前略、兎が居ます。- 2 -

「つぁうばあ?」

鯉登が尋ねたので、月島は頷いた。

「意味が取れなかったので自信は無いが、そのように聞こえたそうです。報せに来たのは旭川駅の駅員であって直接聞いた車掌ではないので、さらに確実性が落ちてしまいますが」

今日は日曜日で、二人は四条通りの蕎麦屋に来ている。鯉登が話を聞きたがって、奢るからとやや強引に出てきた形だ。

「それで、その乗客は?」

「そこまで言ったところで気を失ったそうで、深川に着くなり担架で運び出して、今は医者の所だとか」

「それが昨夜というわけか」

「そうです」

鯉登は腕組みをして、ふうむ、と小さく唸った。

「昨日一日で色々あったものだな」

「確かに。汽車の中の行き倒れが土曜になったばかりの夜中、練兵場が兎だらけになったのが昼、国鉄から行き倒れの報せが来たのが一四時頃」

「朝には小さな物とはいえ着任式もあったしな。――それで、行き倒れが誰かは分かったのか」

いえ、と月島は(かぶり)を振る。

「名前こそ分かりましたが、身の回りの物が無いせいでどういう関係の者か分からない状況です」

「名前は分かっているのか」

「寝台券を買っていましたから、そちらは国鉄の方で分かったそうです。ただ、それが佐藤なものですから」

「佐藤か……」

お手上げとでも言う風に鯉登は天を仰いだ。月島も頷きながら、

「佐藤、斉藤、馬の――」

「食事時だぞ」

咎めるように鯉登が言うと、月島は素直に、失礼、と言葉を止めた。改めて鯉登が口を開く。

「ならあれか、師団で『佐藤正一』という名前に聞き覚えが無いかと照会があったのがその男か」

「そうです」

「正一もよくある名前だしなあ……」

腕組みをして鯉登が首を振り、月島も頷いた。

「結局、その名前に心当たりがあるという申し出は無かったと伺っています。師団内に行方不明になっている者はおりませんし、新任の方々も揃っています」

「それで慌ただしかったのか」

鯉登に向かって月島は頷き、少し声を低くした。

「実は、まずいことがあります」

「なんだ」

「その乗客が持っていた荷物、それが無くなったのです」

鯉登は目をやや見開くと、月島と同じく声を小さくした。

「師団に関係する乗客なら重要な物なのではないか」

「その可能性はあります」

「倒れた男自身は何と言っている」

「運び込まれてからまだ気がつかないそうです。意識を取り戻し次第、連絡をくれる手筈になっています」

「東京から来たのだと言ったな。第一師団の者か」

考える風に鯉登が言葉を切ったのに対し、月島は、いえ、と答える。

「車掌も医者も軍人のようには見えないと言っているそうです。どちらかと言えば書生風だとか」

「ますます分からんな」

鯉登は緊張を解いて腕組みをした。会話を一度()め、月島も少し身を乗り出していたのをまっすぐに戻した。

日曜昼の蕎麦屋は混んでいて活気がある。店員が蕎麦を置くなり客がかっ込み、入れ替わり立ち替わり人が変わって目まぐるしい。売薬が一人入ってきて、店内のせせこましい様子に背負った柳行李をどうしようかとまごまごしている。

「お、しばらくぶりだね」

店の主人の方から声を掛けたところをみると、この辺りを毎回行商に来ていて顔見知りなのだろう。

そっち(あんた)も、元気だったかい(たっしゃにしとったけ)? 行李(これ)、ここに置いていいかい()?」

「ああ、そっちの隅に寄せておいてくれれば」

聞くともなしにその会話を聞いていると別の店員がやっと注文を取りに来た。

「何になさいますか」

「私は天麩羅蕎麦だ」

「俺もそれを」

鯉登がうむうむと頷いた。

「ここの天麩羅はふかふかしていて旨いからな」

月島は旨いかどうかは気にしたことがないのだが、衣の中に身が(しっか)り入っていて食い出があるのは気に入っている。

「それで、例の兎百羽はどうだった。国鉄の者に心当たりは無かったのか」

「正確には九七羽でした。――寝耳に水だったようですね。厩舎の様子を見て言葉を失っていました」

気持ちは分かる。これで問題が解決すると思ったら兎とは別の行旅病人の件を持ち込まれた月島と同じく、解決しないかとやってきた師団で大量の兎を見せられたのだ。「何なんですか、これは」と言われて、内心何度目かの「俺が訊きたい」が思い浮かんだが、この時ばかりは同情した。

「近隣の着荷の確認をするとのことでした。量を考えると個人ではないでしょうし、届かなかった業者なり何なりからそろそろ問い合わせがあってもおかしくありません」

店の奥で電話が鳴り、二人はふと話を止めてそちらを向いた。注文でも来たのかと思いきや、店の主人が座ったばかりの売薬を呼ぶ。

「ええ?」

薬売りは、自分にかと言いたげに人差し指で鼻の頭を指し、店の主人が頷くと訝しげな顔で電話に出る。しばらく話した後で、

いや(なーん)いいよ(いっちゃ)いいよ(いっちゃ)、いま行くよ(来っちゃ)

受話器を置いた薬売りが、店の主人に声を掛ける。

旭川(ここ)居る(おるが)なら、すぐ来てくれない()かって。お得意さんだし行かなくちゃならない(行かんなん)。後でまた来るよ(っちゃ)

薬売りと蕎麦屋の会話をいつの間にか(じつ)と聞き入っていたらしい。鯉登に、どうした、と訊かれて、月島はそのことに気がつき、(かぶり)を振った。

「いえ……昔()たことのある場所の言葉かと思ったのですが、違いました」

柳行李を担ぎ直して店を出て行く薬売りを見送ってから、鯉登が言った。

「薬売りなら富山だろう? 越中富山の反魂丹」

ちょうどそこに蕎麦を持った店員がやってきて、調子よく続けた。

「鼻くそ丸めて萬金丹ってね。はい、天麩羅蕎麦二つ」

どん、どん、とそれぞれの前にどんぶりを置かれて、鯉登が文句を言った。

「蕎麦を出しながら言うことか。だいたい、萬金丹は伊勢だろう」

へへへ、と笑いながら、店員は、ごゆっくりと言い置いて次の注文を取りに離れていく。

「蕎麦でゆっくりしていたら伸びるだろうに」

店員の背に文句ともつかない口調で月島も言ったが、すぐに湯気を上げている蕎麦に向かって、箸を取り上げた。小気味の良い音を立てて蕎麦を啜り、もぐもぐと咀嚼数回、飲み込んでから月島は鯉登に訊いた。

「新任の方々はどんな様子でしたか? 着任式と言っても、異動者はそう多くなかったと伺っていますが」

苦労して蕎麦を啜り上げていたのを一旦止めて、そうだな、と鯉登は頷いた。

「今回は軍医部長殿が代わったから、一応、式の形を取ったのだろう。それに伴ってか、医官の着任が数名有った。必ず世話になる部署だ、懇意になっておいて損はないが、少々縁遠い。直接の上官になる訳ではないから、通り一遍の挨拶になってしまったのは否めないな」

そこまで言ったところで、鯉登は思い出したように笑いながら、

「真面目なお人柄だと思っていたのだがな」

誰の話かと不思議に思って月島が箸を止める。

「軍医部長殿ですか?」

「そうだ。着任するなり午後には豊原に出立されて今はご不在だが」

「樺太守備隊に?」

「ああ。衛生査閲だそうだ。――衛戍病院の状況もよくご存知なのだそうだ。旭川(ここ)はもちろん、函館も札幌も。事前に調べてからいらしたらしい。まあ、これは大隊の軍医殿からの受け売りだがな」

言いながら鯉登は海老天にかぶりつき、満足そうに頷いている。月島は少し眉根を寄せて考えてから、自分も立派な海老天に箸を伸ばした。

「聞いた限りでは熱心な方のように思えますが、どこが真面目でないと?」

「いや、真面目でないと言いたかったわけではない。練兵場が騒がしくなって早々に兎を見にお出でだっただろう? 案外、野次馬だと思ったのだ」

いの一番に飛んできた中尉にそんなことを言われる筋合いは無いだろうなと思いつつ、それを月島は口にしない。

「何か衛生上の懸念を覚えたからではありませんか? 昔あったじゃないですか、鼠がペストを運ぶからと役所が買い上げていたことが。兎にもそういう危険性があるのでは」

「鼠を役所が? 初耳だ」

「あー……。そうですね、鯉登中尉は鹿児島にお住まいの頃ですね。鹿児島ではペストが流行(はや)っていなくてご存知ないのでしょう」

言外に子どもだったろうし、という言葉があるような気がして、少々鯉登は口を尖らせた。そんな様子をちらりと見て、素知らぬ顔で月島が蕎麦を啜る。自分も蕎麦を口に入れてから、気を取り直して鯉登が言った。

「まあ、疫病を気になさったということは有り得るか。なんでも今度の軍医部長殿は医学界でも顔が広い(かた)なのだそうだ。いろいろと見識がおありでも不思議ではない」

だがなあ、と言うと鯉登は思い出したように笑みを浮かべた。

「兵卒が兎を追いかけ回しているのは面白かったな」

あんなにたくさん兎が居るのも初めて見たし、と楽しげにしている鯉登に向かって月島は渋い顔をした。

「笑い事ではありませんよ。軍医部長殿も赴任早々あんな光景をみせられて呆れられたかもしれません」

「だが、我々の落ち度では無いだろう?」

「貨車の連結間違いだとしか考えられません。到着することになっていたのは、薪と石炭で、それらはそれぞれで貨車の一両一両に満載されているのです。単なる荷物の積み間違いではなく、一両まるまる間違っていた」

「薪と石炭は過不足無かったのか?」

「そちらの数量に間違いはありませんでした。完全に兎の車両だけが余計だったのです」

うーん、と小さく唸って蕎麦をまた啜ってから鯉登は改めて月島を見た。

「お前も大変だな。一〇〇羽の兎やら、身元不明の病人やら、無くなった荷物やら。どうやって調べるつもりだ?」

九七羽です、と訂正してから熱のない調子で月島は言った。

「調べませんよ」

「え?」

驚いて動きを止めた鯉登を気にせず、月島はどんぶりを持って汁を飲み干すと、とん、と空になった器を机に置いた。

「私は(いち)炊事班長です。あの日、たまたま当番で着荷の検査をすることになっていたため、誤配の兎の件を国鉄に連絡することになりましたが、その後のことは関係ありません」

途端に鯉登がつまらなそうな顔をして口を開きそうになったので、月島は隙を見せずに言葉を継いだ。

「調査は然るべき部署の然るべき方がやるでしょう。兎の件は経理部が、行旅病人とその荷物は憲兵かどこかが」

「なんだ、つまらん」

「そんなに気になるのでしたら、それぞれ担当の方から進捗をお聞きになったらいかがですか」

「お前から聞くから良いんじゃないか」

どの辺が良いのかまったく分からんと思いながら、つまらん、つまらんと蕎麦を啜る鯉登を見守った。