起床喇叭と共にパチリと目を開け、きびきびと軍服を着込む。同室の佐々木も身支度を調え、扉の方を見るなり、ぱっかりと口を開けた。
「どうした?」
「木箱、が」
佐々木はZauberkugelと大書した木箱を指さしている。狭いせいもあるだろう、木箱はがたがた揺れている。
「なんだ、昨夜は気づかなかったのか。いくらなんでも酔いすぎだ」
「そうじゃなくて! 動いてますよ?!」
「あー」
言葉を失っている佐々木を見て浮かんだのは、面倒くさいのひと言である。
点呼喇叭がパララーパララーと鳴り響き、月島はふう、と一旦溜め息を吐いた。
「そうだな、点呼が済んだら、病人の木箱を見つけたと司令部に連絡をしてくれないか。俺はこいつを獣医殿の所に持って行く」
「獣医??」
佐々木は全く意味が分からないという顔をしている。無理もない。中身を見せてやろうと蓋の縄に手を掛けた時、急ぎ足で近づいて来る軍靴の音がした。昨夜のうちに連絡したこともあって、てっきり司令部からの伝令かと思いきや、飛び込んできたのは、
「月島ぁ!」
「月島軍曹!」
「鯉登中尉殿。青柳二等軍医殿。点呼はどうしたのですか」
自分より年下の将校二人を窘めると、青柳が急いだ口調で言った。
「それを持って、すぐ来てくれないか、月島軍曹」
「軍医部長殿が探しておられるというのだ」
鯉登の方は、どちらかといえば期待に目を輝かせている。
「軍医部長?」
――獣医ではなく?
月島は、すんとした表情で疑問を胸の内に押し込め、はい、とだけ返事をして木箱を抱え上げた。
軍医部長の机は流石に立派だった。濃い色に塗られた木製の机の上に、旅行鞄が一つ置いてある。軍医部長は木箱を携えた月島を見ると、傍に持ってくるように言った。蓋を開けると、兎五匹が昨晩と同じくもぞもぞ動いている。
「おお、無事だったか」
兎は鼻の辺りが爛れていて――これが渡辺が「病気」病気と言った所以だろう――あまり無事のようには見えなかったが、軍医部長はそう言うと、兎を用意してあった五つの籠にそれぞれ移し替えた。木箱よりはよほど広くなって、兎はふんふんと籠の中を嗅ぎ回っている。ここが安全なのかどうか見極めようとしているのだろう。
青柳が慎重に兎の籠を壁際に並べると、軍医部長が口を開いた。
「これはな、東京で研究所に勤務している友人から、使いの者が運んで来るはずだったのだ」
「兎をですか?」
「そうだ。本当は、着任した日に、その使いが到着するはずだった」
青柳も横で頷く。
「大荷物の使者が来るとは伺ったので、私も何度か道に出てそれらしい者が来ないかと見ていたのだが、一向に来なくてな。何のことは無い、東京からの使いは深川で発作を起こして医院に運び込まれていたのだ」
青柳が着任式の日に道路できょろきょろしていたのは、そういうわけだったらしい。
「そんなこととは知らずにやきもきしていたのだが、午後に樺太に出立することは決まっていたから、出て行くしかなかったのだ。私が出てから倒れた者の照会があったとは聞いたが、私も書生を寄越すとしか聞いておらず、名前を知らなかったのだ」
それが分かっていれば頼んでいくこともできたのだが、と軍医部長は頭を振った。鯉登が壁に並んだ籠を見てから、軍医部長に視線を戻す。
「そもそもこの兎は何なのですか?」
「実験動物だ」
「実験動物」
鸚鵡返しに鯉登が訊くと、どこから話したものかな、と軍医部長は椅子に深く腰掛けた。
「秦という医者が居る。ペストの防疫に従事し、ロシアとの戦争でも野戦病院で患者の治療に当たった伝染病の専門家で、ドイツにも留学した秀才だ」
そこで軍医部長は人差し指を、す、と立ててみせた。
「さて、この秦医師がドイツで共同研究をしていた研究者、その方は医学の大家で一つの着想を持っていた」
「着想、ですか」
「病の原因となる微生物にのみ効果を発揮し、人体には害を及ぼさない魔法の弾丸」
軍医部長はそこで、立てていた人差し指で標的にでも当てるように、トン、と机を突いた。理解が及んで、鯉登が思わず声を上げる。
「それが魔法の弾丸」
「そう、そして、最初に発見された〈弾丸〉がこれ」
旅行鞄から軍医部長がアンプルを一つ手に取った。
「製剤 606。またの名を『エールリッヒ・秦 606』。すなわち、アルスフェナミン、商品名サルバルサンだ」
「サル……?」
口籠もった鯉登に、青柳が説明を加える。
「梅毒のための薬だ」
鯉登と月島は顔を見合わせた。鯉登が声に出さずに、突撃一番、と口を動かすと、月島は、すん、と表情を消して断固として無視した。軍医部長は二人の様子に小首を傾げたが、二人が遣り取りなど何も無かったように自分の方を向いたので、気を取り直して説明を続けた。
「とは言え、サルバルサンにはいくつか欠点がある。例えば、注射でしか投与できないのだが、これが経口薬になれぱ格段に扱いやすくなる」
「医者がいなくても患者が飲めるようになるからだ」
青柳が説明を加える。うむ、と頷いた軍医部長が続けた。
「また、残念ながら毒性が皆無とはいかないのも欠点の一つだ。私の友人は秦医師と縁があってな。そういった改良研究を行いたい者何人かでアンプルを分け合い、より良くしようとしていたというわけだ」
月島は机の鞄を指さした。
「その鞄は、もしかして深川で倒れたという方のものですか」
「そうだ。今朝、国鉄から届いた。このアンプルと一緒に私への書状も入っていたため、やっと事情が分かったのだ」
「使いの方は今どうされているのですか」
「やっと話ができるようになったようだ。容体も安定しているようだし、衛戍病院に移す手配をした」
「それは良かった」
目を転じて月島は壁際の兎を指し示す。
「つまるところ、その兎は梅毒に掛かっているのですか」
「そうだ」
「……兎から感染るということは――」
「心配するな。人に感染った例はついぞ聞かない」
軍医部長は快活に笑った。
「もしも症状が出たならすぐに言え。真っ先に診てやろう」
そう言って、軍医部長はアンプルを振って見せた。
空の貨車を連結したごく短い汽車が練兵場に到着した。貨車の戸が開けられると、待ち構えていた兵卒たちが、兎の入った鉄柵附きの木箱を慎重に積み入れる。大きな木箱四つに分け入れられた兎たちは、ふんふんと落ち着かなげに動き回っている。
集まった兵卒たちは、国鉄職員が貨車の戸を閉めて封印するのを名残惜しげに見ている。その筆頭が佐々木伍長で、兎の様子をじいっと見詰めている。どうやら、仕事の合間にせっせと世話をしていたらしい。
「たかだか数日しか居なかったじゃないか」
月島が言うと、どことなくしょんぼりと炊事掛伍長は答えた
「そうなんですが。その数日で慣れたのもいて、私を見ると近寄ってくる奴も居たのです」
「情が移ったか」
佐々木は、小さく溜め息を吐いた。
「知ってます? 兎の赤ん坊は最初から毛が生えててふわふわ可愛いのですよ」
「そんなものか」
気のなさげに答えた月島のことを、佐々木は、信じられない、という顔で見た。それから、兎の貨車の方に視線を戻すと、もう一度溜め息を吐いた。
兵卒たちが離れると、汽車が汽笛を鳴らして動き出す。それを見送った佐々木が、汽車の音も遠くなった頃に月島の方を振り向き、しみじみ言った。
「しかし、良かったです。軍曹殿にお変わりなくて」
「何の話だ。『お変わりなく』などと言われる筋合いはないぞ。そもそも毎日会っているだろう」
「だって、軍曹殿、箱に話しかけてたじゃないですか。気のせいかと思ったら、自分も見た自分も見た、ぶつぶつ箱に話しかけてたって兵卒たちの間で専らの噂で」
月島は思わず黙り込んだ。そういえば、木箱の中身が兎だったことは結局言っていない。兵卒たちも当然知らない。
「あー……」
説明しようかどうしようかと一瞬迷ったが、
――面倒くさい。
月島は改めて口を噤み、軍帽を目深に被り直して雪を踏みながら兵営の方へと歩き出した。