料紙(りょうし)(めぐ)る - 1 -

朝食を終えると、いつも少しばかり手持ち無沙汰になる。鯉登などは、もっとゆっくり食えと言うのだが、勤務中の行動は迅速であることが第一だろうと月島は思っている。

下士室は月島一人だ。黙っていれば部屋の中は静かで、それゆえ、近くの大部屋の浮き足だった気配を感じることは容易だった。何せ今日は日曜日だ。朝食が終われば夕食までは外出許可が出る。いくら凍てつく冬だとて、週に一度の楽しみを待ち遠しく思わぬ者はない。しかも、今日はどうやら晴れている。部屋の暖気が窓をすっかり曇らせていたが、日の光がゆるゆる兵舎に射し込みつつあった。

立ち上がり、少しばかり窓の外をうかがっていると、扉の方から声がした。

「斉藤、入ります」

「おう」

飯上げ当番の二等卒は机の前にやってくると、食器が空になっているのを確認してから月島に声をかけた。

「班長殿、お下げしてよろしいでしょうか」

「ああ、頼む。皆も食事は終わったか」

「はい。班長殿をお待ちしているところであります」

「分かった。――食管返納したら早く戻ってこい」

そう言うと、斉藤は少しばかり笑みを浮かべて、はい、と返事した。

しばらく経って飯上げ当番が帰ってきたと思しき足音がしたのを見計らい、月島は自分の班の大部屋に歩いて行った。着くなり声を張り上げる。

「注目!」

ざわめきが急に低くなり、班員全員の視線が月島に集まる。

「これから夕食まで外出を許可する。分配喇叭が鳴る前に戻れ。新兵は街を案内する。八時半までに準備しろ。二、三時間歩くと思え。軍帽・外套着用、帯剣し、手帳を所持すること。分かったか!」

はい、の声が揃わないのはまごまごしている新兵のせいだろう。先任の兵卒に睨まれて縮み上がっている。

「声が小さい! 分かったか!」

「はい!」

今度こそ奇麗に声が揃った。

「新兵以外は解散!」

途端に、ざわめきが甦る。準備のいい者から月島に挨拶をして楽しげに出て行くのを、いちいち頷きながら見送る。あらかたの兵が出て行った頃に、月島は自分も準備するために部屋に戻った。新入兵にとっては入隊後初めての外出だ。引率して公共施設その他主要な場所を叩き込むと同時に、外での振る舞いを言い聞かせ、そして、外に出たからこそ出る性格を見極める。命じた刻限に大部屋に行くと、新兵はしっかり準備を整え、従順に月島を待っていた。今年は面倒な班員は居ないようだ。

「順に出発する。隣の班が出るまでそのまま待機しろ」

はい、の声が朝より揃っていたので満足して頷いた時、突然、廊下から怒号が上がった。

「高橋! またお前か! この時期にそんな格好で外に出られるか! 凍え死ぬぞ! もたもたするな!」

開け放したままの戸口から廊下に顔を出して見ると、隣の大部屋の前でそちらの班長が新兵をどやしつけている。

「どうしたんだ、菅原」

「すまん、月島」

菅原は月島と同じく軍曹だ。月島よりも数年年下だが、月島がうるさく言わないと分かってからはすっかり口調が砕け、またそれが(かん)に障らないぐらいに人懐っこい雰囲気がある。大部屋の並び順から月島の班の前に出ることになっていたのだが、準備がまだとみえる。

「鈍くさいのが居てな。外套は前を締めてないわ、手袋は無いわ、慌てたのか上着は(ぼたん)を掛け違えとくる」

菅原は廊下を一、二歩月島の方に歩み寄って眉を下げる。そういう表情をすると、もとから垂れ目気味なのもあって、いかにも申し訳なさそうに見えた。

「先が思いやられるな。徴兵で選抜されているはずなのにそれか」

「背丈だけは高いんだ、背丈だけは。身の丈六尺の大男、ではある。だが、何をやらせても一拍遅れるし、何より性格が大人しい。しょうがないから炊事当番に出したら――」

「何? もう当番の連絡が来たのか? いつもはもっと後だろう」

見落としていたとなると一大事だが、人事を握る特務曹長からは何も聞いていない。難しい顔になった月島に向かって、菅原が手を振った。

「たぶん、お前の所にはまだ来てない。ほら、一ヶ月前に腸チフスが流行っただろう。あれで欠員が出たらしくて、一人出してくれと何班か連絡が来たそうだ。で、だ――」

自分の大部屋の方を身振りで示して、菅原は困り果てたように首を振った。

炊事掛(すいじかかり)からえらく文句を言われた。風呂も焚けん奴を寄越すな、と」

風呂は炊事場の隣で、炊事掛下士が取り仕切っている。

「なんでも、刻限が近いのにまだ鉈で薪を割ってたそうだ。焚き付け用意するのを忘れてたって言うから、『火の付け方ぐらい分からないのか!』って、こう」

菅原は、拳を握ってぶん殴る真似をしてみせる。実際にやったのは炊事掛の上等兵あたりだろう。

「だが、新兵を()てたなら教えた奴がいるはずだ。何も高橋とやらだけの責任じゃないだろう」

「まあな。だから、俺も叱りはしたが、最後は『言われたとおりやればいいんだ』と言ってやったんだ。いちおう言えばできるらしい。その後で文句は来ていない」

ふと思い当たって、月島が首を振る。

「いや、できてなかった」

「何?」

「そいつ、ひょろっとした顔の長い奴じゃないか?」

「ああ。それで、いつもおどおどしていてなんだか悲しそうな顔してる」

なら、やっぱり、あれがそうだな、と月島は腕を組んだ。

「火曜に風呂に入りに行ったら、まだ火が入ってなくてな。見に行ってみたら、焚き付けをやっぱり用意していなくて、どこかから持ってきた紙屑でどうにかしようとしていた」

「紙でも何でも火が付けばいいだろう」

「それが、湿っているだの量が少ないだの、別の当番兵にどやされていたんだ」

月島が来たのに気づいて、怒鳴っていた者が気をつけをし、まごまごしていたひょろっとした男が、軍曹殿だぞ! と怒られながら姿勢を正していたのを思い出す。

菅原がく、く、くと肩を震わせた。

「なんだ、軍曹連中が焚き付け作ったとかいうのはお前のせいか」

「尾ひれが付いてるぞ。薪を割ったのは俺だけだ」

「お優しいなあ、月島軍曹殿は」

菅原はからかうように言った後、新兵甘やかすなよ、と真顔で(たしな)めたが、月島の方は眉根をぐっと寄せる。

「あー......」

――甘やかしたというのか、あれは。

黙って鉈を取り上げて勢いよく叩き割ったら、場がしん、と静まりかえったのを思い出す。

「......いつまで経っても沸きそうになかったもんだから」

慌てて月島と一緒に風呂焚きの兵卒も必死になって薪を割り、月島は薪を一本全部細くしたところでそれを押しつけ、後は任せたのだ。

菅原はにやにや笑いながら、

「せっかちなもんだな。そんなに入りたかったのか」

「焚き付け作ってたぐらいだぞ。入れたのはもっとずっと後だ。時間が押して一等卒以下割を食ったんじゃなかったか」

「それを尻目に月島軍曹殿は先に風呂をいただき満喫した、と」

からかうような言いぐさに、月島は仏頂面になった。

「お前だって軍曹なんだ、一番風呂は同じだろう」

「お前には負ける。いつも真っ先に入ってるじゃないか」

「別にいつもじゃない。――それより気をつけた方がいい」

未だ準備の物音がごそごそしている菅原の班の大部屋を、月島は顎でしゃくった。

「ああいうのは狙われやすい」

「私刑の的になるって言うんだろ」

上官に頻繁に怒鳴られると、周りにもそうしてもいいと認識されやすい。

菅原は自分の後頭部を雑に掻いた。

「分かっちゃいるんだが、見てるとどうも苛々してな。いちおう一番面倒見のいい一等卒を組ませてはやったんだ」

その言葉が終わるか終わらないうちに、突然、何かが落ちてばらまかれたような音がし、菅原がぎょっとして大部屋を覗き込んだ。

「高橋! 何をどうやったらそうなるんだ!!」

何かやらかしたのだろうと推測して月島は、あー、と口を開いた。

「菅原、先に行っていいか」

「すまん、行ってくれ」

さんざん待たせた自分の班の新兵十五名に、ついてこいと命じる。横切る時にチラッと見てみると、寝台の上にあるはずの荷物がなぜか床に散乱しているのが見て取れた。戸口で菅原が仁王立ちし、慌てた新兵たちが右往左往しているのを尻目に、班員に遅れるなと号令をかけて出立した。

門を出て練兵場を回り込み、馬車鉄道を横目に歩かせる。できたばかりの招魂社に寄って参拝させてから更に歩き、斜めに折れる大きな道を歩いて行くと、何本もの鉄材が斜交(はすか)いにかかった橋が見えてくる。一度は渡って入営したはずなのに新兵にはその形がまだ物珍しいと見える。月島のすぐ後ろを歩いていた新兵がおそるおそる話しかけてきた。

「班長殿、あれは何という橋ですか」

「旭橋だ。まだ掛かって十年も経たない」

橋まで来て木板を踏んで渡りながら、腕を伸ばして中州の目立つ川の辺りをずっと指し示す。

「この辺りは川が蛇行していて出水も多い。大雨の時は覚悟しろ。被害が出れば我々も出ることになる。酷ければ練兵場も水浸しだ」

「はい」

そのまま渡りきったところで右手を指し、ここは公園が出来る予定だと教えた後で、向かいに腕を転じ、奥に伸びていく道を指さす。

「あの道を真っ直ぐ行けば遊郭だ」

言ったのはそれだけだったが、言われた途端に新兵たちがそわそわし出したのは気のせいではないだろう。どうせ、時間と金に余裕ができて遊べるようになるのはまだまだ先だ。特に注釈は加えずに放っておく。

そのまま師団通り沿いに街の中に入り、出来たばかりの真新しい町役場や、警察署・裁判所や支廳のある四条通をざっと案内し、三条通からの商店を説明しながら停車場前まで到着したところで月島はくるっと向き直った。何事かと自分を注視する新兵を見る。特に息を切らしている様子も無いし、ここまでの道行きも素直に付いてきた。今年は悪くないな、と思いつつ、月島はぴしりと背を伸ばした。

「案内はここまでとする。解散後は好きに過ごしていいが、軍人として市民の模範にならねばならん。分かったな」

「はい!」

「朝にも言ったが、食事分配の喇叭の前に兵営に戻れ」

「はい!」

「では、解散!」

本当に離れていいのか迷ったようだったが、散れ散れと身振りで示してやると、ようやく新兵たちは歩き出した。とりあえずは固まって行動することにしたようで、お互い話ながら去って行く。これから満期までを一緒に過ごすにあたって、悪くない様子だった。

引率してきた新兵が人混みに紛れたのを見守ってから、月島自身も雪道を歩き出した。だいぶ高くなった日が停車場前の広場の雪を白く輝かせている。師団通りに面した勧工場(かんこうば)はもう店が開いていて、人々が思い思いに出入りしている。

買い物と行っても、衣服は軍服で事足りるし、食事も兵営で出るもので十分だ。観劇の趣味はないし、遊郭は食指が向かない。このまま帰るかどうしようか決めかねたまま白い息を吐きつつ馬鉄の線路沿いを歩いていると、ちょうど洋館作りの書店の中から男が一人でてきた。馴染みの店主で、どうやら店の前の雪をどかそうと出てきたらしく、スコップと鶴嘴(つるはし)を雪に突き刺して月島に愛想良く会釈した。

普段は古書か貸本で間に合わせているのだが、ここに本屋が出来た時に物珍しくて一冊買って以来、しばしば売り込みをされている。月島は買ったり買わなかったりだが、商売人に相応しく話し好きな店主はめげずに見かける度に声をかけてくる。

「こんにちは、軍曹さん。久しぶりじゃないですか」

「ああ。新兵の引率帰りだ」

「そういえばそんな時期でしたね。入営の日なんて停車場前のほら、三浦屋と宮越屋がごった返していましたよ」

「この店も書き入れ時だったんじゃないか」

「うちはぼちぼちですよ。村から出てきた連中が本なんて買うかといえば、そんなにはいませんから」

に、と笑うと店主は白い木枠の扉を招くように少し開いた。

「どうです、寄っていきませんか」

「何か面白い本があるのか」

「話題の本ならありますが、軍曹さんに面白いかどうかは分かりませんねえ」

「俺の感性など十人並みだ。人が面白がる本なら、だいたい面白い」

「そうは言うけど、なんでも読むじゃないですか。前は鴎外を読んでいたでしょう」

「軍医部長殿がどんな話を書くのかと思ってな。もう今は軍医総監閣下か」

「かと思えば、『南満洲鉄道案内』」

「......興味があってな」

「出征前は紅葉(こうよう)だったじゃないですか」

「『金色夜叉』か。あれはどうなるのか気になっていたのに、残念だ」

「戦後はしばらくお見かけしませんでしたけど、そうだ、『海潮音』をお買い上げになりましたよね」

「訳したというのに音の調子がよくて、頭がいい人間はいるものだと感心したんだ」

「ほらね。私には未だに軍曹さんの趣味が読めませんよ」

取り立てて何が好きというわけではない。世の中にはいろいろなことを考える人間がいて、それを字やら絵やらで伝えることができるのが興味深いと思っているだけだ。それに、本なら兵営にいても空き時間に読めるし、代金の割にしばらく保つのも娯楽として都合が良い。

「そうそう、今、ちょうど入荷したのがあるんですよ。ちょっと待ってもらえたら荷ほどきするところだったので――」

店主に続いて入ろうとした時、停車場の方から馬車の音が近づいてきたので、何の気なしにそちらを見て、月島はふと動きを止めた。

大きな葛籠(つづら)を背負った男が停車場に向かっていく。手には何か長いものを布か風呂敷かで巻いたものを持っている。たいそうな荷物である。

――妙だな。

「これこれ、この本なんですがね、札幌から届いたばかりで――どうかなさったんですか?」

月島が停車場の方を(じつ)と見詰めていることに気がついて、店主が不思議そうな顔になった。

「ああ。あの、ずいぶんな荷物の男」

外に出てきて体を左右に揺らすと店主も月島の言う男が分かったらしい。

「あの停車場の前の? あれが?」

手荷物扱い(チッキ)にしないんだなと思ったんだ」

「そういえばそうですね。手荷物(チッキ)の窓口はあっちなのに。よほど大事な物なんでしょう」

「あれだけ大きければ座席で邪魔にされそうだ」

「違いない。――それでですね、この本が東北の遠野という地方の――」

商売っ気を発揮しだした店主が本を見せながら、温かい店内に月島を招き入れた時だった。

「誰か! 捕まえてくれ!」

叫び声に続けて振り向くと、停車場の方向の人混みが乱れてわらわらと割れ広がっていく。人混みの先には布を巻いた長いものを抱えた男がいて、その男が人々にぶつかりながら無理やり押しのけているのだった。男は凍り固まった雪を物ともせず必死の形相で走ってくる。

「待て! 止まれ!」

叫び声を上げながら警官が男を追ってくる。

さっきの葛籠(つづら)男だ、と認識するなり、月島は目の前を通り過ぎようとした男の左手を掴んで引き倒した。流れるように、転んだ男の背中を膝で押し潰し、両腕を後ろ手に捻じ上げる。男がどうにか逃げようと身を(よじ)ると、乱れた合わせから何か軸のような物が二本見えた。葛籠は逃げるためにどこかに放り出してきたのだろう、男が抱えていたのは布で巻かれた長い物だけだった。放り出されたそれは、布が乱れて少し中が見えていた。職業柄、小銃を想定していたが。

――刀?

ちらりと見えたのは刀の柄と(おぼ)しきものだ。

なおも動こうとする男を地面に押さえ込み、月島がぎりぎりと力を入れると、身動(みじろ)ぎすらできなくなって、男の食いしばった歯から苦痛の呻き声が漏れている。

そこにやっと追いついた警官の足が四本(そば)に止まった。二人の警官は荒い息を吐きながら、

「さすがは、北鎮、部隊、ですな」

と切れ切れに言いつつ、月島が捕まえた男を引き起こして捕縄をかけた。その拍子に男の懐からさきほどから見えていた軸がこぼれ落ちる。

――掛け軸?

月島は掛け軸と放り出された刀を拾い、警官に渡しながら訊いた。

「窃盗ですか?」

「ご存じないですか、今、話題の古美術品の――」

「例の新聞を賑わせている?」

声を上げて引き取ったのは、月島の後ろから顔を覗かせた書店の店主だった。聞いたことがないなと眉を寄せた月島に、店主が興奮気味に言う。

「知らないんですか、軍曹さん。一条通の酒造店の主人の家に泥棒が入って、大事にしていた美術品をごっそり全部持っていったとかいう。――ですよね?」

店主に問われて、あー、まあそうだ、と警官が頷く。

会話が続く横で、捕まえられた男はまだどうにか逃げようとばたばたしていたが、警官が何度か背中からこずいたりどやしたりして、やっと大人しくなった。とはいえ、雪の上に唾を吐いて、ぷい、と横を向いている様子を見ると、観念したようにはとても思えない。

しかし、そこから先は警察の仕事で、月島の(あずか)り知るところではない。ご協力感謝いたします、の言葉と共に警官が男を引き立てていくと、本屋も商売の方を思い出して月島の袖を引っ張り、それで男のことは月島の頭の中から追いやられてしまった。