前略、兎が居ます。- 1 -

食肉の検品、朝のうちに済み。石炭と薪は本日中に汽車で届く。汽車が到着次第、積み荷を降ろす兵卒が呼びに来る手筈になっているから、糧食委員の将校と一緒に荷物を(あらた)める。そのための帳簿が主計軍吏から届いていたはずで――

机の上の帳簿を(めく)って確認した時、食事分配喇叭(らっぱ)が鳴った。月島は顔を上げ、首を左右に曲げつつ肩を回した。凝り固まった肩がゴリ、ゴリ、と音を立てる。

「相変わらず凄い音ですね、軍曹殿」

向かいの机で書き物をしていた伍長が顔を上げる。炊事掛になってから組んだ伍長の佐々木は、軽口を叩きがちだが仕事はできる。笑いかける佐々木に曖昧な仕草を返しながら、立ち上がって窓の外を見る。向かいの練兵場にはまだ汽車は来ていない。そろそろ到着しても良い頃だが、遅れているらしい。

「午後になりそうだな」

「汽車ですか? そうですね」

「失礼します。鈴木二等卒、入ります」

外から掛けられた声に振り返ると、扉が開いた。

「昼食をお持ちしました」

「おう。そこに置いてくれ」

配膳の物音を聞きながらもう一度窓の方を向き、今度は左に目を転じて角にある司令部の方を見ると、佐々木が後ろから声をかけてきた。

「着任式は終わったのですかね」

「今日の異動将校は少ないと聞いている。とうに終わっているだろう」

司令部正門は静かなものでさしたる動きはない。せいぜい、将校が一人道路の真ん中、馬車鉄道の線路の近くまで出て来ているのが見えるだけだ。その将校はと言えば、二方向に伸びる道に交互に顔を向け、何かを確認しているようにも見える。様子をよく見ようと、月島は目を細め眉間に皺を寄せた。

「どうしたのですか?」

「ああ。あの将校殿、何かを待っているようだと思ったのだ」

窓の外を指さすと、佐々木が隣にやってきて月島と同じく窓の外を見、ちょっと首を傾げた。

「どこの所属でしょうか」

言いながら佐々木が棚に近寄り双眼鏡を取り出して戻ってきたので、そこまでやるのかと月島は少し眉根を寄せたが、止めはしない。上から将校を見下ろすなど不敬と言えば不敬だが、咎めることもしなかった。

深緑(ふかみどり)だ。衛生部の色ですよ」

佐々木が月島に双眼鏡を差し出す。

「衛生部の将校なら軍医殿か」

「でも、見たことの無い方ですね」

「前の大隊附医官は異動になっただろう。今日の新任かもしれない」

受け取って覗いてみて、月島は少し唸った。

「外套で階級章が見えないな」

「若そうじゃありませんか。少尉か中尉か」

月島は双眼鏡を佐々木に返すと席に着いた。話している間に配膳は終わり、当番兵も既に部屋から出ている。

午砲の音が窓を震わせる。それに紛れるように食事喇叭(らっぱ)が鳴った。佐々木も自分の席に着き二人で食事を初めてしばらく、外からの物音で月島は再び窓の方を振り返った。佐々木にも聞こえたとみえ、月島に話しかけてきた。

「着きましたかね、汽車」

「すぐに誰か呼びに来るだろう」

月島は急いで残っていたおかずを口の中に放り込み、味噌汁で流し込んだ。佐々木の方も同じようにご飯をかき込んで食事に止めを刺している。

四月の旭川は、少なくなったとはいえ雪がまだ残る。外套を着込み、軍帽を手に取ったところで走ってくる足音が近づいてきた。走ってこなくても良いのにという佐々木のぼやき声が消えやらぬうちに勢いよく扉が開き、外から走ってきた二等卒が戸口で一礼した。そして、身を起こすなり慌てた口調で話し出す。

「月島軍曹殿!」

「なんだ」

「練兵場に兎がいるのです!」

ぐっと眉根を寄せてから、月島は口を開いた。

「兎ぐらいなんだ。その(へん)から入り込んだのだろう。とっとと捕まえて放り出せ」

「いえ、それが、汽車から積み荷を下ろす際に落としてしまった木箱から出てきたらしく、炊事掛で発注したのかと」

「馬鹿を言え。生きた兎など発注するか」

月島は佐々木に着いてこいと身振りをしてから歩き出した。駆け込んできた二等卒が先導しながら報告を続ける。

「炊事掛でなければ縫工場か、とそちらにも一人確認に行っています」

「縫工場だって、必要になるとしたら毛皮になった兎であって、生きた兎ではないだろう」

言われて二等卒は縮こまったが、積み荷から想定外の物が出てきて困り果てた末の確認であることは分かるので、月島に叱責のつもりは無い。一緒に一階に下りて玄関を出る。雪が残っているとはいっても、除雪された部分は地面が露出して、泥混じりの雪はこの時期が一番汚い。練兵場の方は、兵卒が走り回っているのがちらちら見え隠れしていたが、風除けに植えてある木々もあって、まだ様子が見通せない。

「今、総出で捕まえています」

「総出? いったいどれだけいる……」

言いかけた佐々木の言葉が、練兵場の入口で途切れた。その横をすり抜けて出て行きそうになった小さな影を、月島は咄嗟に掬い上げた。

「……食い出がありそうだな」

捕まえられて暴れている兎を押さえ込んで、ぼそり、と漏らす。練兵場には兵卒に追いかけられた兎が百羽ほど走り回っていた。

「月島ァ!」

背中から大声で呼ばれて、月島はすっと表情を平常に戻して振り返った。思った通りの人物が駆けてくる。

「鯉登中尉殿」

「兎が溢れかえっていると聞いたぞ」

業務を放り出してきたのかと苦言を呈そうとしてやめた。そういえば、昼食の最中だった。

「溢れるほどではありませんが、多いと言えば多いですね」

鯉登は入口から練兵場を見ると、笑みを浮かべた。

「凄いな。発注したのか」

「していません。引き込み線に入った汽車の積み荷から出てきたそうなので、何らかの手違いである可能性が濃厚です。全部捕まえて返すべき所に返しませんと」

「よし、私の所の兵卒も寄越そう。おい、昼食を食べている奴らを全員呼んでこい!」

鯉登付きの兵卒だろうか、走ってきた鯉登に追いついた途端に今度は兵営に走って行く羽目になる。ふと見ると、兵営の建物の二階は人々が窓に貼り付いて練兵場を見ているし、入口に一番近い中隊から、応援のつもりか、わっと兵卒が走り出てくる。それが伝搬したように、司令部の方からも人がやってくる。だんだん事が大きくなってきているようで――

――面倒くさい。

月島は気を取り直して、一緒に来た部下に言った。

「佐々木伍長、誰でも良いから主計将校か軍吏かに兎が着いていることを報告して、納入の予定があるのか一応訊いてこい」

「はい!」

「お前は兎を捕まえろ!」

「はい!」

報せをくれた二等卒にも指示を出したところで、お、と鯉登が声を立てた。どうしたのかと鯉登を見上げ、その視線が司令部の方を向いているのを見て、月島もそちらを見ると、立派な髭を蓄えた将校が本部の建物から出てくるところだった。

鯉登が月島の方に体を傾けて囁く。

「本日着任の軍医部長殿だ」

軍医部長が大股で道路を渡って来るので、二人は軍帽にぴしりと右手を揃えて敬礼した。軍医部長は渡りきると、状況の説明を求めるためだろう、二人の方に近づいてきた。

「兎がいると聞いたのだが……」

疑問を言い終えるより早く走り回る兎と兵たちが目に入ったらしく、軍医部長は動きを止めて目を()いた。

「何だ、この兎は」

それは俺が訊きたい、と月島は思った。

練兵場にいた兎を全部捕まえた頃には一時間ほど経っていた。とはいえ、最初の数が分からないので、逃げてしまった兎が居ても分からない。元の木箱に戻してはみたが、狭いような気がして、結局、厩舎(きゅうしゃ)の一区画を兎用に囲って放している。

鯉登は名残惜しそうに午後の業務に戻って行き、月島は佐々木と一緒に厩舎の様子を見ている。急造りの柵の中にいる兎は大きめで体のほとんどが白いのだが、目のまわりやら体の一部やらが茶色くなっている。

「毛が生え替わる時期なんですかね」

「そろそろ春だからな」

「兎って、馬の飼い葉は食べるんですかね」

「食べてはいるぞ」

もぐもぐと口を動かしている兎を見ながら、飼料の在庫管理をしている主計軍吏の引き攣った顔を思い出す。一羽や二羽ではない。これだけ居れば飼料の調達計画が崩れるだろう。とはいえ、責任の所在がどこにあるかを確認するまで生かしておくしかない。正統な持ち主が分かったときに餓死しましたでは済まされないだろう。

「公用証はすぐに用意すると言っていましたよ」

「なら、部屋に戻るか」

師団の全部署に問い合わせ、師団内の発注では無いことは確認した。となると、貨車の管理をした国鉄にまずは問い合わせるしかない。経理部は想定外の飼料の消費に頭を抱えているため、問題を解決するためなら外出許可はすぐに出ると思ってはいた。

厩舎から戻ると公用証の木札が届いていたので、早速出かけようと外に出た。聯隊本部の門を出て、馬車鉄道の停留場に行こうとしたとき、佐々木が月島の肩を叩いた。

「あれ、国鉄の制服じゃないですか」

佐々木が司令部の方を指さす。司令部の門の前に国鉄の外套を着た人影があり、歩哨と話しているのが見える。

「荷物の積み違いに気づいたか。こっちから行く手間が省けたな」

急ぎ足でそちらに近づき、月島は大声で呼びかけた。

「もし、兎の件ですか?」

気がついた年嵩の国鉄職員と歩哨とが揃ってこちらを向く。

「兎? 何の話です?」

嫌な予感を覚えながら、司令部の門の所まで来て月島が足を止めると、歩哨の方が答えた。

「所在不明の兵卒将校は居ないかと言うのです」

「どういうことですか?」

「実は、函館からの列車の中で発作を起こして倒れた乗客がおりまして――」

阿部と名乗った国鉄職員が言うにはこうだった。

乗客は、はるばる東京から汽車に乗ってきたらしい。青森から青函連絡船で函館まで渡ると、そこからさらに汽車を乗り継いでおり、切符は旭川まで買ってあった。寝台のある一等車に乗り、大きな荷物を持っていた。

「大きなというと、どれぐらいですか」

「そうですね、寝台の半分ほどでしょうか。それぐらいの長い木箱と、旅行用と思しき鞄とです」

「兎一〇〇羽は入りそうにないですね」

佐々木が言ったので、阿部は妙な顔をしたが、気を取り直して説明を続けた。

汽車は順調でほぼ定刻通りだった。倶知安(くっちゃん)で寝台を使い始めた時には普通の様子だったと他の乗客が言っていたらしい。異変が起きたのは夜中のことだった。

「二時半を過ぎたぐらいでしょうか。呻き声をあげて五月蠅(うるさ)いもんだから隣の寝台の客が文句を付けるつもりで見に行ったそうです。そうしたら、こう、胸の辺りを掻き毟って口から泡を吹いてるもんだから、驚いてその方が車掌に知らせてくれたんです」

車掌が男の寝台まで来たのは深川に止まる直前だった。車掌は見た途端、尋常でない様子と顔色とで降ろそうと思ったらしい。

「大丈夫ですか!」

声を掛けられても、息も絶え絶え、まともな返事もできない有様である。男は苦しい息の中、細く目を開け車掌に言った。

「だいしち……だん、の……」

「第七……第七師団ですか!?」

大声で車掌が呼びかけると、男は苦しい息のまま、懸命に頷くような仕草をし、

「つぁうばあ……く……」