馬鉄で戻って手早く報告をまとめ、主計将校の山本の元に行く。室内の人々は黙々と帳簿に向き合っており、算盤を弾く音と字を書き付ける音とが聞こえている。経理部は師団の中でもいつも少々異質に感じる。
月島の報告を聞くと、山本はううむ、と唸った。
「その渡辺が何も受け取っていなければ、その者に引き渡して終わりだったのだがな」
「はい。あと、三羽足りないのをどうにかしませんと」
「ああ、そっちは、まあ、どうにかなるかもしれん。というかな――」
山本は軽く渋面を作った。
「――増えた」
「は?」
「繁殖の時期だったのだ、つまり」
月島は中途半端に口を開けた状態で止まった。山本が「お前でもそのような顔をするのだな」と苦笑した。
兎を入れている厩舎に行ってみると、兵卒が何人も集まってきて、或いは木材を運び、或いは兎を抱きかかえて引っ繰り返しては左へ右へと持って行く。工兵まで来ていて、木材に鉋を掛けたり曲尺で線を引いたりして、厩舎に突き出すように小さな屋根が出来上がろうとしていた。
見物している将校も何人か居て、当然のように鯉登が居るのを見つけ、月島は溜め息を吐きそうになったのをぐっと押さえる。
「何をしているのですか」
「おお、月島」
こちらを見た鯉登は、月島を見るなり満面の笑みになった。
「進級が決まったというではないか。めでたい」
「ありがとうございます。――それで、これは」
「うむ、獣医殿が雄と雌を分けないと際限なく増えると言われてな。あと、一〇〇匹には狭いだろうと指摘されたのだ。――祝いだ、今晩、食事に付き合え」
「月曜ですよ。私は営内で食事です。――それで、場所を広げているのですか」
「そうだ。あの工兵、元々大工なのだそうだ。さすがに見事なものじゃないか。――新任の時の教育掛がやっと進級するから、ぜひとも祝いたいと頼んで外出許可は取ってある」
月島は、ぐ、と口を閉じた。沈黙した月島に対して、鯉登の方は笑みをますます深くした。
「それに、結局、兎のことを調べるように命じられたのだろう? 話を聞きたい」
そうだ、昇任を知っているなら、月島が調査を命じられたことも知っていておかしくない。月島は一旦天を仰いでから観念して訊いた。
「食事はどこで?」
「こないだ行った蕎麦屋にしよう。夜になると酒も出て、出てくる食事も変わるというではないか」
我が意を得たりと満足そうに頷きながら鯉登が提案するのを、何も考えないようにして諾した。
馬鉄でごとごと駅の方に出て、四条通りに向かう。店に着いたのは日の入りの頃で、夕焼け空に辛うじてまだ日が残っていた。
なあ、あれ、と鯉登が顎でしゃくるのでそちらを見ると、前に見かけた売薬が上機嫌で酒を飲みながら店の者と話をしている。
「今日は食事にありつけたようだな」
「そうですね」
こないだ同様混んでいたが、夜の様相は昼の慌ただしさとまた違う。酒が入るとついつい声が大きくなるもので、がやがやと騒がしい。売薬の隣の机が空いていたので、二人でそこに掛け、鯉登が手を上げて店員を呼んだ。
「一番いい酒をくれ。祝いなのだ」
「一番とは難しい。でも、そうですね、高砂なんてどうです? ほら、一条通りに何年か前に新しい酒蔵増やした」
「あれか? 角上の屋号の入った」
月島が言うと、店員が大きく頷いた。
「それです、それです。なかなか良いと思ってるんで」
鯉登が、うむうむと頷き、
「では、それを頼む」
「燗をつけますか」
「ああ。あと、料理も適当に見繕ってくれ」
しばらく待って徳利とぐい呑みが来たところで、さっと鯉登が徳利を掠め取り、今日はお前からだと言いたげに、月島の方に向けた。月島も遠慮するような真似はせずに盃を差し出す。
「おめでとう、月島。まずは一献行ってくれ」
「はい」
く、と盃を干して鯉登の方を見ると、鯉登はその様子を感慨深げに眺めていた。思わぬ様子に、月島が何事かと怪訝そうに眉を寄せると、鯉登がしみじみと言った。
「曹長だなあ」
「はい」
「本当は……本当は、私が進級するより先にお前が上がっても良いはずだった」
「それは、無理でしょう」
月島は見えるか見えぬかぐらいの笑みを口元だけに作った。今生きていることも、軍曹のまま軍に残っていることも、ほんの僅か何かが違っていただけであり得なかったという自覚はある。
ほんのりと湿っぽくなりかけた時に給仕がやってきて、二人の前に小鉢を置いていった。
「お、ふきのとうか、これは」
覗き込んだ鯉登に向かって、給仕がにこにこ愛想良く頷く。
「はい。酢味噌で和えました」
「なかなか美味そうだ」
食べてみると、程よい酸味が酒に合う。ふきのとうを皮切りに、ギョウジャニンニクの天ぷらだの、薄切りの牛肉を焼いたのだの料理が次々に並べられ、二人はしばらく咀嚼するのに忙しい。その間に差しつ差されつ盃を交わす。鯉登が満足そうにしているのを眺めていると、ふいにその目がこちらを向いて、口元にニヤリと笑みが浮かんだ。
「さて、月島、そろそろ教えてくれ」
「兎の件ですか」
当然だ、と言いたげに鯉登が頷くので、月島は手早く深川駅での貨車の連結と、荷主と受取人の話をした。聞き終わるなり、鯉登が眉根を寄せる。
「待て待て、その渡辺というのが兎を受け取ったというなら、今師団に居る兎は誰の物なんだ」
「それを確認したいので、今度は渡辺という人物を探そうと思っています」
「その渡辺は怒った様子で出て行ったきり、か。やはり、奥田という山師を探しているのだろうか」
兎でどうやって騙したんだろうなあ、と鯉登も月島と同じような疑問を口にした。月島は、手を止めて箸置きに箸を置いた。改まった様子を見て、鯉登がぴんと背筋を伸ばす。
「どうした」
「旭川駅からずっと考えていたのですが。――渡辺は本当に騙されたと気づいて出て行ったのでしょうか」
「確かに、それは国鉄職員の類推でしかないが」
何か考えがあるのだろうと、鯉登が思案顔の月島を注視する。月島は、ちろっと視線を上げて鯉登を見た。
「早過ぎないですか」
「何が?」
「たとえば、兎で儲かると言われて兎を買います。騙されたと思うのは、売れないと分かってからでしょう。受け取った翌る日では――」
「売る暇がない、か」
鯉登が空になった徳利を給仕に振ってみせる。まもなく届いた追加の徳利を、今度は月島が取り上げた。鯉登が盃を差し出しながら口を開く。
「なら、渡辺とやらはどうして出て行ったのだ」
と、と、と月島が酒を注ぎながら、
「見つけないことには分かりません。情報が出揃わないままあれこれ考えるのは無駄骨です」
「やはり渡辺探しか。面倒なことになったな」
「畑があって牛を飼ってなら、ずっと家を空けるわけには行かないでしょう。留守を預かるという使用人に、渡辺が帰ってきたら知らせてくれないか頼もうと思っています」
「『知らせてくれ』で思い出した」
鯉登が少し声を高くしたので、月島は何事かと眉を上げた。
「列車の中で倒れた男はまだ回復しないのか。気がついたら医者が師団に知らせをくれるのだろう?」
「そっちは私の領分ではありませんよ」
「憲兵か、やはり」
「そのようです。旭川駅で――」
言いかけて、慌てて月島は口を噤んだが、聞き逃す鯉登ではない。
「おい」
「はい」
「何か知っているな?」
「あー……」
思ったより酒が過ぎている。口が滑った。鯉登は目を爛々と輝かせて、強請るような視線を月島から離さない。はあ、と大きく息を吐いてから、腹を括って月島は自分の帳面を取り出した。例の「Zauberkugel 606」と書かれた頁を開いて鯉登に向けて机に置く。
「英語ですか?」
鯉登は少し眉根を寄せて思い出そうとしている風だったが、すぐに首を振った。
「英語ではないと思う」
顔を上げた鯉登が物問いたげに月島を見る。
「その病人が運んでいた荷物の木箱にそれが書かれていたそうです」
鯉登が身を乗り出し、辺りを憚るように声を潜める。
「こんな所で話して良いことなのか」
月島は慌てず頷いた。
「この文字が書かれていた荷物というのは、前に言っていた寝台の半分ほどもある長さの箱なのです。そして、字も別に小さく書かれていたわけではなかった」
少し考えて、ああ、と鯉登が得心いったように声を立てた。
「隠せるような大きさの物ではなかったし、現に隠していなかった」
「ですから、秘密の物では無いのだと判断しました」
「なるほどな」
鯉登が納得したのを見計らって、月島は深川で意図せず聞かされた病人が運び出された際の状況と、つい訊いてしまった病人の荷物の件をかいつまんで説明した。
「木箱は相変わらず行方不明、鞄は釧路から戻ってくるところ、ということか」
「そうなります」
鯉登が改めて月島の帳面に目を落とす。
「しかし、何語だろうな。ラテン文字を使う言語は多いからな」
鯉登が腕組みをした瞬間、急に横から声を掛けられた。
「それは、ドイツ語ではないですか」
驚いて二人が横を見ると、酒が入って赤くなった顔をした売薬が、見えたので、すいません、とちょっと頭を下げた。
「ドイツ語?」
月島が訊くと、ええ、と売薬が頷いて、
「うちの倅が県立薬学専門学校というとこに行ってるんです」
「あんま」
「いっとんが」
鯉登と月島は、それぞれに意味の取れない単語を繰り返したのだが、薬売りは通じていると思ったのか、そうです、そうです、と誇らしげな顔をしながら頷いた。
「今、医学っていうのは普魯西国が最先端なんですってね。それで、息子がドイツ語勉強しているんですけど」
そこで薬売りは二人の方に身を乗り出して、月島の帳面の一点を人差し指でとんとんと指し示した。
「息子が持ってる教本の最初の方に、このkugelってとこ、これが『球』だって書いてあったんです」
「たま?」
「こう、丸い」
「ああ、球か」
英語ならボールだなあと鯉登が帳面の文字を見直している向かいで、月島が売薬に向かって頭を下げる。
「ありがとうございます。ドイツ語の線で確かめてみます」
満足そうに頷いて薬売りは自分の椅子に腰を落ち着け、そのまま蕎麦を啜りだした。鯉登が目をぱちぱちさせて、月島? と小声で疑問の声を立てたが、月島の方は気づかずに鯉登に向かって話し出した。
「ドイツ語なら、将校の中に読める方もいらっしゃるのでは」
気を取り直して、鯉登が頷く。
「ああ、何人か知っている。単語一つのことだ、これぐらい教えてもらえるだろう。――前の部分はどういう意味だろうな」
鯉登がZauberの部分を触っているのを眺めながら、月島はゆっくり口を開いた。
「弾丸の意味もあると思いますか」
「何?」
「日本語の『たま』には鞠のような意味もありますが、弾丸の意味もあります。ドイツ語もそれは有り得ると思いますか?」
「ううむ。英語ならballとbulletだが……。分かった。明日にでも読める者に訊いてみる」
「お願いします」
そこまでで調査の件は一旦切り上げ、後は締めの蕎麦まで食べ上げた。