次の日は朝から渡辺とやらの住居に出かけるつもりだったのだが、売掛金を回収しに来た商人やら、次の食材の仕入れ値の交渉やらでその暇がなかった。来訪者が途切れた頃にはもう昼で、喇叭の音がして間もなく二等卒が配膳にやって来る。
「月島軍曹殿。新しく大隊附きになった青柳二等軍医殿が、昼が終わった頃に下士室を訪れたいとのことであります」
「新しく、とは土曜に着任された?」
「はい」
「こちらから医務室に行くのではなく?」
「はい。軍への配属は初めてだそうで、聯隊の様子を把握したいとのことでした。毎日少しずつ見て回っておられて、昨日は我々の部屋にもいらっしゃり、いくつか指導を受けました」
「そうか」
兵卒の大部屋でそれなら、炊事掛下士室ならなおさら確認しておきたい事項が有るのかもしれない。何か用意しておくべきことはあるだろうかと考えていると、向かいの机から佐々木伍長が、軍曹殿、軍曹殿、と話しかけてくる。
「何だ」
「覚えていませんか。着任式の日に道路に出てキョロキョロしていた人ですよ。あの、若そうだと言っていた衛生部の将校殿」
「あー……あの方か。――お前はもう会ったのか?」
「廊下を歩いておられた時にすれ違っただけですが」
「そうか。――分かった、お待ちしておりますと伝えてくれ」
「はい」
二等卒を下がらせて間もなく午砲が建物を揺らした。今日はなにかと用事が入る。そういう巡り合わせの日というのはある。これは外出は無理かもしれんなと思いながら、田舎汁に手を付けた。
軍医がやって来たのは、二人の昼食を当番兵が下げて間もなくで、見ていたかのような頃合いだった。案内も付けずに入ってきたのは、ややふっくらとした丸顔の男である。縁の太い眼鏡を掛けた軍医は、二人が礼をすると、にこやかに笑みを浮かべた。
「第二大隊に配属になった青柳だ。衛戍病院には居たことがあるのだが、大隊附きは初めてでな」
「軍曹、月島です」
「伍長、佐々木です」
「月島軍曹と佐々木伍長か」
そこで青柳はぐるりと部屋を見回した。
「ここが炊事掛の下士室、ということになるのだな」
「はい。我々はここで事務を執っております」
月島が答えると、青柳は戯けた調子で言った。
「軍曹という者には挨拶しておこうと思っていたのだ」
月島が黙って眉根を寄せると、青柳はにやりと笑う。
「私は仙台の医専を出たのだが、委託生の頃、第二師団の歩兵連隊で教練を受けたのだ。そこの軍曹にだいぶ絞られたのが今でも忘れられなくてな」
「仙台なら、第四聯隊ですか」
「さすが、軍人なら聯隊の配置は常識か」
「月島軍曹殿は、第二師団に居たことがあるのです」
横から口を挟んだ佐々木に無言で視線をやると、佐々木は首を竦めた。
「ほう、下士は師団間を移らないものかと思っていた」
声を掛けられ、再び青柳の方を向く。
「いえ、私が第二師団に居たのは二十七八年戦役の頃ですし、配属は新発田でした。その後、第七師団が新設されることになったために上官と共に異動したのです」
「なるほど、当時の情勢ゆえの例外のような物か」
「はい。当時は北海道の人口が少なかったためと聞いています」
「明治二十七八年戦役ということは、随分と軍歴が長いのだな」
「恐れ入ります」
「月島軍曹殿は歴戦の兵士で、曹長の内定も出ているのです」
また横から佐々木が口を出すので、とうとう月島は声を出して窘めた。
「佐々木」
再び佐々木が恐れ入ったように首を引っ込める。新任軍医は下士同士のやりとりを面白そうに見ている。月島は青柳の方に向き直り、口を開き掛け、そこで止まった。青柳はどことなく気安い雰囲気を持っていて、佐々木がさっきから度々ちゃちゃを入れるのも分かるのだ。ならば、訊いてみても。いや、しかし、自分の業務からは逸脱していて――
「どうかしたのか、月島軍曹」
「あー……」
儘よ。
「青柳軍医殿は当然ドイツ語は分かりますよね」
青柳が不思議そうにしながら、
「今時医学を学ぶとなると基本だからな」
月島は引き出しから自分の帳面を取り出して、青柳の前に広げた。
「これはドイツ語でしょうか」
「Zauberkugel 606?」
見るなり、青柳が流暢な発音で読み上げる。
「お分かりですか」
「ああ。確かにドイツ語だ」
「意味を教えていただけませんか」
顔を上げ未だ不思議そうにしながら、医官は言った。
「魔弾。独国の民話に曰く、必ず命中する魔法の弾だ」
月島は難しい顔をして黙り込んだ。
厩舎を占領している兎たちは、急造りの小屋の中で思い思いに過ごしている。駆け回るようなのはおらず、大きな後ろ足全体を地面に押し付けるようにのそりのそりと移動している。兎たちの動かす耳やら、もそもそと何かを食べているらしき口やら、ひくひくと動く鼻やらを月島は黙りこくって眺めている。
「ここにおったのか」
不意に後ろから声を掛けられ、視線を聯隊の建物の方に向ける。
「鯉登中尉殿」
歩み寄ってきた鯉登は面白げな調子で話しかけてくる。
「お前のせいで司令部が色めき立っていたぞ」
月島は溜め息を飲み込んだ。
「魔弾の件ですか? ならば、私のせいというのは些か筋違いでしょう。最初に報告を上げたのは正規で調べている部署でしょうし、あなたも同じ報告をしたと聞いています」
「私は報告したと言うより、司令部付きの将校に例の単語を訊いたせいだな」
「なら、あなたのせいじゃないですか」
鯉登はほんのり胸の内だけで笑った。
実は、司令部の一部では『魔弾』の単語に、もう何年も前の金塊事件を持ち出して、挙げ句に鶴見の名まで出てきていたのである。当然そうなると、当時鶴見の右腕と目されていた月島が目を付けられる。しかし、魔弾の報告は月島自身も上げていたし、自分に至っては金塊事件の際にはどこまで事の中枢に居たのか分かりもしない青二才で、月島軍曹が知らぬなら鯉登を問い詰めても仕方がない、と秘密裏に収まったらしい。
勝手にそのように収まったことも、そう収まったことを鯉登に教えてくれる将校がいたことも、着実に地固めができているようで嬉しかったのだ。
鯉登は聞き知った内情を口にせず、気安い調子で言ってみた。
「さて、どうする。有坂閣下にでも心当たりが無いか訊いてみるか?」
「師団司令部の方々を飛び越えてですか? 悪手でしょう」
月島が生真面目にそう言うことは予想していたのだろう、鯉登も軽く頷いた。
「ん、まあ、私もそう思わんでもない」
「だいたい、連絡を取るとしたら電話でしょう? 有坂閣下と秘密裏に会話をするのは無理です」
言われて、少々、思い出す風に鯉登は視線を上に向けた。
「あー、それはそうだな」
「それに思うのですが」
「うん?」
「陸軍の兵器開発だとしたら、開発時の呼称は日本語でつけませんか?」
「それは私も思っている。ただ、普魯西や墺太利からの兵器という線を外せないでいる」
「旭川に? 第一師団ではなく?」
「各師団に渡されるとか、寒冷地用の何かかもしれないだろう?」
月島は懐疑的に首を振った。
「いわば『秘密兵器』と大書した箱を持って東京から旭川まで汽車で来るなど、馬鹿げています。ドイツ語の分かる人間は少ないかもしれませんが、それだけの長距離を移動すれば、医師の一人、学士の一人いくらでも会うでしょう」
月島は呆れた調子を隠さない。
「では、お前は中身を何と見る」
鯉登に問われ、月島は両手を一定の幅に広げて見せた。
「長さ七十センチ、幅三十センチ。木箱はだいたいこれぐらいの大きさです」
うん、と素直に鯉登が頷く。
「兎五羽。入ると思いますか」
「兎?」
思わず、鯉登は柵の向こうを動いている兎の方を見た。月島もその横に並んで兎を見る。
「現れた荷物が一つ。無くなった荷物が一つ」
「現れたのが師団に届いた貨車で、無くなったのが深川で倒れた病人の木箱だな?」
「入れ替わったのなら、帳尻が合う」
「中身がどちらも兎だったから間違えたと?」
「はい」
鯉登が横の月島を見下ろした。
「しかし、深川駅の帳簿には『佰』とあったのだろう?」
「そう職員は言いました。しかし、インク擦れが酷くて、私は最初『伍』だと思ったのです」
「お前の方が正しかったというのか」
「ええ。それに、帳簿には前の頁の最後に木箱の荷姿が書いてありましたが、中身も行き先も書いてはありませんでした。その一方、次のページには中身と行き先」
「ああ、つまり、一つの荷物のことだったと言いたいのだな」
「はい。それで、説明が付くことも多いのです。夜勤の者の言う『書いていない』は――」
「百匹などとは書いていない」
言いたいことが分かって、興奮した調子で鯉登が後を引き取る。
「旭川で兎を受け取った渡辺某のことも考えてみました」
「お前の仮説だと、兎を五匹受け取ったことになるな」
「はい。数が違ったとはいえ、兎は届いた。となると、駅で問い糾してもしょうがない。手配をした奥田に事情を訊こうとするでしょう」
ふむ、と鯉登は口元に右手拳を考えて考えるそぶりになり、
「ところが、奥田は雲隠れしてしまった」
「渡辺は、どういうことだと使いを遣ります。使いは奥田を捜し回ってから、『もぬけの殻だった』とか『引っ越したようだ』とか報せに帰ってくる」
「それで、五匹程度で誤魔化す気か、とかんかんになって、か」
「有り得ませんか?」
「無いことも無いな。――だがな、兎が魔弾なのか?」
鯉登が疑問を呈してみせると、月島は僅かに肩をすくめた。
「もともと違う物が入っていた箱を転用したのではありませんか」
「しかしなあ……。元は何が入っていたというのだ。魔弾だぞ。しかも、ドイツ語だ」
「商品の名前など、意味が分からないことはいくらでもあるじゃないですか。――『突撃一番』とか」
鯉登は一瞬目を剥いたが、すぐに吹き出した。
「お前はそういうことを口にしないのかと思っておった」
はあ、と気のない調子で月島が答える。その時だった。
「月島! ――と、鯉登中尉殿」
後ろを振り向くと、月島と同じ下士外套を着た男がやってきて、鯉登も一緒なのに気づいて慌てて敬礼した。鯉登が鷹揚に頷き、月島もひらひらと手を振ってやる。
「大丈夫だ、菅原。仕事の話をしていたわけじゃない」
言われて、やってきた下士は安心した風に頷き、月島に話し掛けた。
「そろそろ出かけよう。皆、主役をお待ちかねだ」
「外出するのか」
月島自身もきっちり外套も着込んでいることに今更気づいて鯉登が訊くと、
「はい、月島の進級祝いに盛り場に繰り出そうという寸法です」
月島が頷く。
「分かった、すぐ行く」
「正門で待っている」
菅原がそう言って再び聯隊兵舎の方に戻って行くと、月島が鯉登を見上げて説明した。
「下士同士の集まりですよ。これを口実に花街に行きたいというのが本音でしょうが」
「お前の祝いならさぞ人が集まるだろうな」
「まさか。内々の集まりですよ」
それには答えず、鯉登は揶揄うように言った。
「『突撃一番』は持ったか?」
月島はすんと表情を消し、無言で歩き出した。
我ながら碌でもないことを口にした。
呼びに来た菅原の後を追うように聯隊正門に行ってみると、思っていたより人数が多く、週番以外の下士がだいたい集まっているのではないかという勢いだった。これだけ多ければ、中島以外に酒宴ができるような店は無い。日暮れにはまだ早く、この際だ、歩いて行こうと誰かが言い出して、ぞろぞろ歩いて行く。途中、馬に乗った将校の一団が師団司令部の方に向かうのに行き当たり、皆で立ち止まって敬礼する。
「あまり見かけない方だな」
月島の横でこっそり菅原が言うので、軍医部長殿だ、と教えてやる。
「新任の?」
「着任の日にすぐに樺太に出張に出かけられたから、お前が見かけていないのも無理は無い」
「お前はよく知っていたな」
「兵卒が練兵場で兎を追いかけ回していたのを見に来ておられてな」
月島が言うと、菅原はにやにやと笑って、
「兎か――つくづく貧乏くじを引く奴だな」
月島がじっとり睨み付けると、将校の馬の列が行ってしまうのを見計らって、菅原がぽんぽんと月島の肩を叩いた。
「まあ、今日は憂さを忘れてぱあっとやろう。なんせ、お前の祝いなんだから」
中島の大門に着くと、座敷の大きな店が既に手配されていて、日のあるうちから酒宴が始まる。佐々木伍長が進行を買って出て、月島が挨拶に毛の生えたのぐらいの礼を述べると、酒が手早く回された。その後は、いったい何の集まりだったのかも忘れるほどに飲み騒ぎ、一番年長の月島は、ほんのりと口元に笑みを浮かべながら同胞を見守った。
酒宴がいったん終わり、花街に繰り出す組と場所を変えて飲み続ける組とに分かれるのを余所に、月島は兵営に帰ることにする。
「なんだ、お前の祝いなのに」
菅原が言うのに手を振ってみせる。
「それに託けて騒いでいただけだろう」
なんだ、こいつ、祝い甲斐が無いな、と菅原も笑いながら殴りかかる真似をする。躱しながら、月島は軍帽をかぶり直した。
「あんまり羽目を外すなよ。点呼に遅れるな」
「分かってる、分かってる」
離れて行く一団を尻目に、月島自身は常盤橋を渡って広い通りを歩き出した。程よく酒の回った体は良い具合に温かく、夜風の冷たさが心地好いほどだ。先ほどまでの酒盛りの喧噪を思い出しながら、明かりの多い通りを歩き、そろそろ旭橋への坂道を上ろうと言う時だった。
路地の方からガタンとかバタンとか戸板の外れるような音がして、その拍子に屋根雪がドサドサと落ちる音がした。一気に酔いが醒め、音の方に足を運ぶ。酔っぱらい同士の喧嘩なら放っておくところだが、界隈の掘っ立て小屋じみた家から男が一人転び出てきて、それに向かって仁王立ちになった男が、一方的に殴りかかろうとしている。
「胡散臭い奴だと思っていたが、あれじゃ前金分にもなりゃしない! しかも、病気持ちときた!」
「待て、待ってくれ!」
地面に尻餅をついた男が身を守るように仁王立ちになっている男に向かって右手をかざす。
「数?! 病気?! 何の話だ! 数は間違いなく揃えたし、俺が見た時は普通だった。捕まえてもらったのを江別に集めて、こんな雪もまだある時期に百羽も集めるのは骨だったって、思ったより金取られたぐらいだ!」
――百羽?
「自分の目をかっぽじって、よく見てみろ! これのどこが百羽なんだ!」
男が地面に置かれていた木箱を開けて男に見せつける。
「なんだ、その兎は! 俺はちゃんと貨車を仕立てて――」
「待て待て、兎だと?」
走り込んだ月島が後ろから呼びかけると、拳を振り上げていた男が、機敏に横に飛び退き、月島も尻餅をついている男も視界に入るように位置取りをした。その傍らに木箱がある。
――Zauberkugel。間違いない。
「止めないでくれ、兵隊さん。あんたには関係ない話だ」
「いや、それがな。関係はあるんだ」
落ち着かせようと極力静かに月島は告げた。
「兎が百羽ほど師団に届いている」
「しだん、と言うと……第七師団、ですか?」
呆けたような声を出し、息巻いていた男が拳を下げる。そちらの動きに気をつけながら、月島は地面に転んでいる男を立たせ、逃げないように然り気無く腕を捕まえた。
「奥田宇吉だな」
「は、はい」
「そして、そちらは渡辺昌範さん、で合っているか」
「はい」
奥田は媚びるような笑いを浮かべている。渡辺の方は少しは落ち着いたのか、話を聞く気になったらしく、月島の出方を見守っている。
「少なくとも、この男は兎の手配はちゃんとしたようだ。貨車が到着しなかったのは国鉄の手違いだ。そっちの木箱の兎が――」
と視線を移した時、蓋の開いた木箱から白い兎が出てきているのに気付いて、月島は慌てて怒鳴った。
「捕まえろ!!」
空気を震わす怒声に家々から人が顔を出し、奥田も渡辺も思わずといった調子で兎を追い回す。幸い、兎が走り出す前に五匹とも捕まえることに成功し、木箱にもう一度戻すと、月島は厳重に蓋を縛った。
人間、同じ事を一緒にすると何故か連帯意識が出るもので、三人は揃って息を吐いた。ひと息吐いてから、月島が渡辺の方を向く。
「国鉄も我々もあんたを探していたんだ。この木箱もな。こっちが師団の物だ」
足先で雪の上に置かれた木箱を示す。
「申し訳ありません。そんなこととはつゆ知らず」
確りした謝罪を寄越す渡辺は、本来は荒っぽい質では無いのだろう。奥田はそんな渡辺を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「俺のせいじゃなかっただろうが」
「そもそもは、お前が取引が終わりきらないのに行方を晦ますからだろうが」
月島が睨み付けると、奥田はぐ、と黙り込んだ。この辺りは猥雑で日雇いの人足も多く、人の出入りが激しい。だから紛れたつもりだったのだろうが、だからこそ渡辺はこの辺りが怪しいと思ったのだろう。
「師団にいる兎は、国鉄に言って、改めて旭川駅に運ぶように手配する。あんたは、駅からの手配を付けてくれ。国鉄の手違いだ、前の時に人足だの何だの雇っていたなら、費用は国鉄に言ってくれ」
月島がそう言うと、渡辺がこっくり頷いた。
「分かりました。ええと、」
渡辺が月島を見て少し口籠もる。
「月島だ。歩兵第二十七聯隊軍曹、月島だ。国鉄の方の担当は阿部という旭川停車場の駅員だった」
「月島軍曹さんに阿部さんですね。そうとなれば、私はこれで失礼します。こいつを探し回って時間を取ってしまいましたが、あまり家を空けられませんから。――この木箱はよろしくお願いします」
月島は思わず、ぐ、と口を噤んでから、
「……ああ、そうだな……」
渡辺が丁寧に腰を折って挨拶して去って行くのを、月島はぼんやり眺めた。手が緩んだのだろう、奥田がそろりと腕を抜いて転がり出てきた家に逃げ込んだ。が、もう一度出てきて、月島を気にしいしい急いで倒れた戸板を填め直し、今度こそぴしゃりと戸を閉じた。奥田がおどおどしているのは騙して大量に兎を買わせた後ろめたさからだろうが、それこそ月島には関係の無い話だ、面倒見切れない。
何事かと顔を出していた人々も引っ込むと、月島と木箱が雪の夜道にぽつねんと残される。
渡辺が木箱を置いていくのは自然である。自然であることは分かるのだが、こんな木箱をこんな所で押しつけられるとは思っていなかった。中に兎が居るとなると、ぞんざいに扱うわけにもいかず、人より小柄な月島には、非常に持ちにくかった。しかも、兎は中で動くのである。
――すかすかなのもそうだが、生き物だから動いたんじゃないか。
馬車鉄道は運悪く通り掛からない。兵営まで歩いて行くしかない。旭橋をえっちらおっちら渡る間も兎はごそごそと動いている。橋の上の木板は、こびりついた雪が夜の寒さで凍っていて、ちょっと気を抜くと滑って敵わない。
「大人しくしてろよ。傾くからな」
人が居ないことを良いことに、ぶつぶつ言いながら橋を渡る。上り下りをどうにか転ばず歩ききり、そのまま練兵場のある角まで辿り着く。区画を回り込むのが面倒で、柵を乗り越えることにし、木箱を先に柵の向こうに落としてその横に着地すると、またがたがたと木箱が揺れた。
「すまん、今のは俺が悪かった」
練兵場を斜めに突っ切りながら、兎を宥めようと話し掛ける。
「もう少しだ。着いたら獣医に診せてやる。軍馬ばかり診ているが、人間の医者よりましだろう。待て待て、前に寄るな。傾く、傾く」
そうやって、どうにか聯隊の入口に辿り着いた時にはまだ寒い時期だというのに汗だくになっていた。
「誰だ!」
歩哨に誰何されてげんなりしたが、でかい木箱を持った男が人気のない練兵場の暗がりから現れたら、自分だってそうする。
「月島だ」
「軍曹殿! 失礼しました!」
敬礼する歩哨に答礼を返しながら聯隊内に入る。木箱の中の振動はいよいよ大きくなっている。
「ああ、こらこら、動くな動くな。着いたから、着いたから。すまん。夜では獣医殿は居ないから朝まで俺の部屋で我慢してくれ」
消灯はまだである。夕食後の兵卒何人かと行き違い、妙な顔をされながら礼をされるのに対し、頷きだけを返して自分の部屋に到着する。佐々木はまだ帰っていないらしい。入り口近くの壁に木箱をそっと下ろして肩から襷を外すと、月島は腕をぐるっと回した。
もうこの時間は週番の者しか上の人間がいない。それでも報せるだけ報せることにして、月島は戸を開け、ちょうど歩いていた一等卒を呼びつけた。
「御用でしょうか、軍曹殿」
「この木箱を見張っていてくれ」
その時、木箱がごとごと揺れて、一等卒がギョッとしたような顔をする。月島は、とんとんと木箱を叩いて、
「大人しくしていろ」
兎小屋と化した厩舎に持って行こうかとちらりと考えたのだが、渡辺が病気持ちと言っていたのが気に掛かる。
しょうがない。週番士官に報告したら、飼い葉と水とを持ってきてやろう。