明けて月曜、いつも通り業務が始まる。週番下士が持ってきた食料伝票を確認して炊事場に向かい、食材の数量を確認して受払簿をつける。炊事兵が飯を炊き、調理をしているのを見て回り、問題無いことを確認してから居室に戻る。しばらくは佐々木と手分けして伝票だの決算表だのに取りかかる。
「ああ、また確認が空欄だ。このところ帳簿を回しても、そのまま帰って来てばかりですよ」
回す意味あるのかなあと佐々木がぼやくのを窘める。
「規則は規則だ。主計将校殿があちこち出張に行っていて手薄なのだろう。釧路やら樺太やら」
「物資調査でしたっけ」
「樺太は営造物の調査で技手長殿も一緒だったはずだ。あと、来月は経理部の会議があるとも言っていたから、その準備も忙しいのだろう」
一段落付いたところで佐々木が伸びをしてから月島に訊いた。
「来週はどうしますか?」
「献立か」
言われて、まだ埋まっていない献立表を手元に持ってくる。魚菜の一人あたり予定額は二〇銭。燃料の一人あたり予定額は八厘八毛。主食は米と麦とを混ぜたので決まっているが、毎週土曜から金曜の一週間分二十一食の献立を決めなければならない。土曜、日曜と埋めていって、
「月曜の昼食はスキヤキにするか。それで夕食は魚の唐揚げだ」
「良いですね」
万年筆で表に書き入れたあたりで手が止まった。ネタ切れだ。このあたり、食に拘りが無いことが影響している。吸い取り器でインクを吸い取った姿勢で止まり、難しい顔で表を睨んでいる月島に、佐々木が軽い調子で言った。
「あの兎、使って良いと思いますか?」
途端に月島は顔を上げ、咎めるように言い立てた。
「良いわけがあるか。だいたい、あの数だぞ。捌ける奴がどれだけいるんだ。そもそも、兵営を屠場にする気か。食事に事欠く有様ならともかく」
一気に言い終えた月島に向かって、佐々木は降参するように手を上げた。
「冗談ですよ」
ちょうどその時、かつかつと小気味の良い軍靴の音が近づいてきたので、黙って目配せを交わし合う。前触れ為しに扉が開き、二人は反射的に立ち上がって礼をした。
「山本中尉殿。どうされましたか」
突然、現れた主計将校に、内心驚きを隠せない。呼ばれることはあっても向こうから下士室に来ることは滅多にない。山本は上背があって所作こそきびきびしているが、その実、柔和な性格で、この日はその上に上機嫌だった。
「喜べ、月島軍曹。しょうにんだ」
しょうにん、が咄嗟に変換出来ず、月島は黙り込んだ。
商人が来た。それなら仕事だ。喜ぶ要素が無い。
承認。何の申請もしていない。
月島より先に、佐々木の方が気付いて笑いかけた。
「おめでとうございます」
何が。
「でも、曹長と言うことは、炊事班は離れるのですね」
「そうなるな。ほどなく正式な通達が書面でなされるだろう」
そこまで言われてやっと『昇任』に辿り着き、さて礼を述べるべきなのかどうなのかと口を開くその前に、それでだな、と山本が続けた。
「最後の仕事として、深川に調査に行ってきてほしい」
「深川ですか」
なぜ炊事班長の自分が深川に行くのか結びつかなかったが、薄々は予感があった。
「兎の件だ」
やはりか。
「国鉄から連絡があって、深川で貨車を連結したことまでは分かったのだ」
「なぜ深川で。石炭にしても薪にしても、てっきり瀧川か砂川で専用列車に仕立てたのだと思っておりましたが」
両駅は空知炭田からの石炭貨物の中継地だ。どこからの調達かは聞いていないが、なんとなくその辺りから汽車が来たのだろうと思っていた。
「うむ、正しい。瀧川で師団専用として貨物列車に仕立てたのは間違いないのだ。それが深川で水と燃料を補給したときに、なぜか兎の貨車が連結された」
言われて月島は眉間に皺を寄せて考え込んだ。汽車の遅れはそのせいだったのかもしれない。山本は一つ頷いた。
「本来は国鉄側が全部調べ上げて報告を寄越すのが筋だが、こちらも誤魔化されたくはないし、何より解決を急ぎたい。なにせ九七羽だ。飼料の費用は国鉄に請求するにしても場所を取って敵わんからな」
「それで師団からも人を派遣することにしたのですか」
「うむ。経理部から出そうと思っていたのだが、どうにも時期が悪い。人がおらんのだ」
さきほど佐々木とも話していた査察は経理部の主計将校しかできないのだから、この本来業務からはみ出た調査が月島に回ってきたということだろう。
「頼むぞ、月島」
「了解しました」
内心で何を思おうと、上官の命令に対する返答として諾以外の言葉はない。山本は、うむ、と満足したように頷いてから、来た時と同じように、足音高く出ていった。そのやけにカツカツと響く軍靴の音が廊下の向こうに消えるまで、月島は、ぐい、と奥歯に力を入れながら黙していた。見ていた佐々木が笑いを殺しきれないでいるのに気づいて睨み付ける。佐々木が笑ったまま、
「申し訳ありません。ですが、面倒ごとが集まるのも分かるのですよ」
「どういう意味だ」
「だって、班長殿は何でもできそうな雰囲気があるし、実際、熟してしまうから。本分が熟練の兵士なのは当然として、帳簿も読めるし、商人と折り合いを付けるのも上手いし」
「調査とは関係が無いだろう」
「そうなんですが、昇任前の慰労もあるんじゃないですか。昼間に堂々と外出ですよ」
「公用の、だ。そもそも、慰労などあるものか」
「ほら、軍曹殿、軍歴も長いし」
何が「ほら」だ、と月島が首を振る。
「だいたい、俺が一日二日外したら、お前の仕事も増えるんだぞ」
「お任せください。一日二日ぐらい捌いてみせます」
そうだった。こいつはこれで有能だった。
月島は黙り込んで――常の通り、仕事だと飲み込んだ。
公用証はあっという間に届き、もうさっさと行ってしまった方が早いと考えて、月島は外套を着込むなり出立した。
道路の真ん中こそ雪が除けてあってが、真冬の時期に積んで山にした所はまだ溶ける様子が無かった。馬車鉄道で渡る石狩川など、河原はまだ随分白い。人通りの多い師団通りには白い息を吐きながら人々が行き交っていた。それでも日の光は明るく、春がそろそろと控え目に訪れ始めている。
落合から到着した上り列車は少し遅れていたが、旭川を出てからは順調だった。車内はさほどには混んでおらず、月島の座った四人掛けの席には他に誰も乗客はいない。月島は雑嚢から帳面を取り出して頁を繰った。手を止めたのは、例の兎が着いた日に書き付けた箇所である。
兎の乗っていた貨車には、側面に荷札のような物が挿してあった。行旅病人の報せを持ってきた阿部に見せたところ、どうやらそれは貨車車票という物で、貨車を仕立てた日付、発駅、品物、行き先等が書いてあるそうだ。「これを見て、貨車の連結・解放をするんですよ」とは阿部の談である。月島が書き写したのはその内容である。
4月8日 ・ 江別驛 出 ・ 品名 兎 ・ 旭川 行
最後の旭川の文字は二本線で消してあり、代わりに「師團」と書き直してあった。軍都旭川と呼ばれるぐらい、第七師団と旭川は切っても切り離せない。しかし、貨車を仕立てる国鉄は、衛戍地が旭川の停車場からは離れていることも師団に専用の鷹栖線が有ることも知っている。間違うことなどあり得ない。だから、兎は本来旭川駅に到着するはずだったのだ。それを、わざわざ師団行きに書き直したのが深川でのことだったらしい。
月島は顔を上げ外を眺めた。汽車は石狩川沿いの単線をひた走っている。
――江別にはな、越後村があるんだ。新潟から集団移住が行われて、彼らが拓いた場所だ。最近は林業や畜産業にも力を入れたいと言っていたな。
不意に浮かんだ昔の記憶が思いがけず身の裡を揺らす。月島は窓の外を眺めたまま胸を揺らす漣が行き過ぎるのを凝と待った。一呼吸入れてからわざと声に出して呟いてみる。
「……兎は江別で集めるか飼っていたかしたのか」
兎が出発した江別は札幌の方に近い。そこから北上していくと師団の貨車を仕立てた瀧川がある。しかし、兎の貨車はそこでは連結されていない。連結されたのはさらに北の深川である。どうしてそんな間違いが起きたのか。
「……分からんな」
深川へは旭川を出て一時間余りで着いた。ちょうど昼時である。書き入れ時とばかりに弁当売りが何人か窓から手を出す人々に手早く弁当を売り捌いている。出発の汽笛が鳴ってゆっくり汽車が動き出すと、最後の足掻きのような弁当と小銭の遣り取りがあって、その光景を後に汽車は煙を吐きながら小さくなって行った。
深川は、留萠港への新しい鉄路ができたばかりだ。神居古潭からこっち、川沿いの単線をずっと通ってきたこともあって、随分と広々としているように感じる。線路はぱっと見たところ五本はあって、なるほど、貨車の付け替えぐらいはできそうだった。
月島は辺りをぐるりと一度見回した。貨物の掛がどこに居るものか分からなかったので、取り急ぎは駅舎に向かう。改札に立っていた駅員に聞いてみると、あっちの手荷物の掛でないかい? と指さされ、手荷物の掛は、師団の荷物ですか、と困ったように黙り込んだ。
「いや、師団の荷物ではなく、師団に間違って届いた荷物だ。荷物と言っても兎が一〇〇羽ほどで、貨車まるまる一台なのだが」
それを聞いて、手荷物の掛はぱっと顔を明るくした。
「ああ、昨日旭川から問い合わせがあった件ですね。旭川駅から連絡は行きませんでしたか」
何故、態度が変わったのかちらりと疑問に思ったが、大方、自分と関わりが無かったからだろうと月島は続けて尋ねた。
「ここで連結したのは聞いた。なぜそんなことになったのかを知りたい。それと、本当の所有者を」
「私は担当じゃないから詳しいところは知りません。貨物の取扱いでしょう? そっちの方に真っ直ぐ行ったら小屋があって、連結手や配車の担当が居ますよ」
「土曜と同じ人間か」
「たぶん、同じ人間も居ます」
言われた方に歩いて行くと、線路のある地面に降りる斜面があった。国鉄職員でもないのに降りて良いのか一瞬迷ったが、駅員が言ったのだからと足を止めずに短い坂を降りていく。線路脇の雪を踏みながら歩くと、さほど離れていない所に木造の小屋が何棟か建っている。一番手前の小屋に人の気配があったので、これだろうと踏んで入口を開けると体格の良い男たちが一斉に月島の方を見た。
連結手たちはストーブを囲んで手を炙っている。油染みで薄汚れた手拭いが何枚かストーブの上に張った紐に掛けられ干されていた。室外との気温差と人の多さのせいで、窓硝子はみっちり曇っている。
「なんだい、あんた。軍人が用も無しに来るような場所じゃねえよ」
荒っぽい物言いを月島は平然と流した。
「土曜の荷物について調べに来た。駅舎にいた人間から荷物の担当ならここだと聞いたのだ」
椅子に座っている者たちをゆっくりと見回してから月島は改めて口を開いた。
「この中に土曜に出ていた者はいるか」
途端に、奥に座っていた男が入口に座っている髭の男を指さした。
「あのな、駅長にも言ったけど、あれはこいつが悪い」
「なにを?! 俺はちゃんと『その荷物持って来い』って言っただろ! 着いてこなかったお前が悪い」
「違う! お前はこう言ったんだ。『その荷物、頼む。旭川の師団のらしい』って。それで担架持って出てく奴に着いていこうなんて思うわけないだろう!」
二人が言い合いを始めたので、月島は割って入った。
「待て待て、何の話だ」
「何って、急病人が持ってた荷物が無くなった話だろ」
――そっちか。
「あー……つまり、こちら(と言って、月島は髭の男の方を向いた)が病人を担架で汽車から出したんだな?」
「そう。車掌が誰か来てくれって叫ぶから、貨物列車待ってた連中皆でわーっと寄って集って、俺ぁ今ここにゃ居ないがもう一人と一緒に担架持って出て、駅の外に馬橇が来るって言うから、そこまで」
「病人は軍人には見えなかったと聞いているが」
「ありゃあ軍人じゃないし、体使う仕事はしてないと思うね。一等寝台使ってたぐらいだし、服も上等そうだった」
じゃなきゃ、病院なんて掛かれないだろうしな、と男は付け足した。そういえば医者の代金は誰が持っているのだろう。懐に財布ぐらいは持っていたのだろうかと思いながら月島は続けて訊いた。
「幾つぐらいだった」
「そうだな、俺よりは若そうだった。三〇行くか行かないか」
月島と話しているうちに髭の男は落ち着いてきたようだった。今度はまだ何か言いたげに睨み付けている奥の男に向き直る。
「それで、荷物はどうしたんだ」
「けっこうな大きさだったから、手荷物預けの掛に渡してどうにかしてもらおうと思った訳よ。俺らは次に来る貨物列車を待ってたわけだし」
「どんな荷物だった」
「どんなって……そうだな、長さは二尺三寸ぐらいだったかな。それで幅が一尺ぐらいで」
言いながら男は大きさを示すように縦横に手を動かした。地面に建てたとしたら腰の少し下まで来るだろうか。そういえば、師団に来た国鉄の職員も「寝台の半分ほど有る長い木箱」と言っていた。
「そこそこ重さがあって、蓋が開かないように両端を紐で括ってあった。持ちにくかったんだろうな、長い辺に沿って襷が掛けてあって、たぶんそれを使って肩に掛けて運んでたんだ」
俺もそうしたし、と言いながら、今まさにその木箱を持ってみせるように、ひょい、と腰を浮かせてみせる。
「中身は見たか」
「見ねえよ。紐が掛けてあったって言っただろ。ただ、そうだな。適当に荷作りしたんじゃないかな」
「どうしてそう思う」
「だってさ、すかすかで中身が動くんだよ。前に下がったかと思ったら後ろに下がるし、持ちにくいったらありゃしねえ」
「それを手荷物の掛に渡した」
「手荷物の掛というか、貨車の連結指示出す掛に渡したんだ。旭川の師団行きだからどうにかしておいてくれって。それで無くなったんだったら、やっぱり俺のせいじゃない。そいつが無くしたんだ」
「なるほどな」
月島が反論もせずに聞き続けたせいだろう、喧嘩腰だったこちらの男も今は落ち着いている。
「そういえば、鞄は見なかったか。旅行鞄があったはずなのだ。おそらくは身の回りの物を入れていた」
「てんやわんやになってよく覚えてねえが、そんな物は見なかったなあ」
病人も荷物も慌てて降ろしたことは想像に難くない。真夜中の車内は暗かっただろうし、毛布の中に紛れていたら降ろしそびれたことも考えられる。もともと病人は旭川まで乗るつもりだったのだから、その後に乗る者が居なければ寝台使用区間が終わる落合まで、下手をしたら終着の釧路まで行ってしまったかもしれない。
「荷物を頼んだという掛はどこに居るんだ」
「隣の小屋だよ。事務所になっててそこで貨車の指示書を書いたりしてる」
聞くだけ聞いてやってから、月島は本来の目的の質問をした。
「もう一つ。ここで師団行きの専用列車に兎の貨車を連結したと聞いたんだが」
すると、今度は横に座っていた大柄な男が月島に声を掛けた。
「それは朝のことだ。そいつらは上がった後だから知らねえだろうよ」
今度はその大柄な男の方を向く。月島より少し年上だろうか、短い髪にはちらちらと白い物が混じっている。
「連結はあなたが?」
「ああ、俺がやった。朝に到着した貨物列車から解放して。一番後ろに連結しておいてくれりゃ良いのに中間から外す羽目になったから面倒だったんだぜ。それで、しばらく置いておいたら師団専用列車が到着したから連結したんだ。でもな、俺たちは指示書通りにやっただけだ。文句ならすっ飛んできて貨車の付け替え指示した奴に言ってくれ」
言いながら男は親指を立て、自分の後ろの壁の方を二、三度指してみせた。そちらにあるのは、さっきの男も言った事務所の小屋だ。
月島は礼を言って小屋を出た。小屋の中が湿気っていたので、外の空気は新鮮だった。息継ぎでもするように外の空気を吸いながら歩き、今度は隣の小屋に入る。
「旭川の第七師団から貨物の調査で来た者だ。荷物の指示はこちらの事務所で出したと聞いたのだが」
また「何しに来た」から始まると面倒だと思って、戸を開けるなり月島は説明した。こちらを向いて机に向かっていた職員は呆気に取られたように目を瞬かせたが、月島が言い終わると、師団から直接ですか、と少し渋い様子になった。
「夜勤の担当はそれこそ調査のためだって旭川に呼び出されてからまだ帰っていないんですが」
「夜勤?」
「そうですよ、ありゃあいつが悪いんですよ」
また押し付け合いか、と思ったが、顔には出さずに月島は机の上に置かれた帳簿のような物に目を向けた。
「知っている限りでいいから教えてくれないか。荷物の受け渡しなら帳簿ぐらい付けているんだろう」
「どっちの件です? 兎? 病人の荷物?」
「兎の方だ」
兎の貨車ね、と言いながら駅員は頁を繰って、月島の方に向けた。帳面は縦書きで、万年筆で書かれていたがどうにもインク擦れが激しい。
「ずいぶんと汚いな」
字が読みにくくて思わずそう呟くと、すかさず相手が言った。
「私が書いたんじゃありませんよ」
「これを書いたのが夜勤の担当なのか」
「そうです。ちゃんとインク吸い取ってから次を書かないとこうなるのに、いつもこの調子で。引き継ぐ方の身になってほしいですよ。筆だったらこんなことにはならないんですがね」
「筆なら手を浮かせるからな。どこだ?」
「ここです。その頁の最初の行」
指さされた箇所に目を落とす。
うさぎ ■匹 師■
インクが溜まって潰れているところもあるが、辛うじてそう読めた。最後の字は「團」だろう。真ん中辺りの字は――
「……伍か、これは?」
「佰ですよ」
「ということは、一〇〇羽いたのか」
――まずい。三羽逃がした。
ちらりと思ったが、噯にも出さずに質問する。
「それで貨車を連結したのか。だが、貨車は江別から来たのだろう? わざわざ付け替えたのか? 少なくとも、貨車車票には最初は『江別驛 出 ・ 旭川 行』と書いてあった」
「それはそうです。私が書き換えたんですから」
男はもう一度帳簿の兎の行を指でとんとんと指し示した。
「朝、来て帳簿見たらこれが書いてあって、でも、兎の貨車はその時は無かったんです」
「なら、兎はいつ来たのだ」
「夜中の急行が通った後はしばらくは旅客の列車が無くて、その時間帯で貨物列車を通しているんです。師団専用列車がこの駅で補給することになっているのは前から聞いていて用意していたから、これはその前に来る貨物列車だなと思ったんですよ。行き先を書き間違えたか何かで訂正が入ったんだろうって。それで、次に来た貨物列車が停まった時に貨車を確認して回って、『兎、旭川行』って書いた貨車を見つけて、これだって思ってね。慌てて機関士と車掌に伝えて連結手手配して、車票も書き換えて切り離したってわけです。そこまで手間掛けさせといて間違いだなんて言われた日にゃ」
忌々しげに掛員は帳簿を睨み付けている。
「そうして、この駅で兎の貨車を留め置いていたら、後から師団専用列車が来たわけだな」
「そう、それで連結して一仕事終えたつもりでいたのです」
師団から深川駅に指示したわけではないのだから、これはもう国鉄の手違いで間違いない。あとは本当の荷主が分かれば良いだけだが。
「結局、その兎の持ち主は誰なのだ」
「ここじゃ分かりません。引き受け駅の江別か、引き渡しの旭川なら帳簿もあるんでしょうが、ここは貨車の付け替えしかしていないし、その一行しか記載はないんです。それだって間違っていたわけでしょう?」
説明を聞きながら、月島は帳簿に目を落とす。確かに次の行からは違う品が書いてあり、それらはこの駅で引き受けた物で、師団とは関係がない行き先だ。確認というわけでもなかったが、なんとはなしに頁を前に捲り、そこで手を止めた。
「何だこれは……」
呟いたのは、最後の行に見慣れぬ文字が書いてあったからだ。
「あー、そっちがその、車内で倒れた人の荷物だったみたいで」
今までの「自分は悪くない」といった態度から一転、少々言いにくそうにしている。月島はもう一度帳簿に目を落とした。縦書きの最終行だ、インク擦れは無く、字ははっきりと読み取れる。
木箱・長さ七十センチ余り、幅三十センチ弱・側面に文字 Zauberkugel 606
「ゼット、エー、ユー……なんだこのラテン文字は」
「意味は分かりませんが、書いてあったらしいんですよ」
「見たのか」
「自分は見てないんですが、手荷物掛が言ってました。木箱の横に大きな白い文字ではっきりと書いてあったって」
「その荷物、どうしたんだ」
急に掛員は早口になった。
「私は知りませんよ! 手荷物掛の方に行っちゃってたんだから」
「手荷物掛が何と言っているか知っているか」
「ええ。『車内で病人が出て、その客の物だ。旭川行きの』って夜勤の奴から引き継いだそうです。そう言われたら、手荷物掛だって次の旅客列車に乗せる物だと思うじゃないですか」
「なるほどな。荷物は夜中から有ったわけだから、最初に来た列車というと――旭川に十二時頃に着くのがあったな」
「いえ、留萠から来る列車が九時半頃にここを通って旭川に行くんです。旭川には十一時頃着いたはずです」
あの日師団の専用列車が練兵場に着いたのは十二時半頃だった。おそらく、ここ深川に師団の列車が着いたのは十一時頃で、その時には既に木箱はここには無く、そもそも『旭川行』で引き継いでいては、乗せようなどと思いもしなかっただろう。
「それで師団に届くはずの荷物が旭川駅に行ったわけか」
「勘弁してくださいよ。私は私でここの帳簿にあるのに荷物が無いのはおかしいと思わなかったのかって怒られて。でも、そもそも貨物の帳簿に書いたのが悪いんじゃないですか」
月島は少し考え、口を開いた。
「だがな、さっき、荷物をここに運んだという連結手は、『旭川の師団行きの荷物』を『どうにかしておいてくれと頼んだ』と言っていた。急病人でてんやわんやのうえに、連結手は次の貨物列車を待ち受けていたところだったのだ、詳しい説明などしていられなかっただろうし、夜勤の担当は貨物列車に載せるのだと勘違いして書いたのかもしれない」
「無理ですよ。貨物列車の貨車は荷主の物で、勝手に途中で開けて混載することはできないんです。そりゃあ、師団行きは丸ごと師団専用ですが、行き先は合ってても軍の物を途中で開けようものなら大目玉だ」
「書いてからそれに気がついて手荷物の方に持って行った、とは考えられないか」
「それで消し忘れてちゃ世話は無い」
月島が帳簿の兎の行を人差し指でとんとんと叩いた。
「こんなにインクが擦れているということは、次の荷物の受け付けがすぐにあったからだろう? 二、三行は書き進まないとこうはならない」
月島が自分の右手を上げて小指側を擦ってみせると、駅員はぎこちなく頷いた。
「受け付けが一段落付いて、置きっ放しの木箱を改めて見て、これは乗せられないな、と手荷物掛に持って行って、帰ってきて消すのを忘れた」
「事情はあったとしても、師団行きって部分をちゃんと言わないから、手荷物の掛も普通に旭川に着く旅客列車併結の貨車に乗せてしまったんじゃないですか。そのせいで、手荷物掛もこってり絞られたんだから文句を言ってましたよ。何もかも全部――」
「――夜勤の奴が悪い、か?」
「はあ、まあ……」
流石に全部を夜勤の者のせいと押しつけるのは気が引けたのか、駅員は少し声の調子を落とした。
「夜勤の担当は何と言っている」
「分かりません。勤務の上がりの時刻が違うから、奴は今、旭川駅に呼び出されていますよ。次の勤務は明日の晩かな」
「そうか……」
「私が怒られたんだ、あいつも小っ酷く叱られてるに違いない。事に依ったら不貞腐れて旭川をぶらぶらしてるかもしれません」
参った。夜勤の男が帰ってくるのを待つだけのために一泊する訳にはいかない。今日のところは旭川に戻って先に旭川駅で話を聞いた方が良いかもしれない。
「分かった、邪魔したな」
言うなり、月島は外に出た。職員が、ふう、と息を吐いて背中を丸めるのがちらりと見えた。
そのまま駅舎の方に足を向ける。切符売り場で旭川に戻る列車の時刻を訊くと、一時間弱の時間が有る。昼飯ぐらい食べておきたいところだが、列車の切れ目で弁当は売っていない。
「この辺で飯が食べられるところは無いか」
「駅前の通りに一膳飯屋が有りますよ」
礼を言っていったん駅を出る。地面の見え隠れする雪道を歩いて行くと、五分も経たぬうちに駅員が言っていたとおり飯屋が見つかった。入口の庇の下で軍靴についた雪をちょっと落としてから引き戸を開ける。
「いらっしゃい。どこでも座ってください」
昼時を過ぎたからだろう、客は四、五人というところで、がつがつと飯を掻き込んでいる男たちばかりだった。
「兵隊さん、旭川から? それとも砂川から?」
「旭川だ。砂川にあるのは工兵隊の演習廠舎だけだ」
外套を脱ぎながら、ちょいちょい、と首元の襟章を人差し指で指し示す。
「ああ、赤は歩兵さんでしたっけ」
「そうだ。工兵は鳶色になる」
言いながら腰掛けると、店主は袖章を目に留めて、に、と笑った。
「軍曹さんでしたか。お見それしました。それで、何にします?」
「何があるんだ?」
店の中を見回して聞いてみると、調理場の男がひょいっと魚の干物を持ち上げた。
「お勧めはこれですね」
「鰊か」
「留萠から来るんですよ」
「留萠でも取れるんだな」
「小樽の方が街が大きいからあっちの方が有名だろうけど、海は同じだからね。留萠との鉄道が走るようになったから、ここならそっちの方がずっと近い」
「では、それで。飯は大盛りにしてくれ」
「はいよ」
ほどなく目の前に煮付けた鰊とご飯を山盛りにした茶碗が出てきた。鰊をご飯の上に載せて口の中に一緒に入れる。ぎゅーっと甘辛い味が染み出てきて米に合う。かぱかぱと箸を進めてふと視線を感じて顔を上げると、調理場の男と目があった。にい、と満足そうに男が笑うので、月島はちょっと手を止め、もごもご口を動かしながら口の辺りを撫で回した。
皿の上の物をあらかた片付けると帳面を取り出して広げる。そこには、さきほど書き付けてきたラテン文字が書いてある。
Zauberkugel 606
文字列を見ながら、眉間に皺を寄せる。ロシア語ならともかく、英語などせいぜい土産物の風景画に書いてある地名だとか、舶来物の商品だとか、洋風を気取る店の看板に書いてある単語ぐらいしか分からない。月島は雑嚢から鉛筆を取り出して握り持った。
「これは、岩見澤の『ザ』だな」
Zaの下に「ザ」と書いてみる。uは歌志内の「ウ」だ。bは……そういえば、本屋に「bookstore」と書いてなかったか。でも次の文字はeだな。
「ザウベル……?」
突然、思い出して、口の中で音を転がしてみる。
「ざうべる、ざうばあ、つあぅばあ……?」
――汽車の中で卒倒したという書生は、この荷物のことを言いたかったのか……?
鉛筆の軸の後ろでこりこりと頭を書いてから、次の文字に取りかかる。
「kuは釧路の『ク』……gは――」
goldという単語が浮かんで、ふ、と動きを止める。それは一瞬だけで、すぐに呟いた。
「ということは、『ゲ』か?」
最後のlはランプのlだ。
「ざうべるくげる? ざうばあくげる?」
呟いてみたものの、分かるわけがない。そして、606という数字がこれまた中途半端だ。
「дюжина……打か?」
一ダースは十二で、五を掛けると六十だから、六〇〇は十二で割れるが。
「六余るな」
半ダースという単語もあるにはあるが、五〇・五ダースでは商品か何かの数量にしてはやはり半端だ。
頭を捻ってしばらく考えていたが、分からないものは分からない。
――鯉登中尉にでも訊いてみるか。あの人は英語ができるから。
そう思ったのを慌てて打ち消した。
――いや、そもそも、こっちは俺の仕事じゃない。
頭を振ってから店の者を呼ぶ。
「勘定を頼む」
「はいはい、ただいま」
代金を払って駅に戻ると、ちょうど汽車の近付く音がしてきた。