本、だな」
それぐらいの言い訳はさせてほしい。大事にされていたのだろうが、長い年月で紙は古ぼけ、擦れた部分も多いのだ。
菅原もうんうんと頷きながら、
「確かに、言われなければ古ぼけた本でしかないな」
だが、分かってから明るい場所で見てみると、紺の表紙は優美な植物や鳥の絵が描かれ、紙にはうっすらと模様が入っている。菅原が本から目線を上げた。
「高橋はこれを焚き付けにしようとしていたのか」
「そうだ。他にも紙屑はあったが、本は燃やすのは勿体ないと思って持ってきたんだ」
「間一髪だな。風呂好きのどこぞの軍曹が風呂が沸いていないことに怒り狂って薪を割ってなければ、灰燼に帰していたわけだ」
怒り狂ってなどいない、と心の中だけで思い、月島はむっつりと黙り込んだ。軍曹二人の遣り取りを面白そうに見ていた鯉登が、月島ににやにや笑いかけた。
「『縁があるわけがない』?」
月島は、あー、と声を立ててから、仕切り直すように鯉登を見上げた。
「私が気づいたのは当然として、少尉殿はなぜ気がついたのですか。屑屋と話していた時に既に何か思い当たる様子でしたが」
「ああ。あのな」
風雅な絵が描かれた和綴じの本を一冊取ると、鯉登は月島の目の前に突き出した。
「この字」
繊細な細い筆のような文字が流れるように綴られている。横から覗き込んだ菅原は、見るなり、私には読めません、と匙を投げた。月島は突き出された紙面に目を落としてから、顔を上げた。
「これが活字なんですか?」
「そう聞いた。――ああ、そうか。確かにこんな字の形では活字と言われても分からんな。なあ、月島、これがお前の言う『蚯蚓ののたくったような字』ではないのか」
「ええ、そうです。くずし字と言うんでしたか」
「最初からそう言え」
軽く目を閉じ首を振ってみせた鯉登に、月島が疑問を投げる。
「最初とは」
「前に言っていただろう。報恩寺の住職に『蚯蚓ののたくったような字』を『読めなくて教えてもらったことがある』と」
「はい」
「聞いた時は悪筆のことかと思ったが、それなら『読んでもらった』と言うのではないかと考えたのだ。下手な字というのは、教えてもらって読めるようになるようなものではない。となると、だ」
「つまり、月島がなぜくずし字を読もうと思ったか、疑問に思ったということですか?」
「うむ。月島自身に屑屋の覚えはなかったようだが、二十七聯隊内に買い上げた者が居るなら、回り回って月島の所にきた可能性はあると思ったのだ」
「回り回ってどころか、直接の巻き上げだったわけだ」
菅原はそう言ってにやにや笑うのを睨みながら月島は指摘してやった。
「だが、菅原、お前の目的は折紙だろう。本は目に付いたし、勿体ないと思ったが」
「あー、そうだった。しまった、残りの反故をどうしたのか訊くのを忘れた」
「もう三週間前の話だろう? それこそ焚き付けにしたのではないのか」
鯉登が言うと、菅原は眉を下げてしゅんとなった。
月島が本を取り上げた。本は勿体ないから読もうと思ったが、紙屑を集める趣味はない。当然、手元に他の紙屑は無い。
「この本は返さないとな」
読みかけだったので残念な気がするが、月島にとって読書は金の掛からぬ気分転換でしかない。ぱらぱら捲って栞代わりの紙を取ると本を棚に仕舞いかけたが、思い直していったん机の上に置いた。さすがに、警察に引き渡すまではどこか鍵の掛かるところで保管したい。経理部かどこか金庫を持っている所で預かってもらえないものか......
「おい、それ!」
「は?」
鯉登が大声を上げたので見てみると、驚愕の表情でこちらを見ている。視線の先はどう見ても月島の持つ古ぼけた紙である。
「これですか?」
折り畳まれた和紙は古ぼけていて、何かを書き付けてあるのか、うっすら字が見えなくもないが、これこそ書き損じの反故だろう。
「これも高橋が買い上げた紙の中にあった物です。ちょうど良い厚さだったので栞にしていたのです」
言うか言わないかのうちに、鯉登が興奮して月島の手の中の物を指さした。
「それだ、それ!」
「何なんですか」
「それが、『折紙』だ!」
机の上にぞんざいに投げだそうとしていた手を止め、月島は瞬きした。その手の中から紙を取り上げ、鯉登は慎重にそれを広げる。
「『備前国宗』......『代金子五枚』、ほら、花押もある」
「竈の上に何か乗ってるみたいな絵ですね」
「絵じゃない。花押は字だ。名前が書いてあるんだ。つまり、署名だな。本阿弥某かの」
言われて見れば、「本」と「阿」の文字は確かに読める。
しばし筆で書かれたその文字を見詰めてから、月島は神妙な面持ちで顔を上げた。
「すぐに警察に知らせないと」
「それなら、俺が行く。ひさにも知らせたいしな。ありがとうございます、少尉殿。月島もありがとう」
嬉しげな菅原が足取りも軽く出ていく。それを見送った月島が、ふう、とため息を吐いた。
「礼を言わなければならないのは俺の方だったかもしれません」
「菅原が粘らなければ見つからなかったろうし、時間が経てば全員記憶もあやふやだろうし、屑屋と高橋の証言が無ければ」
「俺が盗んだと言われかねません」
ゆっくりゆっくり読んでいただろうその本を取り上げ、鯉登は、月島、と静かに呼んだ。
「学がないなどと言いながら、こんなものを読もうと思ったのか」
「はあ」
「あのな、月島。学は生まれだの身分だのとは関係がないぞ。弛まず学んだ者の上に宿る物だ」
言われた時、ふと懐かしい声を思い出したのだ。
――学は努力した者の上に宿る物だ、月島。生まれの上に胡坐を掻いた者には一生身につくことはない。
「......昔、似たようなことを言われました」
久しぶりにはっきりと思い出したその声は、存外、温かいものだった。