料紙(りょうし)(めぐ)る - 2 -

月島ァ! の叫びが兵営の廊下に響き渡ったのは、(あく)る日の夕方だった。

未決の箱を空にして一息ついたところだったが、月島はため息をついて立ち上がると部屋を出た。

「鯉登少尉殿」

「そこにいたか、月島」

鯉登は月島を見留めて、ずんずんと大股でやってくる。その後ろから二等卒が泡を食って走ってくるのが見えた。部下を置いて突っ走ってくる癖はなかなか直らないが、戦場ではないので小言はやめておく。

「御用の向きは」

「うむ、司令部に報告があって行ったら、そこにちょうど警察の者が来てな」

「兵卒が街で何かやらかしましたか」

「軍曹がな」

言いながらなぜか鯉登はしたり顔で月島に視線を寄越した。面倒事の予感を抱えつつ月島は次の言葉を待った。

「昨日の昼近く、師団通りで盗人を捕まえた軍曹を探しているというのだ」

話が見えてきて、月島が口を開く前に、鯉登が鼻高々といった調子で決めつけた。

「ずいぶんと小柄で外套に着られているみたいだったが、大の男一人を眉一つ動かさずに押さえ込んだ、(いわお)みたいな軍曹だと言うんだ。お前のことだろう、月島」

無表情に、はい、とだけ答えると、鯉登は追いついたばかりの二等卒に命じた。

「司令部に戻って、やはり月島軍曹だったと伝えろ。それから、来訪者お二方は第二十七聯隊本部にお連れしろ」

「はい!」

二等卒が足早に司令部の方に去って行ってから、月島は鯉登を見上げた。

「いったい警察が何の用事で来たのですか? 捕まえてくれと叫んでいたから取り押さえただけで、見知った顔だったわけでなし、すぐに引き渡したのですから、それで話は終わりのはずです」

「詳しくは聞いておらんが、面倒ごとを持ち込まれたお前みたいな顔をしておった」

しばしば面倒ごとの持ち込み主になる男がそう言うのを、月島は、すん、とした顔で聞き、いつものように発言は差し控えた。

「さて、連隊長殿に報告して、同席をご希望か訊くか。行くぞ、月島」

「はい」

旭川の冬は日が落ちるのが早い。最近では十六時ともなれば日の入りである。電灯が(とも)る薄暗い廊下を二人は本部へと向かった。

連隊長の地位にある者が同席するほどのこととは思えなかったが、些細なことでも全て報告することにしている。それは、金塊争奪の件が終わってからの二人の方針で、「自分たちは上官に忠誠を尽くす一介の将兵である」という態度を印象づけるためである。数年は目を付けられていたが、連隊長が何度か替わった後は二人の方針が奏功したのか、徐々に風当たりが緩和されている。中隊長に報告し、大隊長、連隊長、と伝わった話が、逆の経路で戻ってきて、結局、中隊長のみが同席することになった。配下の者の行動管理者という意味では妥当なところだろう。

話し合いの場として設けた一室に行くまでに、中隊長に手早く事情を説明する。

「落ち度はないのだな、月島軍曹」

「はい。心当たりはありません」

「となると、いったい警察が何の用件か......」

鯉登とは対照的に中隊長は渋い顔になった。そういう態度になる方が普通だろう。

三人が部屋に着くと、案内された警察の者二人が既に座っており、戸口に二等卒が立っている。入るなり二人は立ち上がった。

「昨日はどうもありがとうございました」

一人は月島が昨日協力した巡査だったが、もう一人はその上役の警部を名乗った。おそらく、師団に話を聞きに来るにあたって、一介の巡査だけでは取り合ってもらえないと判断したのだろう。

互いの紹介をし全員が座ったところで、月島は自分が進めていいか上官たちに目線で確認してから、口火を切った。

「昨日の件でいらしたと伺いましたが」

「実は、少し伺いたいことがありまして。書店の主人が軍曹さんと呼んでいたので、問い合わせた次第で」

すぐに分かって良かった、と手をすりあわせた後、その手の動きを止めて巡査が言った。

「昨日の男、刀と掛け軸を持っていたのは分かったと思うのですが、他に何か持っていませんでしたか?」

「他に? いえ――」

言いさして、月島は思い出した。

「そういえば、捕まえる前、その男が停車場の辺りに行くのを見かけた時は葛籠(つづら)を背負っていました」

そういえば、と言われて身を乗り出していた巡査が、それを聞くと席に座り直し軽く首を振った。

「葛籠は既に確保しました。ちょうど汽車の座席に下ろしたところで私たちが見つけて追いかけたので、そちらは諦めて逃げ出したのです」

「となると、思い当たる物はありません」

すると、警察側の二人がやや視線を交わし合い、警部の方が月島に訊いた。

「何か紙のような物は有りませんでしたか」

「紙でできた物と言えば掛け軸ぐらいですが、それはお渡ししました」

「そうではなくて、折り畳んだ紙です。刀と一緒になっていたはずなのですが」

「刀は布にくるまっていましたが、紙、ですか......?」

思い返しても、ついぞ思い当たる節が無い。

「刀は地面にばらまかれたわけではなくて、布から柄が少し見えていたぐらいでした。布の中に無かったのなら、私には分かりません」

でしょうな、と呟いたところを見ると、月島に情報を期待していたわけでもなく、疑いをかけているわけでもないらしい。

「念のためで伺うのですが、本の類いはありましたか?」

「いえ、それこそ見ていません」

そこまで遣り取りを見守っていた鯉登が中隊長を見る。頷いたのを確認してから、警官たちに質問した。

「月島軍曹が窃盗犯を捕まえたことは聞きましたが、この尋問はどのような目的あってのことですか」

尋問という単語を使ったのはわざとだろう。巡査が慌てて首を振った。

「疑いをかけているわけではありません。ご協力により捕縛した男、前から目をつけていたごろつきなのです。この男、もう何件も盗みに入っていて、陶磁器や書画、掛け軸などなんでも()っている。被害者のうち一番話を大きくしたのが刀を盗まれた酒造店の主人です」

警部の方も、大きく頷いて、付け加える。

「名の知れた大きな酒造店で、新聞も見出しにするものだから、(ちまた)ではそこだけ盗みに入られたと誤解している者も多いのですが。騒ぎが大きくなって、何が盗まれた、それはこれこれこういう物だったと知れ渡ると、旭川では換金するのが難しくなった」

「それで別の街で売り(さば)こうとしたわけですか?」

「そうです。札幌あるいは小樽にでも持って行こうとしたのでしょう。が、停車場に行ってみたら、師団の兵隊が何組も何組も時間を(たが)えて来るものだから、最初に思っていた列車に乗れなくなってしまった。制服姿の鍛えた男たちがたくさん居るところに出て行くのは避けたかったのでしょうな」

「新兵引率の日にそんなことをするからだ」

今まで黙っていた中隊長が口を挟む。配下の者が何かをやらかしたわけではないと分かって、態度は会見当初より柔らかい。

「それでその男、最後の組が停車場から居なくなったのを見計らって、列車に乗り込み席に落ち着いた。そこを見つけたのが、ちょうど巡回していたこの男でして」

警部が横の巡査を手で示し、巡査もこくりと頷いた。

「見つけて捕まえて、さきほど月島軍曹も言っておられた葛籠も確保し、男の家に残る物もなく、それで全部だと思っていたのですが、足りない物があると分かったのです」

「それで残りの物を探している、と」

月島が確認すると、警部がうんざりと言った調子で二度三度と頷いた。

「ですが、その窃盗犯のごろつき、強情で全然口を割らない。捨てたのか、仲間に渡したのか――」

そこで言葉を切り、問いかけるように視線を寄越してきたので、月島は首を振った。

「人を突き飛ばして走ってきたのは分かりましたが、何か渡しているような素振りは私には分かりませんでした」

「後ろから追いかけていて、自分もそのような様子は無かったとは思ったのですが、前から見ていたあなたに確認を取りたかったのです。いつから無かったか、はっきりさせるために」

巡査がそう説明すると、それを受けて警部の方も頷いた。

「となれば、停車場に来た時にはもう無かったか、あるいは汽車の中で誰かに渡したのか」

「では、月島軍曹への話はそれだけと思ってよろしいか」

中隊長が確認すると、そうです、と警部が頷いた。

「兵営に起居する方は一日のほとんどをこちらで過ごしておられますし、そもそもどなたか分からなかったので師団司令部を通すしかなかったのです。たいした用件でもないのにお手間を取らせて申し訳ない」

ご協力ありがとうございました、の声と共に二人は立ち上がり、案内の二等卒について聯隊本部を出て行った。

警官たちの人影は聯隊正門から出ると、すぐに右に曲がって見えなくなった。窓からそれをなんとなく見送っていた鯉登が月島に話しかける。

「気になるな、月島」

「私は気になりません」

厳然と言い切ると、鯉登は月島の方に視線を下ろして、

「つまらん男だな、お前」

「つまらなくてけっこう」

隙を見せると碌な事にならない、と月島の直感が警鐘を鳴らしている。

話しているうちに日はとっぷり暮れている。日が暮れた途端に、しん、と空気が一段と冷えてくる。

「さすがに寒いな、この季節は」

鯉登の自宅は営外の官舎である。外套を取りに戻るという鯉登とは将校室の前で別れ、月島は自分の下士室に戻る。ちょうど部屋に入ろうとしたところで、菅原が廊下の反対側に姿をみせ、月島を見つけると大股で近づいてきた。

「鯉登少尉と本部に呼び出されたって? 厄介ごとか?」

菅原が心配そうに訊いたのは、函館から復帰した後しばらく何度も連隊長に呼び出されていたのを知っているからだろう。月島は軽く手を振った。

「いや、違う。昨日、官憲に協力して古美術品泥棒を捕まえたんだが、その件で少し聞きたいことがあるとかで、中隊長殿同席の元で警官と話をしていたんだ」

説明すると、菅原は途端にほっとしたような表情になり、そうなると笑みを含んで言った。

「休暇中にそれか。盗人捕まえたなんて面白そうなこと、何も言ってなかったじゃないか」

「わざわざ人を捕まえて吹聴するような話でもないだろう」

「お前はそういう奴だよ」

呆れたようなにわざとらしく肩をすくめた後、急に菅原は動きを止めた。

「いや、待て。古美術品泥棒? 酒造りの主人の家に入った?」

「たぶん、それだ。新聞が書き立てていたらしい」

答えながら月島は疑問を抱いた。てっきり、興味本位で訊いてきたのかと思いきや、菅原は悩むような迷うような、そんな神妙な面持ちだったからだ。

「どうかしたのか」

「あー......頼みたいことがあるというか、話を聞いてほしいというか、聞いてもらっても仕方がないというか......」

「なんだそれは」

菅原はまったく煮え切らない様子で、しばらく唸っていたが、そろそろと月島の様子を窺いながら話し出した。

「俺の家は近くの村だと知っているだろう?」

「東旭川だったな。屯田兵として入植したとかいう」

「親に連れられて来て、それからずっとだ。――でな、俺の姉の娘というのがいるんだが」

「つまりは姪か」

「そうだ。今年で十五になるんだが、これが酒造店の主人の家に住み込みで奉公に出てる」

月島は眉根をよせた。

「――(くだん)のか」

(くだん)のだ」

それで? と促すと、菅原がうん、と一つ頷いて、

「実は、その泥棒、よりによって俺の姪が掃除をしていた部屋の前を通って蔵に行ったらしくて――」

「――それで理不尽に責め立てられたのか!」

急に横から大声をかけられ、菅原はびくっと身体を震わせ、鯉登少尉殿、と反射的に礼をした。

月島の方はといえば顔を上に向けて目を閉じ、帰ったんじゃなかったのかとか、なんでここに居るんだとか、頭の中を言いたいことが駆け巡るのをやり過ごしてから、すん、とした無表情を鯉登に向けた。鯉登は二人に向かってずんずんと近づいて来る。

「責められたお前の姪はどうなったのだ」

「いえ、責められてはいません。むしろ、良いご主人だそうです」

「ふむ、それは良かったな」

あっさりそう言った頃にちょうど二人の(もと)に着き、鯉登は月島の横にぴしりと立った。

「それで、月島に何を頼みたいのだ」

「頼みと言いますか、姪の話を聞いてやってほしいと言いますか」

言われて月島が声を立てる。

「お前の? 姪の?」

何で俺が、の意を込めて月島は言ったのだが、当人を無視して鯉登が頷いた。

「いつだ」

「休暇の日にでもと思っていたのであります」

「では日曜だな。月島、久々に洋食でもどうだ。大坂やで飯を食いながらといこう。――菅原軍曹、姪御を連れて来い。私の奢りだ。遠慮するなと言っておけ」

「あなた、来るんですか?」

「うむ、私も休みだからな」

これは何を言っても無駄だろう、と月島は成り行きに任せることにして口を噤む。首を突っ込んできた鯉登は、目をきらきらと輝かせ、上機嫌で頷いた。

「菅原、奉公先から外出の許しが出るか訊いておけ。姪御の都合に合わせるから、時刻の指定は任せる」

ではな、と鯉登が嵐のように去って行くと、菅原は焦った様子で話しかけてきた。

「お、おい、大坂や? 洋食?」

「どうした」

「いったい何着ていけばいいんだ」

「普通に軍服でいいだろう」

「俺の姪は! 軍人じゃないんだ!」

月島は溜め息を()いた。

「落ち着け。お前の姪は普段着でいいだろう。飯を食いながら話をするだけだ」

菅原は上を向いて目をつぶり、唸るように声を立てた。

「月島、お前と違って俺は奢られ慣れていないんだ」

対して月島は表情を動かさない。

「振る舞い酒なら遠慮しないだろうに」

「隊の集まりと訳が違う。俺の姪なんていよいよ関係がないじゃないか」

「少尉が勝手に首を突っ込んできたんだ、当然の対価とでも思っておけ」

「当然の対価って......」

ふう、と息をつき、菅原は首を振った。

「昔からお前は気前のいい人ばかりに目を掛けられるよな。鯉登少尉といい、鶴見中尉とい――」

言葉を途切らせた菅原が申し訳なさそうに眉を落とす。

「すまん」

行方の知れなくなった長年の上官の姿をしかと思い出す前に、月島はただ(かぶり)を振った。言葉にすると、どうしても苦いものが胸を(よぎ)るのは分かっていたので、言葉を発するのを避ける。ちょっと息を吐き、いったん無意味に視線を逸らしてから、仕切り直すように菅原の方を向く。

「くれるというものをただ食えばいいだけの話だ」

話を逸らしたのは分かっただろうが、そう言うがなあ、と乗った菅原も人がいい。まだ躊躇(ためら)っている菅原に確認する。

「それより、いいのか。少尉殿に聞かれたくない話ならば、俺から断りをいれるが」

「ああ、いや......」

菅原がごりごりと後頭部を書く。

「お前に頼むのも無理筋なんだ。藁にも縋るってやつだ。なら、縋る藁はたくさん有る方がいい。鯉登少尉なら恩着せがましいことも言ってこないだろうし」

そこで菅原は思い出したように手を止めて少しばかり眉を寄せた。

「まあ、その、時々、突飛なことをするが」

時々か? とは言わないでおいた。

次の日曜は任務も無く、朝食後は休暇である。二週間ほど前に手に入れた古本を引っ張り出すと、月島は机の上に広げた。紙は擦れているのだが絵が描いてあって字も大きい。早くは読めないので、空き時間にそれをゆっくりゆっくり読んでいる。

昼近く、そろそろ約束の時間かと本を閉じて棚にしまうと、軍服・軍帽を身につけた。外套を着て聯隊本部前の門から西の角に移動して待っていると、白い風景の中を丘の方から人影が近づいてくる。

「鯉登少尉殿」

「うむ、行くか」

官舎からやってきた鯉登は私服姿で毛皮の襟が付いた二重廻しを着込んでいる。待つことほどなく、二七角にやって来た馬車鉄道を手を上げて止め、そのまま乗り込んだ。朝なら混雑していたかもしれないが、日曜の昼では師団周辺の乗客はあまりいない。

座席に並んで座り馬鉄の走行が安定した頃に、鯉登が口を開いた。

「反対しなかったな、お前」

「何のことです?」

「私が強引に首を突っ込んだことだ」

自覚はあったか、と思いつつ、月島は正面を見たまま静かに言った。

「息抜きは必要でしょうから」

「......かなわんな」

目下、鯉登は大学校への推薦を希望している。難関の試験を考えれば、推薦されてから勉強を始めていては間に合わない。自由闊達、鷹揚に過ごしているように見えて、空いた時間をひたすら勉学に充てていることを知っている。

「あなたはやらなければならないことを見誤るようなことはしないでしょう」

鯉登は月島の方に首を向け、見下ろす。

「ずいぶんと信頼してみせるではないか」

「......」

推薦を得られるかどうかは見通せない。どんなに能力があっても、それ以外のことで道が決まることはある。

――だって、あの人がそうだった。あの人ほどの人がそうだった。

それに、大学校に行くことなど道半ばでしかない。道半ばだと思っている人でなければならない。ただ、思うに鯉登は――

――そういう人だ。

「このことに関して俺の出来ることはありません。ですが、信頼ならば捧げます」

ちらりと視線だけを横に座る鯉登に投げる。鯉登は、ふー、と大きく息を()くと、体から力を抜いた。

「急に大きな物を寄越すものだな」

急にではない。函館で渡したのだから、もう何年か経つ。

月島が少しばかりの不満を(こご)らせて黙っていると、ふ、と鯉登の雰囲気が軽やかに揺れた。

「......お前は厳しいが、優しいな」

「意味が分かりません」

顔も動かさずに固い声で答えると、鯉登はふふと小さく笑った。

馬車鉄道専用橋から旭橋を見上げる。幸い今日も晴れている。中州の雪も流れる石狩川も日の光を受けて明るい。近文(ちかぶみ)地区から旭川地区に入ると、人通りが明らかに増えてきて、賑々(にぎにぎ)しくなってくる。

二条通で馬鉄を下り、西に向かって歩き出す。チリチリチリと高い鳴き声が賑やかなのでそちらを見上げると、薄い赤のような灰色のような柔らかい色をした鳥が木に生った小さな赤い実に群がっている。

それを眺めながら歩を進め、視線を道に戻した時、見知った僧形が向こうからやってくることに気がついた。先方も月島に気づいたと見え、連れている小坊主共々会釈してきたのでこちらも会釈を返しながらすれ違う。

鯉登はそんな月島を見、さらにすれ違った僧の後ろ姿を見遣ってから訊いた。

「誰だ」

「報恩寺の住職です。中島近くの」

鯉登が不思議そうな顔になる。

「知り合いなのか?」

「知り合いというか、ぐにゃぐにゃした文字が読めるのです」

「ぐにゃぐにゃした文字? なんだそれは」

鯉登が問うので月島は空中に指で字を書いて見せた。

「こう、蚯蚓(みみず)ののたくったような字があるじゃないですか。読めなくて教えてもらったことがあるのです」

「確かに、そういうことが得意な人間はいるな。それだけ人の字を見ることが多いのだろうが、住職なら、()もありなん。――お、菅原軍曹か、あれは」

月島に言われたとおり軍服で来ることにしたらしい菅原が、顔立ちのよく似た娘を連れ、大阪やの前で所在なげに立っていた。月島たちに気がつくと、菅原は何事かを姪に伝え、それから二人揃ってこちらにお辞儀した。

「鯉登少尉までご足労いただきまして」

「なに、こちらが勝手に来たのだ。気にするな」

鯉登は慣れた足取りで店に入っていく。まだ躊躇(ためら)っている菅原とその姪を月島が促すと、意を決したのか、菅原はやっと入り口をくぐった。

昼食時の店内は混んでいて、人々が思い思いの話をしていて賑やかだ。四人は席に着き、緊張している菅原とその姪からなんとか注文を聞き出すと、月島が給仕にそれを伝えた。給仕が引っ込んだところで、思い出したように菅原が横に座っている娘を紹介した。

「姪のひさです」

「あの、ひさ、です......」

十五だというひさは、女性と言うにはまだ幼さが残る。菅原に似た垂れ目は優しげで、見たことのない軍人二人を前に、不安そうに叔父を見上げている。その叔父の菅原が借りてきた猫のようになっているものだから、不安は解消しそうにない。しょうがなく、月島は笑顔を作ってできうる限りの優しげな声というのを出してみせた。

「自分は月島と言う。君の叔父さんと同じく軍曹だ。こちらは、鯉登少尉。若いが俺たちの上官だ」

それは、ほとんど猫なで声のような有様だったが、多少は功を奏したらしい。普段を知らないひさは、僅かばかり笑みを浮かべておずおずと頷いた。だが、その隣の菅原はぽかんとした顔をしているし、鯉登など遠慮なく声を上げた。

「月島ぁ、お前、そんな顔できたんだな」

瞬く間に笑顔を消し、月島は仏頂面を鯉登に向けた。自分で首を突っ込んできたのだ、思ったことをそのまま口に出していないで話を円滑に進めてほしい。

月島の内心が伝わったわけではないだろうが、鯉登がひさに話しかけた。

「話を聞いてほしいと聞いているが、奉公先の泥棒の話なのか」

「聞いてほしいというか、叔父さんが――叔父が勝手に......」

おずおずとそれだけ言うと、心配そうにひさが菅原を見上げる。

「菅原」

不機嫌に月島が目を向けると、菅原が慌てて言った。

「あんまりこいつが落ち込んでいるから、何かできないかと思って」

「落ち込んでいるというのは、泥棒が近くを通って行ったのに気づかなかったからか」

「あ、はい。昼だったのに、部屋をお掃除していて気がつかなくて。その間に部屋の前を通って、蔵の方に行ったのだろうと警察の方が」

「人気が少ない場所だったそうです」

菅原が姪を擁護して説明する。

「昼だからほとんどの者が店の方に出ていて、奉公人は他にもいるんですが、掃除に洗濯に煮炊きと手分けをしていたので、その時そこに居たのはこいつだけだったと言うんです」

そうだな? と菅原が水を向けると、ひさは、うん、と小さく頷いた。月島は腕組みをして――笑顔を作るのは放棄した――ひさに言った。

「下手にばったり泥棒と鉢合わせていたら何をされていたか分からんぞ。警察が言うには何軒も盗みに入っていたごろつきだ。女の身でどうにかできたとは思えんな」

「そう、なんですけど」

ひさは下を向き、膝の上に置いた自分の手を(じつ)と見ている。

「旦那様ががっかりしていらして」

「いや、待て」

月島は眉根を寄せた。

「刀は取り返したぞ。酒造りの家から()られたのは刀だけではなかったのか」

そこで菅原が人差し指をピンと立て、それだそれ、と月島に向かって二度振った。

「そのことで訊きたかったんだ、月島。何か紙のような物を見てないか。それが無くなって奉公先の主人が消沈しているのだとひさが」

途端に、月島は大きく頭を振った。

「なんだ、それだったのか、お前の用事は。だったら、兵舎で言ってくれれば、すぐにも俺では役に立たないと教えてやったのに」

「知らないわけか」

諦めきれずに菅原が念を押し、月島の代わりに鯉登が言った。

「警察にも訊かれたのだ、それは」

「だいたい、紙切れ一つに何をそんなに。何か思い出の品なのか」

だが、月島の言葉を聞くなり声を立てたのは鯉登だった。

「紙切れと言うが、折紙だろう?」

言われて月島は鯉登の方に首を向けた。

「なんです、その折紙というのは」

鯉登は驚いたように月島を見、さらには菅原もひさも飲み込めていなそうなことを見て取って、首を振った。

「月島、お前、分からないで警察に答えていたのか」

「だから、何なんですか?」

「折紙は刀の鑑定書だ。ひさ、その刀はずいぶんな名刀なのではないのか」

「詳しくは存じ上げませんが、旦那様が旭川に移住する前から家にあるそうです。なんでもずっと前のご先祖様が手に入れて、以来、大事にしていた物で、何百年も前の物だと伺っています」

うむ、と鯉登は頷いた。

「代々刀剣の鑑定や研ぎを生業(なりわい)にしている有名な家があるのだ。その家で鑑定をして、これこれという刀であると(きわ)めがつくと、値が段違いになる。その時につけるのが折紙とか極札(きわめふだ)という物だ。ほら、『折紙付き』などと言うだろう。その折紙だ」

「なるほど。てっきり、『折り目正しい』とか『きっちり折られている』とか、そういう意味での言い回しかと思っていました」

月島が言うと、菅原も、私もです、と同意する。鯉登はまた一つ頷き、

「物によっては、折紙自体に値がつくぞ」

「はい、おまちどおさま」

給仕がちょうどやってきて、湯気の上がるビーフシチューやら、キャベツの添えられたエビフライやらを白米と一緒に並べていった。

わあ、と小さく漏らしたひさが目を輝かせている。鯉登が笑みを浮かべた。

「うむ、温かいうちに食え」

鯉登と月島がナイフとフォークを手に取り慣れた手つきで食べ出すと、見よう見まねで菅原も慣れぬナイフとフォークを持ち、それを見たひさもおっかなびっくりエビフライにさっくりナイフを入れた。

「うまい!」

「おいしい!」

二人から自然と漏れた言葉に、鯉登は満足そうに頷いた。

突然、頭の中に浮かんだВкусно(フクースナ)の単語を月島はそっと胸の内に沈めた。

「......美味しいですね」

「ああ。シチューも旨いぞ。寒い季節には実に合う」

しばらく食べる方に気を取られていたが、それが落ち着いた頃、口元を拭いてから鯉登がひさに訊いた。

「盗みの件だが、別にお前のせいで盗まれたなどと責められているわけではないのだろう? 菅原がそう言っておったぞ」

「はい。ただ、よくしていただいている旦那様が悲しそうにしていらっしゃるのがお気の毒で。子どもの頃から家にある刀で、おもちゃにしてお母様に怒られたですとか、自慢げにされていたお父様のことなどをお話されていましたから、自分がそれを(なく)してしまったのが(こた)えておいでのようなのです」

「物には思い出が詰まるものだ」

ぽつり、と月島が言った。菅原は意外そうな顔をしたが、鯉登は月島の方を見、何も言わずに少し目を伏せた。サクリ、と音を立ててフライを一片(ひとかけ)食べてから、ひさが続けた。

「『勉強堂さんはサガボンがまるまる戻ってこないそうだから、それに比べれば』ともおっしゃって、納得しようとなさっているのですが、探す(すべ)は無いものかと思ってしまって」

「サガボン? ああ、嵯峨本か」

鯉登が理解したように頷いたので、月島が訊いた。

「なんですか、そのサガボンというのは」

「江戸時代の本だったかな。サガは京都の嵯峨だ。そこで出版したから嵯峨本と言うそうだ」

「はー、さすがは少尉殿。よく知っていらっしゃいますね」

菅原が素直に感心すると、鯉登はぞんざいに手を振った。

「昔、家によく来ていた客人の受け売りだ」

「それで、その嵯峨本というのはどんな外見なのかは分かるか?」

菅原が尋ねると、ひさは申し訳なさそうに首を振った。

「いいえ。さすがに他のお(たな)のことは......」

「それもそうか」

それを聞いて、月島が鯉登を見た。続いて菅原とひさも鯉登を見る。三人の目が集まったのに気づいて、珍しく鯉登は困ったような顔をした。

「私も知らん。別に美術品に取り立てて興味があるわけではない。刀は使うから知識はある。掛け軸になるような書や絵画、そうだな、あとは陶器磁器の(たぐ)いなら家にあったから、まあ、価値がある物は価値があるのだろうとは思うが、本か......。美しい模様の入った紙に印刷した古い活字本だとは聞いたような気がするが」

「活字の本というのは江戸時代からあったのですか。御一新以来のものかと思っていました」

月島がそう言うと、鯉登も記憶があやふやなのか首を捻った。

「そういえば瓦版は版画か。今とは別な技術なのかもしれんな」

「そもそも、本なら物によって外見は様々なのではありませんか」

月島が言うと、ふと思いついたように鯉登が月島を見た。

「お前の方はどうなんだ」

呆れて月島はやや上を向いて目を閉じ首を振った。

「そんなもの、学がない私が見たことあるわけないでしょう」

「そう言うが、お前、本ならよく読むじゃないか」

「俺が読むのはその辺の本屋に売っている物であって、そんな高い物、縁があるわけがない」

スプーンでビーフシチューの皿を執拗に浚っていた菅原が顔を上げた。

「紙物ばかり戻ってこなかったんだな」

「騒ぎが広まる前に金にしてしまったか」

鯉登が腕組みしたところで、月島はスプーンを持つ手を止めた。

「ああ、そうか」

「何が、『そうか』なのだ」

「私が男を捕まえた時、そいつが持っていたのは刀と掛け軸何本かでした。他にも葛籠を背負っていたのですが、追われた時に置いていって持っていなかった」

「それは警官も言っておったな」

「つまり、逃げるにあたって運びやすい物だけ手に取ったのでしょう」

「そうだろうな」

月島はスプーンをテーブルの上に置き、鯉登の方を向いた。

「あなたの言う折紙とやらは、持ちにくい物ではないのでしょう? にもかかわらず、それを持ってはいなかった。刀と一緒にしておいた方が価値が上がるにも(かか)わらず、です」

「そうだな」

「つまり、その男、我々と同じで古美術品の価値が分からんのです」

フォークでキャベツが(すく)えなくて悪戦苦闘していた菅原が、月島の方を見る。

「じゃあ、単に金持ちが蔵に入れて大事にしているから盗んだだけだということか」

「そうだ。紙なんぞ金にならんと思って捨ててしまったんだ」

だが、鯉登は疑問を口にする。

「それだと本はなぜ()って行って、なぜ出てこないんだ。折紙は刀と一緒になっていたそうだから、盗む時は一緒に持って行って、()らないから捨てた、というのは分かるが」

「本の形ぐらいになっていて、大事にされていればさすがに価値があると判断してもおかしくないのではないですか?」

「あの!」

ひさが声を立てた。

「勉強堂さんには、嵯峨本を入れていた漆塗りの文箱が返されたそうです」

「うーむ、漆塗りだけ価値があると思って中身は捨てたか。本当に紙の物ばかり戻ってきていないな」

「掛け軸は取り返しましたがね」

「あれは、見るからに古美術品だからな」

菅原が給仕を呼び止め、箸はないかと頼んでから、眉を下げてひさに言った。

「すまん、ひさ。これはもう捨てられたと思った方がいいかもしれん」

ひさもがっかりした顔にはなったが、頷いた。

「できることはないのだと、思ってはいましたから......」

「もし、まだ、可能性があるとしたら――」

口を開いた月島に、三人の目が集まる。

「折紙だけなら捨てただろうと思ったが、本があるならそれなりな量になるかもしれん」

「なんだ、勿体を付けるな」

「詰まるところ、紙なんでしょう? 折紙にしろ、その嵯峨本にしろ。売った可能性はなくはない」

「さっき、盗人には価値が分からなかったと言ったばかりではないか」

せっついた鯉登を余所に、菅原が膝を打って月島に指を突き出した。

「そうか、屑屋か!」

「屑屋?」

「少尉殿も巡回しているのをどこかで見たことぐらいはあるでしょう。反故(ほご)だの襤褸(ぼろ)だの屑鉄だの集めて、再利用する業者に売るんですよ」

月島が鯉登に説明してやり、菅原が身を乗り出した。

「ああいうのは縄張りがあると聞いたことがあるぞ。その盗人のねぐらが分かれば」

「もしかしたら、それは旦那様が警察の方から聞いたかもしれません」

ひさが言うと、菅原は笑みを浮かべた。

「よし、探すだけ探してみる!」

話してみるものだな! と菅原は喜んでいる。

「あー......」

もう警察もそれぐらい捜査しているのでは、とか、警察に任せておけば、とかいろいろ頭を(よぎ)ったが、気が済むまで放っておくか、と月島は口を噤んだ。