3/3 フォームお返事
こんにちは!
クライブイベントのページは地味にちょこちょこ見てくれる人がいるみたいで,裏技がリマスター版でも通用するのか分からないので,普通に行けば良かったかなあと思っています.
このところ,突如として幻水の供給が過多すぎて,自分もサントラを引っ張り出してエンドレスGothic Neclordを聴いていたので,頭の中がずっとGothic Neclordです.
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こんにちは!
クライブイベントのページは地味にちょこちょこ見てくれる人がいるみたいで,裏技がリマスター版でも通用するのか分からないので,普通に行けば良かったかなあと思っています.
このところ,突如として幻水の供給が過多すぎて,自分もサントラを引っ張り出してエンドレスGothic Neclordを聴いていたので,頭の中がずっとGothic Neclordです.
| フォームお返事 |
Movable Typeにセキュリティアップデートのお知らせが来たので,入れ替えることにしたのですが,アップロードするファイルが膨大すぎるせいか,FFFTPが途中で
のエラーを吐いて止まってしまう.前に違う作業をしている時にもこのエラーが出たことがあったのだけど,設定をいじっても直らない.フォルダごとにアップロードするとかだましだまし使っていたけど,今回はフォルダ数が多すぎて匙を投げてしまい,とうとうWinSCPにプログラムを変えることにした.
ユーザーインターフェースにまだ慣れられないでいる.
| PC/Web |
「月島、お前は熱があるんだ」
鶴見に断言され、月島は黙り込んだ。
旭川の冬は夕暮れが早い。将校室に呼び出されたのは十五時半だったが、ほどなく空は暗くなり、三つめの報告を済ませた頃には既に夜の様相だった。他の将校は定時で部屋を出て行ったので、今は鶴見と月島二人だけになっている。
会話が途切れると部屋の中は静かで、凍てついた雪が小さな音を立てて窓にぶつかるのが聞こえるほどだった。月島がちらりと窓の方を見ると、窓枠の角に雪が貯まっている。少し逸れた意識を、書類を見ている鶴見の方に戻して、月島は締めくくった。
「――以上になります」
鶴見が「お前は熱がある」と言い出したのは、ちょうどその時だった。
熱があるなどと言われても月島にその自覚は無い。
確かに、昔、熱があることに気がつかずに訓練を続けていたことはある。寝床に入ったらやけに寝台がひんやりして気持ち良く、そう気付いた後でそういえば頭が痛いような気がしてきたものだった。だが、それはまだ一等卒だった頃の話だし、その時だって次の日には何事もなかったように熱は引いていた。
正確に言えば、熱を計ったわけでは無かったので、「あれが熱が出たと言うことだろう」と月島が勝手に思っているだけなのだが。
翻って、今。
頭が痛いか。――否。
関節が痛いか。――否。
悪寒その他の症状。――否。
自分の体調を順に確認し、月島は眉間に皺を作った。
「なんて顔をしてるんだ、お前は」
「いつも通りのつもりですが、何か失礼がありましたか」
月島の答えを聞いて、鶴見が、ここだ、ここ、と自分の眉間を指してみせる。そこに皺を作っている自覚はあったので、月島は右手を上げ人差し指でもぞもぞ自分の眉間の皺を伸ばしてみた。途端に、鶴見が吹き出す。
「指で伸ばすような物なのか」
「......」
手を止め、納得がいかないという表情をありありと浮かべた月島を見て、鶴見はその肩にぽんと手を置いた。
「今日はすぐに部屋に引き取って、早く就寝することだ」
――なるほど。
急に納得が追いついて、月島はひとつ頷いた。
つまりは、用があるから下士室で待機しろと言うことだ。
ロシアとの緊張が高まり、鶴見が秘密裏に動いていた諸々のことは一旦中止と聞いている。だが、その前に何かもう一仕事やっておきたいことがあるのかもしれない。今夜それを伝えるから、熱があることにして他の用務を遮断しろ、ということなのだろう。
「分かりました」
戸口で一礼し将校室を出ると、月島は玉井伍長を探した。そして、今夜は給養班のことは任せると告げて、真っ直ぐ自分の部屋に引き取った。
夕食の膳を二等卒が下げて程なく、同室のもう一人の軍曹がどこかに呼び出されて居なくなり、いよいよこれは密命のために違いない、と月島は机の前にぴしりと座り鶴見が来るのを待っていた。
ただ待っているのは手持ち無沙汰なので、月島は引き出しから書面を引っ張り出した。中隊長の和田から「重要な物かは分からんのだが」と渡され翻訳を頼まれたロシア語の小片だ。
「鶴見にはやることが多くてな。他に適任者がいるかと訊いたらお前を推挙してきたのだ。そういえば、鶴見と一緒にロシアに行っていたのだったか」
つまるところは鶴見から回されたのだ。急がないというので空いた時間にぼつぼつ訳しているが、今のところは当たり障りの無い貿易のための物品売買の記録に見える。
鉛筆を握りしめて文字を書き出してさほど経たないうちに、扉の辺りに人の気配を感じ、月島は顔を上げた。
「二階堂浩平一等卒です」
「二階堂洋平一等卒です」
二階堂?
しかも、二人ともとくる。
月島はほんの少し眉を顰めた。鶴見自身がわざわざ下士室に来ないのは想定の範囲内だが、秘密裏の命を寄越すとしたら、宇佐美か尾形だと思っていたのだ。
逡巡僅か、月島はすぐに口を開いた。
「入......れ......?」
語尾が上がってしまった。洋平の方――だと月島は直感で思った――がふっかりとした畳んだ布を恭しく抱えていたのだ。
「何だそれは」
「褞袍です」
そうだとは思った。だが、本当にそうだったか。
「どこから持ってきたのだ」
「軍曹殿に暖かい上着を持って行ったら煙草がもらえると聞いたので」
「俺はどこから持ってきたか聞いたのだ。あと、そのでたらめは誰から聞いた」
「え、嘘なんですか」
「浩平」
後ろからついてきた方に不機嫌な顔を向けると、(たぶん)浩平はピンと背筋を伸ばして見せた。
「鶴見中尉に言われたと聞いたのです」
聞いたのです。......聞いたのです。
「『聞いたのです?』」
三回目の反芻は声になっていた。じっとりそのまま睨むと、浩平は背筋を伸ばしたまま白状した。
「二等卒から聞きました」
三秒ほど考えてから、月島はゆっくり言った。
「褞袍は二等卒が運んでいたのだな?」
「はい」
ばれた、という表情をありありと見せて、前になっている洋平が頷いた。
「俺に褞袍を持って行けば煙草がもらえるのだとその二等卒から聞いたのだな?」
「はい」
「煙草に釣られて巻き上げたか」
「あー......はい」
溜め息を飲み込んで、月島は徐に言ってやった。
「私物は入営の際に全部家に返す。兵営内は軍服しか無い。普通、二等卒は褞袍など持っていない。そうだな?」
「そう......なりますか」
「ということは、褞袍を調達したのは鶴見中尉だ」
「はい」
「なら、煙草は鶴見中尉がくださるのだろう」
月島が言ってやると、二階堂兄弟は互いに目配せをしあってから、渋い顔になった。
「ええ? 軍曹殿じゃないんですか?」
洋平が褞袍を机の上に置く。月島はそれをちょっと弄りながら気のない調子で答えてやった。
「俺は知らん。欲しければ鶴見中尉に言え」
二階堂が沈黙したのは、将校室――いや、おそらくもう帰っているだろうから私邸の方だ――に、わざわざ煙草をせびりに行くことを想像したからだろう。兵卒にとって将校は基本的に命令を与えるだけの存在だ。わざわざ近づきたい者などあまりいない。下士なら良いのかというところは横に置くとして。
「用はそれだけか」
「はい」
「なら、戻れ」
「はい」
つまらなそうな顔をして背を向けた二人を呼び止める。
「待て。その二等卒は誰だった」
「山村です」
「分かった」
心当たりがあるなら山村には煙草をやってくれと明日にでも中尉に言っておこう。
二人が出て行くと、月島は机の上に置かれた褞袍をしげしげと検分しだした。鶴見が寄越したからには、何かあるのかもしれないと思ったのだ。最初は襟にでも命令書が仕込んであるのかと思ったのだが、襟どころか全体を触ってみても紙の手触りは無い。
「着てみれば何か分かるのか?」
軍服の上着を脱いで軍用襦袢の上に羽織ってみる。分厚い綿が入れてある分、上着よりも暖かいと言うだけで、取り立てて何かが仕込んであるようには思えない。
「暗いから分からないのか?」
手元にランプを引き寄せようとした時だった。
「宇佐美上等兵、入ります」
やけに明るい声が外からして、月島が入れという前にもう戸が開いていた。
「なんだその布団は」
「布団じゃありませんよ、掻い巻きです、掻い巻き。ほら、袖の形になっているでしょう?」
宇佐美は机の前で掻い巻きを広げて見せる。
どこから持ってきた、と訊こうとしてやめた。なんとなくだが、どこからでも何でも調達してきそうな要領の良さが宇佐美にはあった。才能と言えば才能だが、問えば聞かなくて良いことまで聞かされそうで、面倒になったのだ。
「軍曹殿に防寒着を渡したら中尉殿手ずからご褒美をくださるとあっちゃ、渡さない手は無いでしょう」
「あー......でまかせだ、それは」
「え、なんなんです、それ。どういうことです、それ」
えらい勢いで詰問してくるので、月島はじっとりと黙って睨み付けた。途端に宇佐美はそつなく言い直した。
「只今の発言はどういう意味でありますか、軍曹殿」
月島は溜め息を飲み込んで言ってやった。
「さっき褞袍を置いていった二階堂一等卒二人が、鶴見中尉の命令で来たと言うから、なら鶴見中尉がくれるのだろうと言ったのだ」
途端に宇佐美はあからさまにつまらなそうな顔になったが、手に持った掻い巻きを一瞥すると、つかつかと月島に近づいた。
「立ってください」
「なんだ、おい、着せるな」
「鶴見中尉が褞袍を寄越したというなら、防寒着のくだりは本当でしょう。届けた報告ぐらいしてもいいじゃないですか」
宇佐美は、ただ一人の将校に対してだけは隙あらば会いたがる希有な兵卒だ。そうまでして鶴見と会いたいか、と呆れると同時に思い当たった。
絶対こいつはこの嵩張る代物を持って帰るのが面倒になったのだ。
抵抗するのがそれこそ面倒になって、月島は宇佐美に被せられるままに掻い巻きに袖を通した。後で脱げば良いし、少なくとも掛け布団の足しにはなる。
着膨れした状態ですとんと椅子に座ると、元から狭かった机の下に足が入れにくくなった。
外から「尾形上等兵です」と温度の低い声がかかったのはその時だった。
「今度はお前か」
そして、どうしてこいつらは皆予想の付かない物を持ってくるのだ。
「はは、猫が猫を持ってきた」
宇佐美を睨み付けた尾形は、一匹のトラ猫を胸に抱えていた。
「その猫は何なのだ」
頭が痛くなってきたが一応問うと、
「月島軍曹殿にあたたかい物を渡さないと演習が長くなる、自分より前の者が渡した物は無効、と」
だんだん伝言が複雑になってきている。
「誰に聞いたのだ、それ......いや、言わなくて良い」
尾形の背後で宇佐美が自分の顔を指さして手を挙げたので、月島は面倒になって言葉を止めた。部屋の中で二人に喧嘩を始められると厄介だ。止めるにしても、褞袍の上に掻い巻きを被せられて動きづらいうえ、暖かいを通り越して暑くなってきている。
「どうぞ」
「おい、待て、押し込むな。猫が潰れるだろう」
尾形は表情も変えずに掻い巻きの袷から猫を押し込む。猫はうなうな言ってしばらく抵抗していたのだが、月島の太ももの上に足が着くと、そこに空間を作って落ち着いてしまったらしい。掻い巻きの中なので見えてはいないが、腰を落ち着けて丸くなっているのを感じる。
「温かいですか」
「......温かい」
しぶしぶ月島は答えた。間違いなく猫は温かかった。重くはあったが。
「では、俺は条件を満たしましたので」
条件とはなんだと言いかけて宇佐美と目が合い、睨み付ける。宇佐美は気づかなかったふりをして、にっこりと笑みを浮かべた。
「じゃあ、僕はこれで失礼します」
「失礼します、軍曹殿」
覇気無く尾形も言い、二人の上等兵は出て行った。
仲良く、とは言い難い二人だ。廊下で小競り合いを始めないと良いがと月島は首を振った。あの二人の喧嘩は余人では止められないと知ってはいたが、
――今日はもう俺は知らん。
投げ遣りに思ったところで、月島ははたと疑問を覚えた。あの二人が命令を持って来なかったとなると、鶴見自身が命じに来るか、あるいはここでは具体的指示を出さずに使いを寄越すかどちらかだ。
「外出になるならこんな格好はしておれんな」
なんとはなしに掻い巻きの中の猫を撫でながら考えていると、重い足音が近づいてきた。
「月島軍曹殿、谷垣一等卒です」
薄々、嫌な予感を覚えながら、月島は戸に向かって言った。
「入れ」
「失礼いたします」
予感があたって、月島はとうとう溜め息を吐いた。
「谷垣、お前もか」
言われて谷垣は、外套と思しき物を持ったままぱちくりと一つ瞬いた。それでも座っている月島に歩み寄り、
「外套が必要と伺いましたので、お持ちしました」
暗くて定かで無いが、外套は茶褐色をしているようだった。生地は粗めの羅紗地で襟には毛皮が付いている。しかし、だ。
大きい。ずいぶんと大きい。
嫌がらせかと他の兵卒なら思うところだが、この大柄な男は朴訥としていて、そんなことをするような人間ではない。実際、谷垣は申し訳なさそうに眉を下げている。
「縫工場で作っている新しい防寒外套だそうなのですが、大きさが一つしか無いそうです」
月島が手を出すと、谷垣はその手に外套を載せた。
「誰でも着られるようにと大きく作ってあって、自分でも袖が余ります」
谷垣で袖が余るなら、自分などかなり持て余す。ただ、谷垣は掻い巻きを被せられて猫を腹に入れて着膨れもいいところな月島を見て、何故かほっとしたように頷いた。
「これだけ大きければその上から着られますね」
月島は黙ったままゆっくり瞬きをした。
――なぜその発想に辿り着く。
もう考えるのが嫌になってきて、月島は黙って外套を検分した。前立ては二重になるようになっていて、日清の頃の毛布地・一重の外套よりも風が入りにくそうではあった。引っ繰り返してみると要所に裏地も付けてある。
「着ればいいのか、これは」
「手伝います」
手伝わなくて良いから持って帰れという台詞がちらりと頭を過ったが、困惑させるのも目に見えていたので、月島はされるがままに着せられてやることにした。いったん猫を外に出すと、谷垣が目を丸くして猫と月島を見比べる。猫の方は不満だったらしく、たいへんな勢いで鳴いている。
立ち上がって、着せてくれ、と言うと、谷垣は気を取り直して外套を着せてくれた。手が全く出ないので、半分ほど折り曲げる。机の上の猫が懐に入りたがるのをみて、谷垣はそれも丁寧に押し込んだ。
「胴の太さはちょうどいいですね」
谷垣はうんうんと頷いて、失礼いたしました、と出て行った。
掻い巻きを着てちょうどよくなる外套など、外套の意味があるのか。
もうすぐ就寝喇叭がなるだろうという頃合いになっても、鶴見は来ないし伝令も来ない。もこもことした袖口からどうにか手を出し、書類を見詰める。猫はご満悦で膝の上でごろごろ言っているが、翻訳はさっきからちっとも捗らず、月島は何度も同じ場所を読み直している。
遠く靴音が近づいて来るのを聞きつけて、月島は鉛筆を置いて扉を見詰めた。やっと来たのかと思ったのだが。
「月島軍曹、どうだ、具合......なんだ、その格好は」
「和田大尉殿!」
予想だにしなかった人物が入ってきて、月島は慌てて立ち上がろうとしたのだが、ぶくぶくに着膨れしていて、褞袍はともかく掻い巻きと防寒外套の裾でもつれて無様によろけて机にぶつかった。突然膝から落とされた猫が、脛の辺りに引っかかって抗議の鳴き声を上げ、椅子は音を立てて派手に後ろにひっくり返る。慌てて椅子を立て、猫を床に降ろし――冷たかったのか、猫は断固として掻い巻きの裾から外に出ようとしない――と無様を晒していると、和田は、いい、いい、と月島を落ち着かせて自分の方に向かせた。
「これは酷そうだな、月島軍曹」
「酷い、とは......?」
全く何のことか分からず訊き返すと、
「熱だ、熱」
「は?」
上官に向けるような返事ではなかったが、そんな声しか出てこない。和田は少々咎めるような調子で言った。
「なんで仕事をしているのだ。頼んだ私が言うのもなんだが、そこまで急ぐようなものでもない」
そこで和田は言葉を切った。
「――何だ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「私は熱があるのですか」
呆然として月島が言うと、
「何を言っているのだ、お前は」
和田の方が呆れかえって首を振った。
「そんな熱っぽい潤んだ目をしておいて。だいたい鶴見にも言われたのだろう」
怪訝な顔をした和田が手を伸ばし、その手が自分の額に触れるのを避けられもせずに――上官のすることだ、避けるわけにもいかなかっただろうが――いると、月島に触れた和田がやれやれと首を振った。
「お前、これはだいぶ高いぞ。流行病という訳ではあるまいな。医官には診てもらったのか」
「いえ、診てもらっていません......」
「診てもらえ。この情勢で病気が流行って兵が使えないなど、あってはならん。だから鶴見もとっとと休んでとっとと治せと言ったのだろうに、何でこんな時刻まで書類を睨んでおるのだ、お前は」
和田は人を揶揄うような人間では無いし、細かい小言は多いもののどちらかと言えば実直な人物だ。和田が熱があるというのなら、本当に自分は熱があるのだろう。
「......申し訳ありません」
急に具合が悪くなってきたような気がして、月島は足から力が抜けて椅子に座り込んだ。
「だから言ったじゃないか。熱があるから高くならないうちに早く休めと」
翌朝やって来た鶴見は、月島の寝台の傍に立って、困った奴だと言いたげに首を振った。
「申し訳ありません......」
さすがに、上官に対して「信じていなかった」などとは言えず、月島は殊勝な調子で謝った。その声も今やかすかすと掠れており、呟くような小声である。
「鬼の霍乱だなあ」
なぜか鶴見は楽しげだ。結局のところ、自分が信じなかったのは鶴見にこういう面があるからなのだが。
「面目ありません......」
何か考えるのも億劫になって、月島はひたすらぼそぼそと謝った。そんな月島を見ていた鶴見の笑みが心なしか優しげになった。
「まあ、お前はすぐに治ってしまいそうだがな」
それから月島にかけられた毛布と掛け布団とを引っ張り上げると、肩口辺りをポンポンと軽く整えた。
「ゆっくり休め、月島」
はい、と言えたかどうか、とろとろと眠りに引き込まれていた月島には定かで無かった。
[了]
猫は兵営のネズミ捕り係として重宝されました.
高校生の時なのですが,保健室に放り込まれて先生に「熱があるなら学校に出てくるな」と怒られて,そんなわけあるかと思いながら熱計ったら38度あったことがあって,丈夫な人間は分からない時は分からんのです.(今はさすがにそんな体力は無い)
原作のサーカスの話で,「なんで俺が下なんだ」と言いながら,桶置かれてるところが好きで,位は上なのに時々部下(?)に無抵抗だなあと思っています.描写的に避けただけかもしれないけど,部下をぶん殴って従わせていること無いんだよね.真正面から上官の顔面ぶん殴ったことはあるけど.
前に定時ってこの頃何時なんだろうと思って調べたら,どこかに16時と書いてあったのを見つけて,まじか~と思いながらそんなつもりで書いています.いつまでかは分からないけど,昔は燃料とか燃料の輸送手段(とその費用)を考えると,日が昇る頃に活動始めて日が沈むと同時に活動を終えなくちゃ燃料の方が足りなかったんじゃないかなあと想像しています.
全体の寸法は誰でも着ることができる大寸の一種類
当時の普通の兵隊では袖口をかなり上まで折り返さなければ着用できませんという説明を見て,月島ァ!!と思いました.たぶん,人の形に見えない状態になる.
| 二次SS |
夕張編だし,これだけは感想書きたいと思って.
だいたい観た人しか分からないけどネタバレ.
| 感想 > TV/映画 |
原作最終回の数年後.月島軍曹が名前有りモブ一等卒を連れて小樽にいきます.「モブ一等卒から見た月島軍曹」みたいな話になっていますが,何かが起きているのかもしれないし,何も起きていないのかもしれない.鯉登少尉が友情出演程度に出てきます.第8回軍曹会議展示作品.
月島ァという声が聞こえて、椎久飛男は廊下の向こうを振り返った。見れば、ちょうど軍服をかっちり着込んだ小柄な軍曹が角を曲がって来たところで、月島ァの声は、鯉登少尉のものだろう。
少尉殿の「月島ァ」は聯隊内では語り種だった。なにせ、日に何度かはいろんな調子の「月島ァ」が聞こえてくるのだ。案の定、月島軍曹が現れた角に鯉登少尉も姿を見せ、険しい顔でこちらを見ている。だが、月島は振り向きもせずに椎久の方にやってきた。
「待たせたな、椎久一等卒」
「いえ、問題ありません。――あの、少尉殿の方は良いのですか?」
鯉登の声は、はたから聞いても分かるほど懸念の調子を含んでいる。
「いいんだ、きりがない」
横を通り抜ける古参の軍曹に、椎久は慌ててついていった。兵舎から出る前に、ちらっと後ろを振り返ると、少尉はまだ難しい顔をしてこちらを見ている。椎久でさえ気付くぐらいなのだから、月島本人が鯉登の声から滲み出る物に気付いていないわけがない。だが、月島は前を向いたままで歩調を崩す様子がなかった。不敬な態度と言えば不敬な態度なのだが、古株の連中の話によると、月島軍曹は鯉登少尉が士官学校を出て旭川に来た時からの教育係で、「月島ァ」はその頃から始まっているらしく、軍曹は必要が無いと判断すればしばしば適当にあしらうことがあるのだという。
実際、鯉登少尉が月島軍曹を呼びつける頻度は、他の少尉・軍曹の組み合わせと比べてはっきり多いので、月島軍曹の態度も分からないではない。だが、今回は鯉登少尉が心配するのも順当なのではないか、と椎久は密かに思っている。
椎久が大隊長に呼び出されたのは、一週間前のことだった。そもそも、一等卒が一人で佐官に呼び出されること自体がおかしかった。しかも、その呼び出した少佐というのが何かというと怒鳴り散らすと評判の人物で、もう、その段階で厄介ごとの予感しかなかった。心細く思いながら出頭した執務室で告げられた命令がまたおかしく、つい椎久は訊き返してしまった。
「自分が、でありますか」
「そうだ」
「月島軍曹殿に同行して、小樽に行け、と」
「そう言った」
「しかし、私は月島軍曹殿の内務班ではありません」
執務机の向こうに座っている大隊長の顔は、椎久が何か言うごとに不機嫌そうに歪んでいったのだが、とうとうそれが自分を睨み付けるに至ったので、椎久は口を噤んだ。
「貴様はこの私に口答えをするのか」
「いえ、月島軍曹殿のことは、あまりよく知りませんので、自分で務まるものかどうか......」
言い訳には自然と不安が滲んだが、なぜかその態度はお気に召したらしく、大隊長は何度か頷いてしたり顔で顎を擦っている。
「月島軍曹に不安を覚えるわけか」
「その......もちろん、命令なら懸命に務める所存です」
「うむ、実はな、違う班のお前に命じるのは、手心を加えてほしくないからだ」
「手心、でありますか」
「そうだ。小樽で札幌第二十五聯隊と合流し、港で物資を受領して汽車で師団まで運ぶ、それが今回の任務ではあるが、お前には他に大事な使命がある」
「使命、でありますか」
「ああ」
そこで大隊長は右手のひらを上に向けて軽く手を握り、近くに寄れというようにくいくいと椎久に向けた人差し指を動かした。素直に一歩執務机に近寄り、腰を屈めて顔を近づけると、大隊長は他に誰もいないというのに、声を潜めて言った。
「月島軍曹から絶対に目を離すな」
言われたことが分からず、椎久が固まって瞬いていると、大隊長は顔を離し、背もたれにすっかり体重を預けた。また不興を買うかもしれないと頭の隅で思いつつ、訊かずにいられなかった。
「あの、それはどういうことでしょうか」
大隊長は、椅子をくるりと回転させて椎久に背を向け、窓の方を見ながら言った。
「そのままの意味だ。何をしたか、どこに行くか、全部見張って全て報告しろ」
「止めなくて良いのでありますか?」
そこで大隊長は九十度ほど椅子を回転させ、横目で椎久を見ると、
「無理だな」
と決めつけた。それから、もう九十度椅子を回転させて元の通り椎久の方を向くと、もったいぶった調子で言った。
「お前を選んだのにはもう一つ理由がある」
「......」
「詳しくは言えんが、月島軍曹にはアイヌに仇為す行為があったという疑いがある」
「アイヌに」
「本来、アイヌの持ち物であるはずの物を奪おうとした疑いだ」
「......私に見張りを命じる理由は、私がアイヌだからですか」
「そうだ。同胞からの搾取だ、貴様なら特に思うところがあるだろう?」
「......」
椎久は拳を握りしめた。そもそも和人に何かを奪われなかったアイヌを椎久は知らない。
大隊長は椅子にふんぞり返ってさらに言った。
「いいか、お前が思っているより、これは大きな物が絡んでいる。それを明るみに出したいという意図もある。だから、余計なことはするな。とにかく、四六時中離れずに全て報告しろ」
「はい」
「あと、くれぐれもこの命令は漏らさぬように」
「了解いたしました」
「よし。では、下がれ」
「はい」
感情を微塵も出さずに椎久は戸口で一礼し、部屋を出た。
解放されるなり椎久は急いで自分の大部屋に戻った。消灯が近かったが、班長を探しに下士室に行くと、班長殿は班長殿で大隊長に呼び出された椎久のことを気にしていたらしく、すぐに椎久を招き入れてくれた。
「何の用事だった、大隊長殿は」
「月島軍曹殿に同道として小樽に行けということでした。第二十五聯隊と合流して港で物資を受領しろとのことであります」
兵営を離れるのだ、ここまでの命令は言ってもいいだろう。逆に言わずに出て、脱走などと言われてはどんな目に合うか分からない。とにかく、公用だということは認めてもらわなければならない。
「なぜ俺の班の所属なのにお前が」
「分かりません。自分も訊いたのですが、口答えするのか、と不機嫌になってしまわれて」
話を濁して伝えたが、班長は渋い顔をしただけで、さらに問い糾すことはしなかった。それがあの大隊長が隊の中でどう思われているのか示している。
「班長殿。月島軍曹殿はどういった方なのですか。大隊長殿は何か思うところがあるような口ぶりだったのですが」
椎久が月島について知っていることと言えば、同じ中隊ではあるが別の班であることと、鯉登少尉によく呼びつけられているということぐらいである。日清・日露に従軍した古参だと言うことは知っていたが、入隊して二年目の椎久が知っていることはさほどない。
椎久が若干不安そうにしているのを感じたのか、班長殿はすぐにひらひらと手を振った。
「月島はそんなにおかしな奴じゃない。それより、大隊長の方がめんど――」
言い過ぎたと思ったのか、班長殿は言葉を止め、仕切り直すように椎久に言った。
「まあ、言われたことだけやっておけ。変な色気を出すと馬鹿を見る。それで、出立はいつだ」
「一週間後の月曜日であります」
「帰営は?」
「その週の水曜日の予定ですが、天候に寄るということでした」
「分かった。公用の手続きはしておく。出る前に公用証を必ず取りに来い」
「はい。あの、」
「なんだ」
班長殿に視線を向けられたところで、椎久は言いかけた言葉を止めてしまった。アイヌに仇なす行為の意味を聞きたかったのだ。だが、その詳細を班長殿が知っているかどうか分からなかったし、また、それを口にしてすんなりと教えてもらえるものなのか椎久には判断がつかなかった。結局のところ、この人も和人で自分はアイヌである。
「......いえ、できる限りを行います」
「ああ」
そういう遣り取りがあって出立の日になり、今朝の食事後に問題なく公用証をもらえたので木札を大事に右胸に仕舞いながら、騙されたわけでも陥れられたわけでもないようだ、と椎久はほんの少しだけほっとしていた。だが、鯉登少尉が口元を引き結び、厳しい顔をして二人に向ける視線を背に受けていると、微かな不安が再び頭を擡げてくる。
曇り空だった。十月の旭川は晩秋である。日が照っていないと寒さが外套の中にも忍び込んでくる。
聯隊の門を出ると、練兵場では椎久と同じ班の兵卒が号令に従って同じ動きを何度も繰り返していた。そちらに混じらずに道を歩いているのは妙な気分だった。
練兵場の方に向けていた目線を、前を行く月島軍曹に向ける。師団の敷地が大半を占めるこの辺りでは、兵が外出を許可される日曜以外はそんなに人通りは多くない。後ろからついて歩きながら、椎久は件の軍曹殿を上から下まで眺めて首を捻った。その姿はずいぶんと小柄で、背丈は人より大柄な自分の肩より下だろう。自分の方が上背はあるのに、大隊長が言下に「止めるのは無理」と言ったのが解せなかった。
門を出てすぐの二七角の乗り場で手を上げ、馬車鉄道を停めて乗り込む。たまたまなのか、月曜の朝はいつもこんなものなのか、他に乗客はいなかった。誰に見られるわけでもないのに、月島はぴんと背筋を伸ばして座席に座っている。自然、椎久も気を抜くわけに行かず、ぴしりと姿勢を正して座り続けた。
すぐに分かったことだが、月島軍曹は思ったより物静かな人だった。考えてみれば、月島の声が聞こえるのは号令を掛ける時ぐらいだったし、そもそも賑やかな印象を覚えていたのは鯉登少尉の「月島ァ」であって、月島自身ではない。特に会話は無いが、上官と部下の関係だ、公務の最中なのだと思えばそれが普通だろう。
旭橋を越えた辺りから乗客が増えてきた。そこから店の並ぶ師団通りを通って旭川停車場で馬鉄を下りたのは一〇時過ぎだった。買い物客が集まってくる頃合いで、停車場前の広場はさすがに人が多かった。土を踏み締め広場を横切り、改札を抜けて赤い帯の三等車両に乗り込む。座席に並んで座ると、ほどなく汽車は動き出した。座席はそれなりに埋まっていたが、満席というほどではなかった。月島が窓側に座ったが、小柄なせいもあって椎久からも窓の外がよく見える。
旭川を出ると列車は師団への引き込み線の出る近文駅へと向かう。物資受領だというのになぜ練兵場の引き込み線からの出立ではなく、なぜ二人しか出ず、なぜ札幌二十五聯隊と合流になるのか。考えれば考えるほど不安の種ばかりが思い当たる。椎久は隣に座る軍曹にちらりと目をやった。月島は表情を浮かべず外を眺めている。
――この人を泳がせるためなのか?
軽い不安を無理やり心の隅に追い遣り、月島の視線を辿って椎久も外を見た。
――チカプニ・コタン......
自分の生まれた土地を眺めながら、大隊長の言葉を思い出して椎久は憂鬱になった。
椎久は、近隣のアイヌが集められてチカプニコタンができてから生まれた最初の世代である。親世代に複雑な思いがあるのは感じていたが、自身はチカプニに愛着がある。だが、給与地と定められたこの土地さえ和人の投機家に取り上げられそうになり、不安定な行く末に気付いたのが少年の頃だった。その動きの原因になったのが、そもそも第七師団の移駐による地価高騰のせいなのだから、そうしてみると、「徴兵」されてその第七師団にいる自分はなんなのかと滅入る物を感じ、ちら、と小柄な軍曹殿を見る。月島の顔には先ほどと同様、何の表情も浮かんでいなかった。
――それはそうだ。
滅入るのは自分がアイヌだからであって、この風景からそんなことに思い当たる和人などいるわけがない。最初から特に期待しているわけでもなかったが、奇妙に落胆している自分がいることにうまく折り合いを付けられないでいる。
汽車は石狩川に沿って走っている。近文駅、伊納駅と、進むほどに街は遠くなり、景色は山の中になる。川が蛇行し急流の存在を示す激しい音が窓の外から聞こえてきた時、
――カムイコタン......
「カムイコタンというのは」
自分の思考とまさに同じ単語が音で聞こえて、椎久はビクッと体を揺らした。その動きを不審に思ったのか、月島がこちらを向いた。慌てて椎久は聞いているという印に返事をした。
「はい。カムイコタンがどうかされましたか」
「神の住まう場所ということだろう?」
「はい。神の集落とか神の里とかそういう意味になります」
「前から思っていたが、随分険しい場所だな」
コツコツと月島が軽く握った拳、人差し指の関節で窓を叩いた。外は荒々しく削れた岸や大岩が目立つ激流である。
「ここに住まうのは魔神で、人の乗る舟を転覆させると言い伝えられているのです」
「畏れられていた場所というわけか」
「はい」
減速をしていた汽車が神居古潭駅で軋むように止まる。外を駅辨売りが歩いていて、昼にはまだ早いが、汽車に乗る前に買い求める者もいる。〈神の住まい〉はちょっとした観光地になっていて、宿が数件あるのだという。実際、難所は難所だがこの時期は紅葉が美しい。
椎久はよく分からなくなる。急流に飲まれる者が後を絶たないが故の畏敬の地が観光地となるのは良いことなのか悪いことなのか。畏敬の地が畏敬の地のままであるには、いつまでも危険であれということで、死人が出るのも已むなしという考え方になるのだろうか......
〽雪に若葉に紅葉に
甲高い歌声が外から聞こえている。月島軍曹が不審げに窓の外を見た。
「聴いたことがある節だな」
〽風景すぐれし神居古潭......
それは流行の歌のように聞こえた。
「『鉄道唱歌』ではないでしょうか」
「『鉄道唱歌』?」
外を歌声が過ぎていく。どうやら、父と子の親子二人連れのうち子どもの方が歌っているらしい。いったん遠ざかっていった歌声は、思いがけず今度は車内に響いてきた。そろそろやめなさい、と言いながら車両端の扉を開けた父親がきょろきょろと車内を見回している。厚手の布で作られた着物の上に洋風のコートを着た父親は、中折れ帽姿も様になっていてどちらかと言えば街で暮らす者のように見える。男は座席の空きを見計らうと、子どもの手を引いて椎久と月島の前にやってきて帽子をやや傾けて会釈し、子どもを窓の方に座らせた。子どもの方は着物の上に赤ゲットの外套を着た男の子で、寒い外から車内に入って頬が紅くなっている。騒ぐようなことはなかったが、軍服姿の二人が物珍しかったのか、きらきらした目でこちらを見上げた。
と、思いがけず、月島軍曹がにこりと子どもに向かって笑みを作ってみせた。今までの仏頂面はどこに行ったのか、はっきりとした笑顔であったので、椎久は驚いてぱちぱちと瞬きをし、急にあたふたと自分も親子に向かって会釈した。
袖章を見た子どもが、軍曹さん?と尋ね、月島が愛想良く、そうだ、と答えているのを、椎久は唖然と眺めている。同じ班ではないので為人は知らなかったが、この人は子どもが好きなのだろうか。
「さっきの歌はどう続くのだ?」
月島に尋ねられて、一瞬、よく分からなそうな顔をした子どもが、すぐに気がついて口を開く。
〽こゝに地形は狹まりて 上川原野ぞ開けゆく
聞きながら外の景色を見た月島が、なるほどな、と言うのと同時に汽車がゆっくり動き出す。
「その歌は日本中全部歌詞があるのか」
「分からないけど、たくさんあるよ。内地とか、九州とか、四国とか、いっぱい」
「そうか。俺は新橋から出られない」
「?」
いぶかしげな顔になった子どもを見ながら、月島が口を開く。
〽汽笛一聲新橋を
銹びた声だった。思いがけないぐらいには良い声と言ってもよかった。だが、歌声はその短い一節で唐突に止まった。聴いていた子どももその親も椎久も、しばらく続きを待ったが、歌はそれっきりで続く様子がない。とうとう子どもがおっかなびっくり訊いた。
「続きは?」
月島は姿勢を正したまま真顔で言った。
「この続きを知らないから、いつまで経っても新橋から出られない」
ふふ、とはじけるように子どもは笑い、得意げに続ける。
〽はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として
「案外風流なものだな」
「ふうりゅう?」
「上品というか、趣があるというか」
月島の方は子どもに通じるか迷うような口調だったが、子どもは相手してもらえたのが嬉しかったらしく、人懐っこく尋ねてきた。
「軍曹さんはどこの出身?旭川で生まれたの?」
「いや。こっちの一等卒はそうだが」
「え?あ、はい」
自分に振れられたのも、自分がチカプニの出であることを知っていたことにも驚いて反応が遅れた。子どもは一度椎久を見上げてから、もう一度月島の方を見た。
「じゃあ、軍曹さんはどこ?」
なぜか月島は渋いような微妙な表情になった。
「内地だ。内地の真ん中辺りにある島だ」
「どこ?」
月島はやや重たげに口を開く。
「......佐渡島という所だが、佐渡には――」
皆まで言う前に子どもは口を開いていた。
〽佐渡には眞野の山ふかく 順德院の御陵あり
松ふく風は身にしみて 袂しぼらぬ人もなし
「あってる?この佐渡?」
「ああ......」
口を曖昧に開いた状態で固まっていた月島が、子どもに尋ねた。
「佐渡に鉄道が通ったのか?」
「知らない。でも歌にはあるよ」
そこで父親が苦笑しながら言った。
「あんまり調子に乗らせないでください。下手すると最初から最後までずっと歌ってる。深川まで着いてしまいますよ」
「そんなにあるのですか」
「そのようです」
「全部覚えているとはたいしたものだ」
父親に向かって口を尖らせていた子どもは、月島が褒めると自慢げに肯いた。
「でも、汽車の中だからな。聴かせてもらうのはここまでにしておこう。ありがとう」
うん、と頷いて口を噤んだあたり、もともと素直な質なのだろう。
親子連れは瀧川で降りていった。窓の外からこちらを振り返った子どもが手を振るのを、月島は軍帽を少し持ち上げ愛想の良い笑みで見送る。それを、椎久はやはり信じられない気分で見ていたが、子どもが見えなくなった途端、今までの笑顔はどこにいったのかというほど、すん、と表情を消して月島が座席に座り直したので、危うく吹き出しそうになった。どうやら、軍曹殿はなけなしの愛想を掻き集めていただけらしい。どやしつけられたくはなかったので、辛うじて吹き出しはしなかったが。
昼を過ぎて、そういえば昼食はどうするのかと思い出した頃に砂川に着いた。線路の上をまたぐように橋が架かっているのが珍しく、椎久はその橋をなんとはなしに眺める。乗り換えのためか大きな町なのか、乗り降りする人が多い。窓の外を駅辨売りが呼び込みをしているのが見える。
「食べるか?」
急に言われて椎久は咄嗟に頷いた。小樽に着くのは日暮れ時だ。食べていいなら食べておきたい。駅辨売りを呼び止めようと、月島が立ち上がって窓枠に手をかけたのを見て、椎久は、自分が、と月島を止めた。
「奢ってやる。二つ買ってくれ」
「はい」
両手を広げて窓枠を下から持ち上げると、外から冷気と共に木材の香りが入り込んでくる。椎久は駅辨売りを呼び止めた。
「二つ頼む」
「はい。お茶はどうします?」
「軍曹殿、いかがいたしますか」
「頼む。お前も要るなら頼め」
「はい」
遣り取りを聞いていた辨当売りは、ちゃっかり既に土瓶を用意している。椎久が弁当二つと土瓶を二つ受け取ると、弁当売りは代金をもらおうと手を伸ばしてくる。椎久が月島の方を見ると、これがなぜかごそごそと体をまさぐっている。上衣の物入を確かめ、少し首をひねり、今度は背嚢を開けたり雑嚢を弄ったりし出したので、椎久はだんだん心配になってきた。もしかして自分が出さなければならないのでは、と思った頃に、ようやく月島が財布を雑嚢から引っ張り出した。
「これで足りるか」
「はい」
急いで代金を渡してお釣りを受け取るなり、汽車が動き出したので、ふう、と椎久は息を吐いて、月島の向かいに座り込んだ。向かいからも同じように、ふう、と溜め息が聞こえて椎久が顔をあげると、月島の方もほっとしたような顔をしていたのだが、椎久に見られていることに気がつくと、すい、と表情を消した。弁当を二つ抱えたままだったと気がついて、椎久が慌ててお釣りと弁当と土瓶を渡すと、月島は何も無かったかのようにそれらを受け取った。
ついつい、椎久は笑みを浮かべてしまい、はっとなって慌てて真顔を取り繕った。小柄な軍曹殿は椎久をちょっと見ただけで、睨むようなことも怒鳴るようなこともなく、弁当をあけてそのまま食べ出した。
椎久もぱかりと弁当を開け、ぎゅうぎゅうに詰まったご飯に箸を入れる。向かい合わせで黙々と食べるのがなんだか楽しくなってきて、しばらくもごもごやってから、椎久はちらっと月島を窺った。健啖な様子を発揮して、小柄な軍曹殿の弁当はもう空に近い。話しかけてもいいような気がして、椎久は小声で訊いてみた。
「軍曹殿」
「なんだ」
「順徳院というのは何ですか」
「ん?ああ、さっきの歌か。大昔の天皇だそうだ」
天皇と言われた時に、もしかして和人の間では当たり前の知識で拙いことを訊いたかと思ったが、月島は罵倒するでもなく淡々としている。ほっとして、さらに訊いてみる。
「御陵というのは?」
「墓だ」
ちょっと考えてから椎久は訊いた。
「大昔は、佐渡というところに天皇陛下が住んでおられたのですか?東京みたいな場所だったのですか?」
月島はちょっと眉を上げ、ほんのちょっぴり口を曲げた。それは皮肉げな笑みに見えなくもない。
「いや。佐渡は流刑地だ。順徳院は京都から追放されたとか聞いた」
よく分からなくなって椎久は眉を寄せて考えた。それから、恐る恐る小声で訊いてみる。
「天皇陛下も罪人になるのですか?」
月島は椎久を見詰めて、ぱちりぱちりと二度ほど瞬いた。ああ、今度こそ怒られると思った時、月島が思いがけず小さく笑った。
「面白いことを言うな、お前」
閃いた笑みは瞬く間に消える。
「正確にどういう罪なのかは知らん。政争に負けたとかそういう類いのものだろう」
突き放したような言い方だ、と思った。和人はみんな天皇陛下を崇め奉っているのだと思っていた。入隊の時によく分からないまま御真影というものに敬礼をさせられたから、てっきりそういうものだと思っていたのだ。勝った側が今の陛下の祖先だから、政争に負けた側は別に崇めなくても良いということなのだろうか。
月島は会話に興味を無くして、窓の外を眺めている。
椎久は弁当を食べ終わり、土瓶から茶をいれて口に含んだ。
そのまましばらくは向かい合わせに座っていたが、岩見澤で混んできたので詰めた方がよいだろうと、再び椎久は月島の隣に座った。物静かな軍曹殿は、椎久がどう動こうと理不尽に怒るようなことはない。途中で眠気に襲われ、さすがに眠るのはどうかと思って必死に目は開けていたが、案外眠っても怒らなかったのかもしれない。
日が傾いてきた頃、駅に着く前にと便所に向かう。便所の穴から線路に敷かれた砂利が流れ去って行くのが見える。冷気混じりの風が入り込んできて、椎久はぶるっと身震いした。風にあたりながら小用を済ますとさすがに目が覚めた。
――札幌か。
札幌には二十五聯隊の兵営がある。受領の予定はもともと明日で、必ずどこかで宿泊することになる。なのに、なぜ札幌で合流しないのだろうか。確かに、第二十五聯隊の衛戍地は札幌停車場からは離れた場所だとは聞いているが、兵隊二人だけ小樽で宿泊させるより月寒の兵営に泊めてしまう方が経費も浮くのではないだろうか。経費など微々たるものだというのなら、中間地点の岩見澤で途中下車してそこで宿泊でも良かったはずだ。その方が旅程にはよっぽど余裕が出る。岩見澤・小樽間は汽車の本数も多いようだし、物資の受領は明日の十時なのだから十分間に合うだろう。命令であるからにはどんなに時間が掛かっても移動はするが、今日中に小樽に着いていなければならない理由が分からない。命令がいつでも合理的かと言われれば確かに理不尽な事の方が多いのだが......
席に戻ると、軍曹は腕組みをしながら窓の外を見ている。
――この人を、
巻き込まれてしまったようで不安でもあり、また、月島軍曹にはここまでの道中で嫌な思いもしなかったので後ろめたくもある。
椎久は溜め息を吐きたいのを押し殺して、再び月島の横に座った。
札幌を出ると、琴似、輕川と平坦な土地が続いて錢函に至る。窓の外に海が見えてきた。北海道の中心部から出て、ようやく、の気持ちが強い。座り続けた体は背中も腰も強ばって痛いぐらいだが、相変わらず月島はぴんと姿勢を正している。よほどの体幹の強さと忍耐力が無いとこうはいかない。大隊長の言った「無理だな」の片鱗をわずかに感じながら、椎久は軍靴の中で足の指を曲げたり伸ばしたりした。いい加減、足もむくんでいる。
線路は海沿いに変わった。ちょうど切れた雲間から夕陽が海原に最後の光を投げている。窓側に座っている月島が眩しげに目を細め、軍帽の鍔を少し下げた。
「お席、代わりましょうか?」
「うん?」
小柄な軍曹はこちらを向いて、下ろしたばかりの鍔を上げて椎久を見上げた。月島は最初訝しげな顔をしていたが、椎久がなぜ座席の交代を申し出たのかすぐに気づいて、いや、と首を振った。
「大丈夫だ」
だが、もう一度窓の外に顔を向けかけたところで椎久を振り返った。
「海が珍しいのか?なら、代わるが」
「いえ、そういうわけではありません。叔母が小樽に嫁ぎ、その縁で二度ほど来たことがあります」
「小樽に」
「はい。叔父の方は鰊番屋で働いていました」
本当はもっと前はちゃんとコタンがあって、ヲタルナイ場所という所で和人と交易していたのだと聞いたことがある。だが、御維新よりもずっと前にそれは崩れ去っていて、叔父が小さい頃にはもうコタンには二、三〇人しか居なかったという。今はどうなっているか分からない。小樽にはその他にもコタンがあるのかもしれないが、この辺りに住んでいない椎久には詳しい状況は分からない。
そういった説明を口に出すのは憚られた。この人にぶつけてもしょうがないのだ。窓の外の海を見ながら、知らずため息をついた。
――アイヌに仇なす、か。
月島がちらっと椎久を見たので、叱責されるかと慌てて姿勢を正したが、月島は何も言わずに窓の外に視線を戻した。月島は無表情を崩していないが、海を眺めながらなにやら考えに陥っているようにも見えた。
列車は海沿いを走り続ける。張碓の険しい断崖が見えてきたところで、なんとはなしに椎久は口を開いた。
「この辺りも土地の者にカムイコタンと呼ばれています」
言ってしまってから、この人にとって「土地の者」は入植した和人かもしれないと気がついて、椎久は口を噤んだが、月島は窓の外を見て、なるほど、と呟いた。
「ここも険しいからな」
列車は、海に立つ奇岩の横の隧道に突入した。音が汽車の中に籠もる。月島は景色の見えなくなった窓から視線を椎久に移した。
「人が容易に寄りつけない場所をカムイの物と認識したのか。和人が険しい火山に地獄や極楽を結びつけるのと似ているのかもしれないな」
「そういう場所があるのですか、内地に」
「ああ、いや......」
小柄な軍曹殿はやや口ごもり、それからなぜか気のなさそうに話し始めた。
「子どもの時に住んでいた場所から、海を挟んだ対岸に、山が見える時があった」
故郷を懐かしんでいるようには見えないなと思いながら、椎久が単語を繰り返す。
「山、でありますか」
「冬の、ごくたまに晴れた時の、さらに稀な話だが、遠くまで霞まず見える時があって、その時に白くて高い山が見えるのだ。それが、本州の霊山の一つで」
「霊山」
「そうだ。山をまるごと信仰しているのだそうだ」
「神の住む所?」
「よくは知らん。山がまるごと神なのかもしれない。そこに、」
ちょっと言葉を切ってから、月島は言った。
「地獄の入口があると言われていた」
汽車が隧道を抜け、海がまた見えてきた。日は海に没し、僅かな明かりだけが残っている。
月島が急に訊いてきた。
「お前、アイヌ名は?」
話を変えたようだと思ったが、椎久は素直に答えた。
「ウテㇽケであります」
「意味は?」
「跳躍です」
「だから飛男、か。苗字の方にも意味はあるのか?」
「シクは大きな弓という意味です」
薄い色の目が椎久の方を見た。
「狩りが得意なのか」
「......弓は得意でした」
弓を持たなくなってもうずいぶん経つ。答えるまでのわずかな逡巡に蟠りが現れてしまったような気がして、椎久は誤魔化すように居住まいを正した。月島は、そうか、とだけ言って窓の外に視線を向けた。途端にまた汽車は隧道に入ったのだが、今度は月島は何も見えない窓から視線を移さなかった。
車窓に古参の軍曹の顔が映っている。そこから視線を外すと、椎久は真っ直ぐ前を見た。
月島軍曹は普通の人に思える。会話を交わせば、親しみだって感じる。上下関係では理不尽なことも多い軍隊において、随分まともな人だろう。特段アイヌを下に見ているようにも感じない。もっと付き合いが長ければ、そういうものが端々に見えるのかもしれないが、単に一日一緒に列車に乗っただけではそれは全く分からない。
大隊長の言う「アイヌに仇為す行為」も分からなければ、そもそもなぜ大隊長がこの人物に拘るのかも分からなかった。
中央小樽に着いた頃にはもうすっかり暗くなっていた。おまけに雲が立ちこめて今にも雨が降りそうだ。午前中からこっち、ほとんど座り続けていたせいで体中が強ばっている。降りた途端に、椎久は背を伸ばした。月島はそんな椎久をちらりと見て、表情も変えずに歩き出した。椎久も駅員に切符を渡して改札を出た。改札鋏で出た切符の切れ端が床に散らばっているのを気にしなければ、全体的に小綺麗だ。
月島が駅の中を見回しているようなので、椎久は尋ねた。
「どうかされましたか」
「駅が新しい」
言われればその通りで、新築の建物の持つほの明るい印象がある。小樽は北海道でも随分早くから駅があるのだから、もっと古くてもおかしくはないのだが。
「建て替えたのでしょうか」
「そのようだ」
駅の構内も、駅を出てからも人がそこそこ多かった。
「初めてここを通った時は、ずいぶん寂しい場所だったんだがな。平らに無理矢理均したみたいな場所で、店も何も無かった」
今は周りに店がぼつぼつ並んでいる。とはいえ、夜のせいか雨が降りそうだからか人々は急ぎ足で、本日最後の稼ぎとばかりに人力車が広場を行き交っている。それに合わせて商家も店じまいをしようとしているところが多かった。坂の下に見える海の方がまだ町並みが明るい。月島がそちらに向かって歩き出した。椎久も遅れないように続く。停車場から海に向かって続く巾の広い坂道を下りながら、
「軍曹殿は小樽の街には詳しいのですか」
「何度か来たことはある」
北海道でも指折りの街だ、海に近い色内通りはまだ人通りが多かった。心当たりでもあるのか、月島の歩みに迷いはない。だが、とある宿の前で立ち止まった月島が訝しげな顔をした。
「妙だな」
呟きには椎久にも頷けるものがあった。閉まっているわけではないし、他と何が違うわけでもないのに、この宿だけいやに活気がないのだ。月島が訝しげだった表情を元に戻してそのまま玄関の方に足を向けたので、椎久は慌てて後を追った。
「ここにするのですか?」
「空きはありそうだからな。――もし、ごめんください」
月島は、汽車の中で親子連れに話しかけられた時のように愛想良く宿の人間に話しかけた。兵舎での様子と違いすぎて、どうにも慣れられない。
「二人、泊まれますか」
出てきた宿の者は、疲れたような顔をしていた。
「ああ、見ての通り、空いてるよ。――でも、良いのかい?」
「何が?」
草臥れた顔のまま、ため息と共に返ってきた答えは、
「出る、て噂立っちまって」
「何が」
「手、かな」
「手?」
小さな手が外から差し込まれるのだという。いやに白くて小さな手が、夜な夜な差し込まれる。寝ぼけ眼でそんな物が鼻先でひらひらしているのを見たら、確かに肝を潰すだろう。
だが、月島は眉間に皺を作って一瞬考えたものの、あっさり言った。
「手が差し込まれるぐらい、大したことじゃない」
宿泊を決めると、主人は喜んでいそいそと二人を大部屋に案内した。柱に架けられた電話を横目に庭に面した縁側を歩いている最中、俄に雨音が酷くなり、暗くてよくは見えないと分かりつつ、椎久は窓の外を窺った。
「こりゃあ、とうとう本降りだ。運良かったな、兵隊さん」
「いや、そうともいえない。飯がまだなのだ」
宿の主人の物言いが砕けているので、月島も丁寧な口調をやめたらしい。
「ええ?これからだったのかい?」
「ああ。旭川を朝出て、小樽に着いたばかりだ」
「うーん......」
宿の主人は暗い窓の外を窺う。そうやっている間にも雨は酷くなるばかりで、窓ガラスをガタピシャ言うほど叩いている。
「何か出すかい?」
「出せるのか?」
「ごはんと味噌汁とお新香ぐらいでよければ」
「十分だ。しかし、客が居なかったのなら準備していなかったのではないのか」
「わたしら食べる分が炊いてある。客も居ないし、通いの者は帰したから残ってるはずだ」
「それはありがたい」
主人が案内したのは誰もいない大部屋で、左手に行灯があり、右手の隅に布団が積んであった。
「本当に俺たちだけだな」
「朝から天気がおかしかったせいか、船もあんまり入ってこないし、少ない客は別な宿に取られたみたいでね」
参ったさー、と主人が溜め息交じりに首を振る。
「そちらには災難だが、こちらにとっては、広く使える分ずいぶんな贅沢だ」
主人が食事の準備に出て行くと、月島は外套を脱いで衣紋掛けに掛け、上衣の襟元を緩めた。楽にしろ、と言われて椎久も少し服を崩す。月島はさっさと布団を敷いて寝床を作った。もう今日は食べたら寝るつもりなのだろう。
手持ち無沙汰だったが、行灯は薄暗くて携行武具の手入れは難しそうだった。仕方なく頭の中で明日の予定を反芻していると、主人と女中が食事を運んできた。女中が膳を二つ並べ、その間に主人が大きな茶瓶と何やら蓋付きの大きな藁籠のような物とを畳に置く。
「装いますか?」
「いや、こっちで勝手にやる。ありがとう」
「分かりました」
ごゆっくり、と言いながら女中が出て行った。装うか訊いたからには、たぶん、藁の容れ物の中には米が入っているのだろう。兵営以外での食事の経験があまりなく、椎久は内心首を捻った。炊いた米を和人はお櫃に入れる物だと思ったのだが。
――藁だとべたべたくっついたりしないのだろうか。
一方、月島は宿の主人に質問している。
「船は朝からずっと来ていないのか?」
「ああ。雨こそ降ってなかったんだけど風強かったのさ。ぜんぜん入港しなかったのかと言われれば、そったらわけでもないようなんだけど、南からの船は軒並み来てなかったさ」
「青森からもか」
「青森どころか函館からのも来てないみたいだったさ」
それを訊いて月島は渋い顔をした。
「兵隊さん、船待ってたのかい?」
「ああ」
「そりゃご愁傷様だ」
「おかげで客が少ないなら、この宿の方がご愁傷様だろう」
「まあね。汽車の客頼みだったけど、人入ってないと何でか客居着かないもんで、結局はこったら有様さ」
上官と宿の者の会話を遮ってよいものかちらりと迷いはしたが、雑談のようだし今までの様子だと月島は怒ったりしないだろうと思って、椎久は思いきって訊いてみた。
「あの」
声をかけた途端、主人と月島が椎久の方を向く。
「駅は建て替えたのですか。ずいぶん奇麗だったのですが」
訊いた途端に、そうなのさー、と主人が大袈裟に頷いた。
「ぴかぴかだったべ。この夏に皇太子殿下がいらっしゃるって言うんで、それに間に合わせようって人足もたくさん来て、なんまら凄かったよ。どんどん出来上がっていって」
客が居なくて話し足りていなかったのか、主人の話は止まらない。
「皇族の方が泊まれるような立派な旅籠もないっていうんで、小樽一豪勢な家に住んでる商人に家さ貸せって區が言ったら、その御仁、こったら平民の家にお泊めするわけにはまいりませんって御殿を一つ建てちゃったのさ。いやあ、東宮出門っていうんで私も見物に行ったんだけど、そりゃあたいしたものだったさ」
そこで、主人が月島と椎久を順番に見た。
「あれ、でも、その後、旭川にも行ったんでなかったかい?新聞で読んだような......」
「あれか」
思い出したのだろう、月島が思わず、といった調子で声を立てた。
「ああ、やっぱり旭川にもお出ましだったんだ」
「そもそも、函館に師団長閣下がお迎えに上がったからな。護衛はずっと第七師団だ」
「で、そのまま旭川までか。旭川はどこにお泊まりだったんだい?言っちゃあなんだけど、小樽の方が街としては大きいべ?ここがこの有様だったんだ、旭川に小綺麗な宿なんてあったのかい?」
「偕行社にお泊まりでした」
椎久が教えると、なある、と主人は膝を打った。
「そうか、旭川には北鎮部隊の本部がある。さすが軍都ってことか。考えてみりゃ行く末は帝国軍の大元帥閣下であらせられるわけだし」
「大変だった、あれは。五月から東宮主事が下検分に来てな」
「やっぱり準備は入念なもんだ」
椎久も覚えている。行啓当日は旭川町どころか周りの集落から人々が集まる騒ぎで、師団挙げての歓迎行事の連続だった。
「あれだべ?大砲撃って歓迎するんだべ?」
どかん、どかん、ってさ、と主人が言うと、月島は頷いた。
「そうだ。皇礼砲二十一発」
「そんなに?はは、見物してみたいもんだと思ってたけど、そんなに撃つなら飽きちまうかな」
「かもしれないな」
月島はそう言うが、その間、ずっと兵卒は直立不動で立ち尽くしていたのだから、椎久は飽きると言うより大変だった。それに、次の日はよりによって第二十七聯隊の敷地に木をお手植えするとかで、夜も更けるまであちこち掃除して磨かされて、これまた朝から整列する羽目になったのだ。
「なんか演習とかやったのかい?」
「大隊教練自体は別の聯隊だったのだが――」
月島が危うくうんざりと取られかねない口ぶりで言ったので、椎久も思いだした。
「結局、千代ノ山で連合演習でしたからね......」
ついつい椎久は後を続けて遠い目をした。
そんな二人を見て主人はくすくすと小さく笑う。
「不敬だねえ、軍人さん」
ここではまあ寛いでくださいよ、と言うと主人は部屋を出て、礼をしてから障子を閉じた。
不敬と言われて椎久は冷や汗を掻いていたが、月島の方は気にした様子も無く、部屋の奥側に陣取り、背嚢と雑嚢とを窓側に寄せている。
――もしかしたら、こういう態度を報告しろというのだろうか。
でも、皇太子殿下の行啓が面倒だったのは、下々の間では共通の認識だったし、そんなことを告げ口のように報告したくはない。だいたい、下手な言い方をしたら自分だってお咎めを受けかねない。
考えている間に、月島が膳ににじり寄っていたので、椎久は気を取り直して例の謎の藁籠を月島の側に置いた。持った途端、感触と温かかさで気がついた。
――保温のためか。
蓋を開いてみると思った通りお櫃が入っていた。予想が当たったことにささやかに満足して、椎久は気分良く申し出た。
「装いましょうか」
「いい。自分でやる」
月島はしゃもじを持ってお櫃の蓋を開くと、茶碗に二度ほど装って控え目な山を作った。手を止めて、一度椎久の茶碗を見、それからお櫃の中を見て、ちょっと迷った様子だったが、まるで観念したみたいな顔を一瞬してから、お櫃にしゃもじを放り込んで椎久の方に押しやった。
椎久がお櫃を覗くと、ちょうど月島が盛ったぐらい残っていた。月島の方を見ると、すでに月島は箸を持って、無表情に米を食らっている。少し考えてから、椎久は三分の一程を残して、自分の茶碗に米を装った。お櫃に蓋をした後、冷めないように藁の蓋もはめる。
食べ始めると、腹が減っていたことを実感する。しばらくは箸と食器がぶつかる小さな音だけが続いた。お椀を取り上げ味噌汁を一口啜って膳に置いたところで、何やら雨音がはっきりしてきた気がして窓の方を見てみて、椎久はぱっかり口をあけた。月島も顔を上げ、椎久の様子を見て振り返る。
二人は息を潜めた。小さな白い手が、床近くにある小さな風取りの窓から差し込まれているのだ。
ずいぶん細くて小さな手だった。骨ばった手が、何かを求めるように、ひらひら、ひらひら、と僅かに振られる。
――いや。
ひらひら、とした動きに見えていた細い手は、懸命に伸ばされて月島の雑嚢の紐を掴もうとしているようだった。しかし、格子が填まった小さな窓からは到底届きそうにない。椎久は月島を見た。月島は荷物を引き寄せることも無く、痩せた手の動きをしばらく見詰めていたが、きゅっと口を閉じた。
「しかし、酷い風だな」
唐突に、月島がそう言った。言いながら仕草でお櫃を指さし、寄越せというように手で招く。気づいていないふりをしろと言うことだと察して、椎久はお櫃を月島の方に押しながら会話をひねり出した。
「はい。港の方は大丈夫でしょうか」
「南からの船はずっと止まっていたそうだが、これは北の方からの船も止まっただろう」
言いながら、月島は残った米を全部手のひらに載せ、ぎゅうぎゅうと握って真ん丸いおにぎりを作っている。
「夜の間に収まると良いのですが」
椎久がそう答える間に月島が音も立てずに窓に寄り、懸命に伸びていた手を捕まえた。捕まえるなり、手を上向きに引っ繰り返して、その上におにぎりを載せてやる。
驚いたのだろう、月島が手を放すやいなや、白い手はひゅっと引っ込んだ。雨音に混じってばちゃばちゃと水たまりを踏む音が遠ざかっていく。
ふう、と静かに月島が息を吐いた。それが合図になって、椎久自身も詰めていた息を吐き出した。
「『手が出る』などと言うから、怪談話でもしているのかと思ったが、泥棒か」
これでは客が泊まりたがらないのも無理はない。
「いかがしますか。宿の者に報せますか」
窓を見詰めたまま、月島はしばらく言葉を発しなかった。それから、ゆっくりと首を振る。
「いや。荷物の置き場所に気をつけておけば実害は無い」
潜めた平坦な声に憐憫が混じっているような気がした。
夜半から風の音が酷かったのだが朝になる頃には嵐になっていた。宿の者に船の出入りは止まったままだと言われて、月島はじっとり表情を消して口を曲げている。昨日のように女中と一緒に食事の用意をしながら主人が言った。
「暴風来てるんだって」
「そうか」
月島は外を睨みつけるように窺ってから、宿の主人を振り返った。
「昼食も頼めるか。この分では店が開くのも期待できないだろう」
「まかせな、要るんでないかと思ってた。なんなら鰊も出すかい?」
「豪勢だな」
「兵隊さんがお新香ばかりじゃ堪らんべ」
「なら、頼む」
女中が先に出て、主人も続こうとしたところで振り返った。
「今日はどうするかい?暇つぶしに何か持ってくるかい?新聞とか本とか軍人将棋とか」
「二人だぞ。軍人将棋は無理だ」
「じゃあ、将棋でも碁盤でも」
「使うか分からんが適当に寄越してくれ」
椎久は会話を聞いていて不安になった。将棋も囲碁もやったことがない。それに、この場合、相手はどう考えても上官の月島だ。そんな遊戯に興じる様が全く想像できない。内心悩んでいるうちに、月島の方はごはんをてんこ盛り――今朝はたくさん入っているらしい――にしながら、出て行こうとした主人を呼び止めた。
「ああ、そうだ。縁側にある電話、あれは使えるのか」
「使えるさー。これでも、変な手ちょろちょろする前は客足だって多かったんだ、ちゃあんと引いてあるやつさー」
「後で使わせてくれ」
「はいはい、使う時は声かけてくれよ。宿代と一緒にお代はもらうから」
とうとう何か動きをみせるのかもしれないと緊張しながら椎久は訊いた。
「どちらにかけるのでありますか」
月島はかつかつとご飯を口に運んでもぐもぐ咀嚼してから、落ち着いた声で答えた。
「二十五聯隊だ。船の出入りが止まっていることを報せて指示を仰ぐ。こっちは二人だが、二十五聯隊は大所帯だ。月寒から出る前に止めた方がいいだろう」
別に何も怪しい所はない。椎久は大丈夫そうだと胸をなで下ろし、そんな心持ちになった自分にはたと気がついた。
最初から気乗りはしていないが、月島の為人が分かるにつれ、さらに気が重くなっている。しかし、大隊長の命令は命令だ。消沈しながら椎久はもそもそと機械的に食事を口に運んだ。
電話をするという月島に念のためぴったり着いていく。新たな指示があれば従うのだから、上官に付き従うのはそうおかしな振る舞いではあるまい。月島も別に椎久を追い払うようなことはなく、電話機の発電機をぐるぐる回して交換を呼び出した。
「XX番へお願いします」
会話の様子で察してはいたが、電話が終わった月島はやや渋い顔をしていた。
「どうかされたのですか」
「青森の方が天候が崩れるのが早かったらしい。俺たちが旭川を出た時には、既に船が着かないのが分かっていたようだ」
伝達の機会がずれたせいで一日を棒に振ったのだ、月島軍曹が少々不快に思うのも無理は無い。
――いや。偶然なのか?
もともと小樽で自由になる時間を作ってこの人を泳がせるために、わざと伝達を遅らせた可能性もあるのでは?
疑いが擡げてきて、椎久の手はじっとりと汗を掻いた。
――でも、この出張は前から決まっていた。一週間も前から暴風が来るなど分かっているわけがない。
そう考えて、思いついた疑念を取り消してみたのだが、要領を得ない大隊長の命令を思い出すにつけ、不審は椎久の中に沸いてくる。椎久が思い悩んでいたのが顔にも出ていたのだろう、月島が椎久を見上げて、
「どうした?」
「ああ、いえ......。我々はどうしていれば良いのでしょう」
「待機だな。二十五聯隊にこちらの宿と電話番号は知らせた。受領日時の再調整が終われば連絡があるだろう」
物資受領が今回の任務であったので、完全に時間が浮いてしまったことになる。嵐も酷く、宿に足止めになっている。朝食後、二人でやたらと念入りに武器の手入れをしてしまったらやることが無くなった。今のところ月島が外出しようとする様子は無く、新聞を隅から隅まで見終わると、宿の主人が持ってきた読本を読み出している。
椎久は心中落ち着かず、別の本をぱらぱら捲ってみたり、軍人将棋――結局、持ってきてあった――の黄色と橙のコマを畳にばらまいて弄ってみたりした。ときどき月島を盗み見るが、たまに胡坐を掻いた足を組み直したり正座になってみたりしているぐらいで、凝と本を読むばかりだ。
――いったい何を見張れというのだろう。
あるいは嵐の到来は大隊長にも誤算だったのだろうか。
薄暗い空から止めどなく降り続けていた雨は、昼頃にやや小降りになってきた。昼食を持ってきた宿の主人が、
「このまま晴れるべか」
と言うと、月島は立ち上がって窓を開け、難しい顔になった。椎久も外を窺おうとその横に近づいた。
「どうですか?」
「見ろ。どう思う」
確かに風は収まっており、晴れ間も見えぬではない。
「これは......分かりませんが。暴風の合間というだけのように思えます」
だとすると、嵐はこれから再び酷くなる。主人も窓の外をじっくりみて、うーん、と唸り声を立てた。
「こういう時、無理に船さ出すとまずいんだべな」
今日も無理かもしれないと思いながら二人で膳の前に着く。言っていた通り、朝に比べて鰊の煮物が増えていた。
「ありがたい」
「その分、お代はちょうだいするからな」
戯けたように言ってから主人が出て行く。
二人が食べ終わり膳も片付けられてしばらく経つと、再び雨音が酷くなってきた。
「将棋でもするか」
「申し訳ありません。やり方を知らないのであります」
ふむ、と月島が椎久を見上げて一つ頷く。
「兵卒同士でそういう機会があるかもしれないから、教えておこう。俺も強いわけではないから駒の動かし方ぐらいしか教えられないが」
そう断ってから月島が将棋盤に駒を並べ出した。覚えた方がいいのだろうかと、椎久は盤面に集中した。筆文字の書かれた駒が手前と奥とに整然と並べられていく。
再び手が現れたのはそんな時だった。ひらひら蠢くのを先に見つけたのは今度は月島で、訝しげになった表情に気づいて椎久も窓の方を見、なぜ月島が不審げになったのか理解した。
手が何かを持っていたのだ。
「恩返しでしょうか」
手の主に聞こえないように椎久が小声で囁くと、月島は椎久に表情の無い一瞥をくれてから、黙って差し込まれた物を手に取った。
「何ですか?」
「本だ」
月島は椎久に見えるように少し体をずらした。
「洋書?ですか?」
馴染みのない文字が書かれた本は、新しいものではなさそうだった。むしろ、何度も読まれ持ち運ばれたように角が擦れて丸くなっている。
「ロシア語だな。『КРАСНЫЙ ЦВЕТОК』」
「読めるのですか?」
流暢な音の響きに驚いて訊くと、小柄な軍曹は、少しな、と答えた。
「『赤い花』、か。小説に見えるが」
パラパラとめくって月島はちょっと目を上げ、手がまだぱたぱたしているのを見つけてやや考えてから、背後にいた椎久に言った。
「外に出て、子どもがまだいるようなら入れてやれ。宿の主人には俺から言う。飯でもやってどういうことか聞き出そう」
「はい」
縁側を急ぎ足で抜けて、慌てて表に出た。こちらの動きに気づいていたのか、既に小さな人影が激しい雨の中を遠ざかろうとしている。
「おい!雨宿りぐらいなら――」
途中で言葉を切ったのは、烟るように降る雨の中を小さな背中があっという間に見えなくなってしまったからだ。
戻ると、胡坐をかいて本をパラパラと捲っていた月島が視線を上げた。
「どうだった?」
「すぐに走って行ってしまって捕まえられませんでした」
「子どもだったろう」
「雨が酷くてはっきりとした姿は確認できませんでしたが、そのように思いました」
「掴んで驚かせてもと思ったが、捕まえておけばよかったか。握り飯ぐらいやれたのに」
結局、残されたのは本だけである。
「どうして、こんな本を渡してきたのでしょうか」
「分からんが、読んでみる」
月島は、開いて少し眉根を寄せた。
「どうかされましたか」
「いや。使わないとだいぶ忘れるものだなと思ったのだ。さすがにこの宿に露語の辞書など無いだろうな......」
言葉の終わりはぼやくようだったが、月島は本を読み始めた。
――使わないと忘れる、か。
兵営の中でアイヌ語を話すことは無い。休日に家に帰った際に、言葉が出てくるまでに若干の引っかかりを覚えることがあって、きっと、それと同じことだ。
言われた言葉を椎久はぼんやりと噛みしめていた。
読み進めるのに苦戦しているらしく、月島がページをめくる速度は読本の時と比べて随分遅かった。自分も宿の主人が持ってきた本を読みつつ、ときたま月島の様子を窺うが、小柄な軍曹殿は無表情に読み進めていて、なんなら、しばしば低い鼻の上に縦に皺が寄っている。小説と言っていたが、面白い内容では無さそうだ。ただ、集中を切らすことはなく、ずっと本から目を離さない。
だんだん暗くなってきて、椎久は宿の者を呼んで行灯に火を入れてもらった。それを月島の方に置くと、月島はいったん顔を上げて椎久を見上げた。
「ああ、すまんな」
「夕食にするかと訊かれましたが、いかがいたしますか」
「そうだな、そろそろもらおうか」
そう言うと月島はいったん本を閉じ、目頭の間を右手で揉んだ。椎久は宿の主人に夕食を頼むとすぐに戻った。月島はまだ目を閉じていた。
「お疲れですね」
声をかけると、月島は目を開いて肩と首とをぐるりと動かした。
「まだ掛かりそうですか」
「そうだな。まだ最初の短編しか読めていない」
月島は本を眺めている。
「どんな話だったのですか?」
「狂人が癲狂院に入院してから死ぬまでの話だった」
その何が面白いのかも、あの白い手との関連性も分からず、椎久は我知らず眉根を寄せてしまった。月島の方も考えに沈んでいるような調子で呟く。
「なんでこんな本を子どもが」
「......誰かに頼まれたのでは?」
「それが一番ありそうか」
ごう、と建物が揺れるほどの大風が吹いた。嵐の本番はこれからのようだ。行灯の明かりが呼応するように揺れて、月島と椎久の影も畳に揺れる。
宿の者が夕食を持ってきたので、月島は洋書を宿の本と混ざらないように脇に退けた。
「鰊漬けか」
「漬けだしたばかりでまだ味が熟れてないんだけどね」
配膳が終わると、主人は部屋を出る前に言った。
「軍人さん、窓はぴっちり閉めておいてくれな。立て付けが悪いのか、滑りが良すぎるのか、それ、そこの下側の風取り、どうも隙間から雨風が吹き込みがちで」
「分かった」
「分かりました」
簡単に開くからあの手が外から窓を開けるのだと気がついたが、手のことは二人とも口にしなかった。
宿の主人の足音が遠ざかっていくのを確認すると、月島はまずおにぎりを握り始めた。鰊漬けも真ん中に入れている。
「また来ると思いますか?」
「嵐が酷いから分からんが」
おにぎりを二つ握り終えると、月島は窓の方を振り返り、慎重に荷物の位置を調節した。
「椎久一等卒。手が出たら、お前、すぐ玄関に回ってくれ。今度は俺が手を掴むから、子どもを捕まえてくれ」
「分かりました」
鰊漬けは野菜がしゃきしゃきとしていて、白い米とよく合った。無言で食べている月島の茶碗から瞬く間に米が消えていく。頬を膨らましているわけでもないのに、もりもり米が無くなっていくのはまるで奇術でも見ているようだ。小柄な体のどこに入っていくのか分からず呆けていた時、外の音が急に大きくなった気がした。
「軍曹殿」
椎久が声を潜めて呼びかける。
手だ。
ほとんど同時に気づいた月島は、無言で玄関の方をしゃくった。頷くなり椎久は音を立てないように気をつけながら急いで縁側を移動した。玄関を出ると、酷い雨音が、ばちゃばちゃという水音で乱されている。暗くて見えにくいが、小さな影が暴れているのが確認できる。椎久は雨に濡れながら大股でそちらに急いだ。もうちょっと、手を伸ばせば捕まえられる、というところで急にすぽんと抜けでもしたように小さな影が道路の真ん中に転がった。
「椎久!すまん!滑った!」
すぐに捕まえようと飛び出したのだが、道路に転がった小さな影が反対側に駆け込む方が早かった。追いすがったものの、小さな影がするりと入っていった建物と建物の隙間は椎久には狭過ぎた。建物の裏に回ろうと走ったが、角を曲がって一本裏の路地に着いた頃には暗い夜道に人影など何も無く、ざあざあと雨が道を叩くばかりだった。
濡れそぼちがっかりしながら宿に戻ってみると、月島が玄関まで来ていて椎久を待っていた。手には手ぬぐいと背嚢を持っている。
「すまん。手が濡れていてすっぽ抜けた。着替えは持ってきているか」
手ぬぐいを椎久に手渡しながら、月島が背嚢を持ち上げる。どうやら、椎久の背嚢らしい。
「はい」
受け取って玄関で手早く体を拭い、着替えられるだけ着替えると、宿の者が起きてこないうちに二人は音を潜めて部屋に戻った。
「早く当たれ」
月島が火鉢を椎久の方に押し遣り、毛布を手渡す。ガチガチ震えながら椎久が手を当てていると、月島はさらに湯飲みにお茶を入れて渡してきた。受け取るために伸ばした手も寒さで勝手に震える。
「大丈夫か」
お茶は少し温くなってきていたが、椎久はガクガクと何度か頷いた。それを確認すると、月島は椎久の濡れた上衣と軍袴を衣紋掛けと衝立とを利用して干した。その頃にはどうにか震えが収まってきて、椎久は背中にかけた毛布の上にさらに掻巻をかぶった。その格好で残っていた膳の上の味噌汁をすする。人心地ついて、ふう、とため息をついた時、向かいで椎久の様子を観察していた月島も、問題ないとみて、一つ頷き、座布団に腰を落ち着けた。少しだけ残っていた食事を片付けると、月島が徐に口を開いた。
「昔アイヌから聞いた話みたいになってきたな」
「アイヌの話でありますか?」
「そうだ。確か、コㇿポックㇽと言った」
「ああ、手を引っ張り込む話ですか?」
「それだ」
コㇿポックㇽはいたずら好きの小人だが、貧乏な人間には施しをする。ある時、悪い奴が、施しをもたらした手を引っ張り込んで脅しつけて一生楽に暮らそうと画策する、そんな話があるのだ。
「握り飯を持っていくんじゃ逆ですが」
「くれたのも本だけだしな」
月島は本を持ち上げ、椎久に向かって軽く振って見せてから、
「その話をした奴が、コㇿポックㇽは蕗の下の人という意味で、背丈が俺ぐらいだと言うもんだから――」
「あの、北海道の蕗は内地より大きいですよ。螺湾川の蕗は自分より大きいぐらいだと伯父が言っていました」
早口でそう言うと、月島はニコリともせずに頷いた。
「同じようなことをその時にも言われた。マタギ出身の一等卒が、秋田の蕗も大きいです、と言い出してな」
小柄な軍曹殿は表情を変えずにそう言ったが、内心は推し量れないので、椎久は黙って首をすくめて話を元に戻した。
「姿も見せずに逃げるところは、確かにコㇿポックㇽみたいですね」
「人に見られるのを嫌うのだったか」
「はい、そんなふうに言われています」
月島は椎久を改めて見た。行灯の薄暗い明かりのせいか、瞳が黒々と大きく見える。
「アイヌだったな」
「え?さっきの子どもがですか?」
「そうか、お前はその位置に居たから見えなかったか。捲っていた袖口が俺からは見えたのだ。アイヌの文様のようだった。追いかけた時に見えなかったか?」
まるで言い含めるように、月島が椎久にゆっくり尋ねた。
「ガス灯も消えていますし、上に防寒具を着ていたのでしょう。自分からは暗い影にしか見えませんでした」
「そうか......」
月島の視線が、す、と手が差し込まれていた風取り窓の方に移る。小皿に乗せられたおにぎりが一つだけ残っている。
「一つはやったのですか?」
「ああ。それで誘き入れて手を掴んだのだが......」
月島は少し目を細めた。
「あれもやってしまえば良かった」
陰った声で月島は呟いた。
「こんな冷たい雨の夜にひもじい思いをするのは惨めなものだ」
「はい......」
獲物が少なかった年の冬を思い出して椎久も頷いた。
この人もそんな経験をしたことがあるのだろうか。凶作の年に。あるいは、戦場で。
なんとなく気配を感じて目を覚ます。
起きてみると、掻巻を肩に掛けて胡坐を掻いた月島が、本を畳の上に置いてじっと腕組みをしていた。
寝起きのぼんやりした頭で意外と筋肉がみっちり詰まった人だなと思った。これだけ鍛えているなら、体術も相応の物なのだろう。そこに日清からの古参兵という裏付けがあって、大隊長の「無理だな」発言になったのだろうか。
そこまで考えたところで、突然、相手が上官だったという事実が意識に上ってきて一気に目が覚めた。椎久は慌てて布団の上に正座して縮こまった。
「申し訳ありません。寝過ごしました」
「ん?ああ。いや、まだ早い」
日の出は過ぎているのだろう、薄ぼんやりとではあるが障子の向こうが明るい。
「寝なかったのですか?」
「寝た。起きてしまっただけだ」
会話の間、ずっと月島は本の表紙を見ている。椎久は本と月島を何度か見比べた。
雨は小降りのようで、雨音が昨晩のようには強くない。ただ、時折、大風が吹いてみしみしと建物を揺らした。
月島は考えに耽っている様子でしばらくそうしていたが、やがて立ち上がり、上衣と軍袴を身につけだした。椎久も干してあった軍袴を手に取った。生乾きだったので、困ってしまって眉根を寄せる。下に着る襦袢と袴下は着替えを持ってきたが、兵営を離れている今、上衣・軍袴は替えが無い。迷ったが、履いているうちに乾くだろうと思って、軍袴はそのまま履いた。上衣を火鉢の近くに寄せていると、月島が訊いた。
「乾いていないか」
「あと少しだと思います。襦袢と袴下を洗わせてもらおうと思うのですが、軍曹殿の分も洗いましょうか」
「いや、俺のはいい。お前は早く洗わせてもらった方がいいだろう。少なくともそこに丸めてある昨日のはさっさと洗って干した方がいい」
「はい。ついでに、朝食を頼んできます」
「ああ、頼む」
椎久が朝食を頼んでから服を洗いたいと伝えると、客が他に居ないせいか、女中が他の物と一緒に洗ってくれるという。
「大部屋はどうしても温かくならないからね。もうちょっと乾きやすい所に干してあげますよ」
恐縮しながらじっとり湿った服を渡して大部屋に戻ると、そう経たないうちに朝食の膳が届けられた。
「雨は収まったみたいだね。風酷いから船の様子はまだ分からないけど、もう少し経ったら港に訊きに行ったらどうだい」
宿の主人に言われて月島は頷いた。
「ああ、そうしてみる」
それで二人で手早く飯を掻き込んだ。出ようかという頃には、椎久の軍服もどうにか乾いていた。外套を身につけて外に出る。風が強いので寒いと言えば寒いが、昨晩ほどの大風では無かった。
宿から港はすぐだ。既に何隻か桟橋に小さめの船が着いていて、人足が荷物を下ろしている。沖の方を見ると、湾を抱え込むように何かが陸から伸びていて、椎久は首を捻った。
「どうしたんだ」
「ああ、いえ、あれは何でしょうか」
「あれ?」
「あの、岩にしては真っ直ぐな灰色の」
椎久が手を伸ばして指す物が月島には最初分からなかったようだったが、やっと理解して頷いた。
「防波堤というものだ。俺が小樽に居た頃に作られた。あれがあると港の波が小さくなるそうだ」
「では、あちらの高い桟橋のような物はなんでしょうか」
椎久が指さしたのは、防波堤の内側、港に突き出た建造物だ。
「あの辺りは手宮か。......なんだろうな。あれは俺が居た頃には無かった。桟橋にしては高すぎるが」
この人は小樽に居たことがあるのだ、と思いながら椎久は月島の様子を窺う。目を眇めて海を見ていた月島はすぐに興味を失って、行くぞ、と声をかけてきた。そのまま二人は港に建つ建物に行き、事務員に声をかける。
「もし」
例によって月島は〈愛想の良い軍人さん〉に切り替わっている。事務員が手を止めてこちらを向いた。
「はい、何か」
「南からの船は再開したか分かりますか。青森からの船を待っているのです」
「ああ、大丈夫だと思いますよ。ただ、嵐を待避していた船がたくさんあって混雑しているから、落ち着くまでは先に近辺にいた船の出入りを待ってもらわないといけないと思います」
「なるほど、ありがとうございます」
聞くだけ聞いてしまうと建物をすぐに出て、月島は宿に向かって歩き出す。寄り道しようとする様子も無い。宿に着いてみると、ちょうど主人が縁側の電話でしゃべっているところで、二人を見てすぐに手招きした。
「あ、今、帰ってきました。軍曹さん!札幌の聯隊からだって」
「分かった、ありがとう」
月島が急いで靴を脱いで電話に出る。椎久は一歩下がって横で漏れる会話を聞いた。そんなに長くはかからず、受話器を置くと月島が部屋に向かって歩きながら説明した。
「船はもう出ているそうだ。小樽に着くのは夕刻を予定している。小樽の天気が収まってきているのも伝えた。二十五聯隊もその頃に合わせて到着するそうだから、港で合流する」
障子を開けて大部屋に入るなり、月島が椎久の方に向き直った。
「今日の夕方まで時間が有る」
「?」
少し迷うような様子を見せてから、月島は椎久を見上げてゆっくり言った。
「お前、あの子どもを探してきてくれないか」
「あの白い手の?」
ああ、と月島は考えるような調子で言った。
「引っ張り込もうとしたから、もう向こうからは来ないだろうと思うのだ」
月島は少し下を向く。そこには手が差し込まれていた小さな窓がある。
「アイヌ衣装の子どもが一人で小樽の街を歩いていたなら目立っただろう。誰か見ている者がいるかもしれない」
「手が出るのは我々が来る前からのようですし、その可能性はあるかもしれません」
「アイヌ語は俺には分からん。見つけ出したら、話を聞いてくれないか。何でロシア語の本なぞ渡したのか。誰かに言われたのなら、それは誰だったのか。誰かを知らなくてもいい。どんな外見のどんな人間だったのか」
いや、とそこで月島は言葉を切って、口元に見えるか見えないかぐらいの控え目な笑みをのぼらせ、黒々とした瞳でもう一度椎久を見た。
「一度ぐらい、落ち着いて温かい飯を食わせてやりたい」
急に、椎久はこの人に狂おしく従いたくなった。
「服装――いや、模様は覚えていますか」
「模様?」
「袖の」
「あー」
困ったように二度三度部屋の中を見回すような仕草をしてから、月島が縁側に顔を出して怒鳴った。
「すまんが、何か、書くものは無いか!」
しばらく反応が無かったが、窺っていると玄関の方から宿の主人の声がした。
「何でも良いんですか!」
「何でも良い。反故でも何でも!」
やれやれといった調子で主人が紙と鉛筆とを持ってきたのはしばらく後で、月島はそれを畳の上に置いて、何やら模様らしき物を描きだした。しばらく自信なさげに歪んだ曲線を描いていたのだが、眉根を寄せて描いた物に×を付けると、改めて横に模様を描き出し、それもなにやら妙な線になっていく。しばらくそれを繰り返していたが、月島は、とうとう、すん、とした顔で椎久を見上げた。
「俺に絵心はない。模様もどうだったか、だんだん分からなくなってきた」
「えーと......」
弱ってしまって、椎久は口籠もった。慣れない手つきで鉛筆を動かしているのを眺めていたので、申し訳ないような気分にもなっている。お互いに妙な顔で見つめ合っていた時、月島が小声で、すまん、と言ったので、なんだかそれで腹が決まった。
「分かりました。できる限りやってみます」
「頼む」
「軍曹殿はどうされるのですか?」
「俺はここで待ってみる。可能性は低いと思うが、探しに行っている間にまたここに来るかもしれない」
言いながら、月島は外套を脱いで衣紋掛けを取った。
「時間を決めよう。探すのは暗くなる前、十六時までだ。それで見つからなければ速やかに戻ってこい」
「はい」
「ああ、一寸待て」
もう一度玄関に向かおうとした椎久を月島が呼び止める。何だろうと振り向いたものの、月島がごそごそと上衣を弄り、頭をひねったので、椎久はおそるおそる申し出た。
「財布は雑嚢の中だと思います」
動きを止めて、月島は椎久を見上げてゆっくり瞬きを一度した。それから、黙って雑嚢を開けて、ん、と小銭を椎久に渡した。
「昼はこれで食え」
表情を浮かべない真面目な顔が、決まりが悪いのを誤魔化しているように思えてならない。ちょっと笑ってしまってから、椎久は急いで表情を引き締めて、はい、と受け取った。
とはいえ、手掛かりはほとんど何も無いに等しい。椎久は通りに出たものの、途方に暮れてしまった。
子どもが見つかるのなら、椎久も見つけたかった。あんな夜に一人で出歩くような暮らしだというのなら、本当は昨夜捕まえてやって、一晩だけでも温かい寝床で眠らせてやりたかった。
人混みに紛れて物をくすねなければならないのだとしたら、大通り沿いに誰か見た人があるかもしれない。天気が良くなってきて人の通りが多くなった道を、椎久はアイヌ装束の子どものことを訪ねて歩いた。だが、成果が無いまま手宮駅に辿り着くまでで、相当時間を食っていた。大きな操車場の近くで、人足たちに混じって鰊蕎麦を啜る。朝、遠目で見た海に突き出す謎の構造物を、今度は近くで眺めながら椎久は首を傾げた。
「兵隊さん、どうした?」
近くで同じように蕎麦を啜っていた男が声をかけてくる。
「あれは何かと思ったのです」
「ん、あれかい?桟橋だって」
「桟橋?だって、あんな高い船は無いでしょう。飛び降りるわけにもいかないですし」
「俺もよく知らないけどね、高架桟橋だかなんだか言って工事してて、できたばかりなのさ」
説明されてもそれが何なのかちっとも分からなかったが、この際と思って椎久は訊いてみた。
「最近、アイヌの子どもを見なかったでしょうか。アイヌ装束で、色内大通りを歩いている」
「アイヌ?」
男が自分を上から下までじっくり検分しているので、椎久は居心地悪い気分になった。どうせ、自分がアイヌだからなのだろう。何を言われるかと身構えていたが、男は特に椎久には言及せずに、見たことねえなあ、と言った。
「こっちよりも反対の方向じゃないか。公園の方」
「公園?」
「そう。この夏にな、皇太子殿下のご宿泊のために作った御殿、あれが有る所さ」
「ああ」
聞いたばかりの話である。
「御殿を作った所を公園にしたのですか」
「逆、逆。もともと公園だった所にご宿泊所を建てたんだ。皇太子殿下がお泊まりになった後、建てた金持ちが寄贈して、區の公会堂ってやつになったのさ。そこが、ちょっとした山というか丘になってて、そっちの方でたまにアイヌを見かけるとか見かけないとか」
「なるほど」
椎久は蕎麦の代金を机の上に置いて、立ち上がった。逆方向というなら、早く行かないと夕方になってしまう。椎久は宿の前までは急いで戻った。宿の玄関はぴったり閉まっていて動きが無い。
月島の方に子どもは現れなかったのだろうか。子どもが来ていれば月島自身か宿の者に頼んで椎久を呼び止めてくれそうなものだが。
――続けるか。
椎久は、午前中とは逆の方向に大通りを歩きながら、また念入りに子どものことを聞いて回った。公園の場所も聞いて、そちらの方向に足を向けてまた人に聞いて回っていると、
「アイヌ衣装の?ああ、それなら――」
「見かけたのですか?」
身を乗り出した椎久に、街角で立ち話をしていた近所の者とおぼしき女性が数人、頷いた。
「たまに来るさー」
「その子はどちらから来るのですか?」
「だんだん大きくなって、子どもって感じじゃ無くなってきたよね」
「娘さんって感じで」
「娘さん?」
どうも雲行きが怪しくて、椎久ははたと動きを止めた。
「子どもではないのですか」
「子どもというより、もう年頃だよ」
「ずいぶんな別嬪さんさ」
「たいてい、軍人上がりの男といっしょに居るね」
「その男もアイヌなのですか」
「違うと思うよ。着物の上に、あんたが今着ているみたいな外套着ててさ」
別の女性が、違うよー、紺色のだよーと口を出す。そうだった、そうだった、と女性は話を続ける。
「顔に大きな傷があるんだよ」
「アイヌの女性がですか」
「違う違う、男の方さ」
「物騒な輩かと思ったけど、案外、気の優しい男でね」
「あの傷、戦争で付いたんだってさ」
それにちょっと顔が良くてさ、この間なんか――と女性たちの話がどんどん逸れていくので、
「待ってください、男はどうでもいいのです。聞きたいのはアイヌの方なのです」
言いながら、椎久もこれは違うなとは思ったが。
「集落が近くにあるのですか」
「あるんでないかねえ。熊の皮なんか持って売りに来ることあったから」
「たいてい、山の方から来るよ。公園のある方向なのかな」
――コタンがある。
椎久は背を伸ばして、山の方を仰ぎ見た。暴風が過ぎ去った今、空は青く澄み渡っている。
――だめだ。今から山に探しに入っていたら、十六時には間に合わない。
月島だけならともかく、夕方にはもう二十五聯隊と合流で、その後は公務だ。遅れることは許されない。外套の下、上衣の物入れの上に触れる。木札の公用証の固い感触がそこにある。椎久は目を閉じ――断念した。
ありがとうございます、と礼を言って、とぼとぼと上ってきた坂を下りていく。兵隊さん、公園は上だよ、と後ろから声が掛かったが、椎久は口の中だけで、はい、と呟いた。
重い足取りで海の近くの大通りに戻り、人通りの多い道を歩いて宿へと戻る。大部屋に入ってみると、今日は別な客が反対側の隅に居た。そちらに会釈して、陣取っていた入り口近くの角を見ると、荷物も布団も奇麗に整頓されているが、月島がいない。
椎久は、焦って玄関に戻った。
「すいません」
奥に声をかけると、ごそごそと人が動く音がして、主人がのんびり顔を出した。
「おや、兵隊さん。どうかしたかい」
「月島軍曹を見かけませんでしたか」
「おや、まだ帰ってませんか」
「大部屋にはおられなくて」
「桶を借りたいっていうんで渡したら、それを持って出ていったから、銭湯だよ」
ずいぶんな長風呂だねえ、と主人が笑う。
――銭湯なら出て行ってからそこまで時間は経っていないはずだ......
落ち着こうと思って椎久が自分に言い聞かせていると、微妙な顔になっていたのだろう、主人が笑いかけた。
「上官だけ銭湯に行っちゃったって顔してるな」
「いえ、そういうわけでは」
「行くなら桶貸すけど。そうそう、服も乾いてるよ」
「いえ、あ、はい」
どちらに先に答えたら良いのか迷ってしどろもどろになっていた時、ガラリと後ろの引き戸が開いた。
「椎久か」
「軍曹殿」
外套を着込んだ月島は、顔がほっこり上気していて、心なしかこざっぱりしている。月島は椎久に何か言おうとしたが、ちらっと宿の主人に目をやって、
「桶、助かった。ありがとう」
と桶を差し出した。
「軍曹さん、部下にも銭湯入らせてやんなよ」
「そうだな。まあ、出立の準備をしてからだ」
「お、とうとうご出立かい」
「ああ。後で勘定を頼む」
「はいはい。計算しておくよ」
主人が引っ込むのと同時に、月島が促すので大部屋へと向かう。部屋に入り、他の客が十分離れた所に居るのを確認する。月島が外套を衣紋掛けに掛けるのを椎久は凝と観察した。
「軍曹殿」
「なんだ」
「汚れましたね」
「ん?」
椎久は外套の裾を指さした。前側の裾の一部が、炭が擦れたかのように黒ずんでいた。
「いつの間に......しまったな」
「せっかく銭湯に行ったのに」
「こんな汚れが付くような所は無かったと思うが、まあ、分からんな。人通りも多かったし」
「そうですね」
椎久は月島を見る。月島も椎久を見上げる。しばし、無言が二人の間を流れた。だが、それは束の間で、月島は何事もなかったように衣紋掛けを鴨居に架けると座布団を敷いて座り、もう一枚を椎久の方に差し出した。椎久は外套のまま黙って座った。
「その分だと、見つからなかったようだな」
「はい。近くにコタンがあるのは分かったのですが」
「そうか」
ふう、と軽く息を吐いて、月島は目を閉じ、顔をやや上に向けて首を振った。
「時間切れだな」
「はい」
「無駄骨を折らせた。悪かったな」
「いえ」
「どうする、お前も銭湯に行ってくるか。集合時刻まで十分時間が有る。積み込み後はそのまま旭川まで汽車に乗ることになる。いったん、さっぱりしてこい」
「そういたします」
椎久は黙りこくって準備をし、桶を借りて銭湯に行った。湯船に浸かる。兵営での入浴は時間が決まっていて芋洗いのような有様だから、手足を伸ばせるのは有り難かった。ふう、と息を吐いて、椎久は目を閉じた。銭湯に来たのは風呂に入りたかったというより、一人になりたかったのだ。
気づいていることは、ある。
――テクンペ。
窓の外から伸ばされていたから、確かに袖は見えなかった。ただ、手の甲は見た。あの手はテクンペをしていなかった。もちろん、ごく近くに住んでいたからとか、たまたましていなかっただけだとか、可能性はあるのだが......
パチャリ、と椎久はお湯を掬って顔を両手で擦った。
考えてみたら、コㇿポックㇽのことも袖口の文様のことも、言い出したのは月島軍曹だ。
考えに耽ってのぼせる寸前、椎久はやっと湯船を出た。こざっぱりとした体に軍服を纏い、外に出て冷えた外気を吸うと、頭がはっきりした気がした。わあ、と甲高い声がして、子どもが数人横を走って行く。椎久は微笑してそれを見送った。
「戻りました」
「おう」
大部屋に戻ると、月島は既に荷物を作り終えて例の手が持ってきた洋書を読んでいた。椎久も着替えを背嚢に詰め直して、荷物を整える。ほどなく、二人は宿を出立した。客の入りが無い時に泊まったからか、主人は丁重に見送ってくれた。
港に行くのかと思っていたのに、月島が色内通りを西に歩き出したので、椎久は慌てて追随した。
「どちらへ行かれるのですか」
「手宮だ。そちらの方が港と駅が近い。軍用貨物の専用列車がそのまま入る。第二十五聯隊はそれに乗ってくる」
「なるほど」
手宮に着くと、停車場の外に整列しようとしている軍服の一団を見つけたので、急ぎ足で近づくと、将校が一人こちらを見て目を細めた。
「時間通りだな、月島軍曹」
「お久しぶりです、佐藤中尉殿」
こうなれば後はその将校の麾下に入って指示に従うだけである。船は既に到着していた。船から降ろされた木箱を列車に積み込む。二十五聯隊の中尉と月島軍曹は顔見知りのようで、二人で荷物の数を確認していた。下士以下は異動も無いのに、古参なだけあって、異動やら出張やらでやってくる将校を案外知っているらしい。
椎久は、何も考えずにただ黙々と手を動かした。汽車が動き出すと、警備はほぼ第二十五聯隊で、椎久は来た時と同じように月島の隣に座った。
白石駅で積み荷をだいぶ下ろし、それについて二十五聯隊の人員もほとんどが降りていく。椎久が不思議そうな顔をしたのに気づいたのだろう、中尉を見送ってから座席に戻ってきた月島が説明した。
「第二十五聯隊の兵営はこの駅の方が近いのだ」
「そうなのですか」
飯が配られ、交代で貨物車を見張り、岩見澤に着いたのは八時を過ぎた頃だった。夜の暗いホームに第二十七聯隊の一団が整列しているのを見て、椎久は酷く安心した。第二十五聯隊とはここで完全に交代らしい。軍曹同士で敬礼を交わし、列車が動き出す。
交代要員は椎久の内務班と月島の内務班が半々程度だった。椎久の内務班からは伍長以下が来ていたので、この場の責任者は月島だということなのだろう。頭数を数えて、月島は素早く交代表を作って、全員に通達した。
月島は自分の班員の方に混じっている。凝と見ていると、椎久の内務班の伍長が椎久に近づいてきて小声で訊いた。
「班長殿が気にしていたぞ。大丈夫だったか」
「はい。暴風が来て船の予定が遅れてしまいましたが、それ以外は問題ありませんでした」
「そうか......」
声に含みを感じて伍長を見ると、伍長は難しい顔をしている。
「伍長殿。月島軍曹のこと、何かご存知でしょうか」
だが、伍長は伍長で分からんと首を振った。
「上に目を付けられているようだというのは感じるんだが......。お前は今回それに巻き込まれたのだろう。班長殿は『藪をつつくな』と言っておられた」
「そうですか......」
自分の内務班員に囲まれている月島は、行きと同じく無愛想な顔で座っている。だが、時々、兵に話しかけられ、邪険にすることも無く何事か受け答えしている。
慕われているのだ、と思った。
旭川に着くまで椎久はその光景を黙って眺めていた。
軍の特別編成列車は、燃料・水の積み込みと乗員の交替のためにしか停まらない。普通列車だった行きと比べて、急行以上の早さで旭川までを駆け抜ける。近文で本線から分かれて引き込み線に入ると、練兵場まではすぐだった。夕方に小樽を出たというのに、夜にはもう着いている。
暗い中での荷下ろし作業は効率が悪いため、それは明日やることになった。練兵場からひとかたまりになって兵舎へと戻る。
小樽中を歩き回って、その後はずっと汽車だ。すぐにも就寝して明日に備えたかったが、大部屋に戻って荷物を棚に片付けた時、今度は班長殿が呼びに来た。促されるままに廊下に出ると、班長は苦虫を噛み潰したような顔をして、
「大隊長室に行け」
と囁いた。椎久はじっとりと手に汗を掻きながら、はい、とだけ返事する。ノックをする前に一瞬躊躇ったが、観念して扉を叩く。
「椎久一等卒であります」
「入れ」
「失礼いたします」
教科書のような礼をして椎久は中に入った。大隊長は前と同じように、執務机を前に着席している。
「どうだった」
「嵐で予定は狂いましたが、物資の受領は完了しました」
「そうではない」
じろり、と大隊長が睨み付ける。椎久はぐっと手を握った。
「国鉄で小樽まで、ずっと一緒に居りました。月島軍曹は途中下車することも無く、まっすぐ小樽に行きました」
「小樽では」
椎久は目線を水平に保ち、大隊長の頭の上あたりから視線を動かさずに続けた。
「......ずっと一緒に居ました。宿は大部屋でしたが、嵐のためか他に客は無く、軍曹殿と二人、屋内に閉じ込められたような状態でした」
「四六時中見張っていただろうな」
「用便などで短い間離れたことはありましたが、軍曹殿はどこにも出かけられませんでした。出かけようとする様子もありませんでした。その後、第二十五聯隊からの連絡通りに手宮で合流し、本日只今戻って参りました」
「本当だな」
「はい」
目を大隊長の頭の上にぴったり合わせたまま、椎久は報告口調で言った。
「暴風が来ていたのであります。あるいは、軍曹殿も機を逃したのやもしれません」
そこでやっと椎久は大隊長を見た。
「意見は聞いていない」
大隊長は明らかに不機嫌そうだった。
「申し訳ありません」
「いい、分かった。下がれ」
「はい」
速やかに椎久は退出し、大部屋に戻って自分のベッドに潜り込んだ。
翌日、例の「月島ァ」が聞こえてきて、椎久は笑ってしまった。
見ると、鯉登少尉が厳しい顔をして廊下で月島軍曹を呼び止めている。月島は眉すら動かさず、すん、とした顔を少尉に向けた。二人は何やら話をしていて、月島が仏頂面で何度か首を振っているのが見えたが、椎久には会話は聞こえない。
戻ってきたな、と思った。
早く状況を聞きたいというのに、月島が鯉登に応じて官舎にやってきたのはゆっくり外出の時間がとれる日曜日になってからだった。
「大丈夫だったか、あの椎久という一等卒」
腰を落ち着けるなり鯉登が訊くと、月島はもらった座布団に正座して慌てずゆっくり頷いた。
「道中、会話をしながら様子をみました。始終、こちらを窺ったり考え込んだりしている様子ではありましたが、私の荷物を探るでもなく、襲いかかるでもありませんでした。ごく普通の、良心的な人間でしょう」
月島は、ふう、と息をつき少々背筋の力を抜いた。
「椎久の所属する内務班の班長にも行く前にどういう性格かは聞き取りました。その感触でも、人のあらを無理に穿る人間には思えませんでした。それに、椎久が大隊長に呼び出されたのは、小樽派遣前の一度だけです。大隊長と気脈を通じているとは考えづらい」
「そうは言うが、入隊から今までを見張っていたわけではあるまい」
月島は言い含めるように鯉登に言った。
「いいですか、兵卒が他の兵卒や内務班長の目を盗んで部屋を離れることは難しい。ましてや大隊長の部屋なり居所なりに行けば、目立って仕方がない。私だって、こうやってここに来ることは隠せもしないから隠しもしないのです。前から大隊長と繋がっていた可能性はかなり低い。それはお話ししたでしょう」
別に探りも入れずに出たわけではないのです、と月島はじっとりと鯉登を見た。しかしな、と鯉登が胡座のまま腕組みする。
「大隊長がわざわざお前と違う班の兵を指名したのだ、気にもなる。だいたい、下士一名と兵卒一名だけ派遣するというのが異例ではないか」
「だとしても、何をやらせるにも人選が悪い。例えば、私が何か良からぬことをやると考えていたとして、止めるなら、同位の者かそれ以上の者を選ぶべきです」
「殺すつもりなら」
低く潜めた鯉登の声に、月島はぴしゃりと即答した。
「複数つけます。それが鉄則です。軍曹一人に兵卒数人。おかしくはないですし、大隊長の立場ならそれぐらいは動かせる」
「まあ、そう、なんだが」
鯉登の声は普通になったが歯切れが悪い。心配していたのは分かるので、月島も声を少しだけ和らげる。
「そして、探りのつもりなら同行者はやりにくい」
「それだ。小樽で他の者に尾行けられていたとか、そういうことも考えられる」
「尾行けられるも何も、暴風が来ていましたから足止めを食って宿に籠もりっきりです」
そもそも何をしようというのですか、と月島は呆れたように首を振った。鯉登が不満げに組んだ腕を揺する。
「椎久一等卒の方は宿に居る間何をしていた」
「所在なさそうでしたよ。私の方が上官ですから、寛ぐこともできない。そういう意味では無意味な命令に巻き込まれて気の毒だった」
だいたいですね、と月島は正座を崩してあぐらを掻いた。
「大隊長というのは兵卒には遠いんです。営内で毎日顔を合わせるのは軍曹以下です。急に呼び出して自分のために何かをさせようとしても、兵卒にとっては益が無い。あげくに、大隊長はあの性格だ、下の者が進んで働きたくなるような人物ではない」
「言うなあ、お前」
鯉登はにやりと笑って、急須に茶葉をざっと入れ、火鉢からしゅんしゅんと湯気のたつ鉄瓶を取り上げてぞんざいにお湯を注いだ。月島が、す、とその急須を取り上げ湯飲み二つに分け入れて、鯉登の前に一つ、自分の前に一つ置く。
「それで、大隊長の方はどう思う」
茶をひとくち口に含むなり、渋さに鯉登は口を歪めた。道理で、月島がすぐに注いだはずだ。だが、茶葉を適当に放り込んだのは自分なので文句は言えない。
「大隊長の思惑は奈辺にあるか、ですか」
月島の方は鯉登を観察して、慎重に湯飲みに口を付けた。渋かったはずだが、表情に全く変化がない。
「うむ。今になって何を探ろうというのか。何がきっかけだったのか」
こっくり一つ月島が頷いた。
「小樽に行った時に思いついたのですが」
「何をだ?」
「夏に皇太子殿下の行啓があったでしょう」
「ああ」
「あの時、随行で東京から武官が来ていました」
鯉登が口元に手を当て思案顔になる。
「そうだな......。どういう経歴の人物か気にもしていなかったが、金塊の件か権利書の件に拘わっていたなら、何か言われたのかもしれんな」
「将官同士の繋がりで少尉殿の方にこそ探っていただきたい所ですが」
「分かった、探ろう」
「もっとも、もう金塊の件から二年は経っている。本当に今更です。大隊長の方も探りを入れるという体裁だけ取ってお茶を濁したかったという可能性もあります」
「だから、一等卒にした、か。だったら、大隊長殿もそう捨てたものではないか......」
渋いのを忘れて再び不用意に口を付けてしまって、鯉登は口を曲げてから湯飲みにお湯を足した。
「大隊長の従卒の兵は引き込んであります。動きがあればお知らせします」
言われて、鯉登は動きを止め、それから、笑い出した。
「油断も隙も無いな」
「お褒めにあずかり恐縮です」
月島がすまして言った。にんまりと笑みを浮かべたまま鯉登が問う。
「それじゃ、お前、小樽では暇を持て余す羽目になっただけか」
「いえ、それが」
「?」
月島は上衣の下から本を一冊取り出した。
「露語の本?」
「実は――」
手早く月島は、宿に現れた子どものことと、この本が差し込まれたことを説明した。
鯉登は姿勢を正し、本を手にした。一枚一枚ページをめくる。書き込みがあるでもない。印があるでもない。ロシア語は読めないが、至って普通の印刷された本に見える。
鯉登は黙って本を机の上に置き、静かに月島を見た。
「内容はなんだ」
「小説本です。短編集です。自分も最初の一編を読んだだけですが」
鯉登がゆっくり訊いた。
「心当たりは無いのだな」
月島もゆっくりはっきり答える。
「ありません」
本を手に取り、表紙を少し撫でてから、月島はそれを机の上に置いて鯉登の方に押しやった。
「お読みになるなら差し上げます。自分の物とも言いがたいですから」
「お前ではないのだ、露語など読めん」
そう鯉登が言ったにも拘わらず、もう本になど関心を失ったのか、月島も本に手を出さない。
結局、月島はそれを鯉登の元に置いていった。
「まあ、赤くはなかったんですが」
部屋を辞する前にごくごく小さな声で呟いたのを、鯉登は聞き逃さなかった。
「?」
声を掛ける前に月島は外へ出て行った。小柄な部下が寒空の下兵舎へと帰ってしまうと、鯉登は胡坐を掻いて座り込み、腕組みをして置いていかれた本を眺めた。そうやってしばらく考えてから、鯉登はその本を丁寧に棚にしまった。
鯉登がその本の内容を知ったのは、数年後だった。大学校に通うために上京した折に、たまたまロシア語を選択した学友が本棚にあったこの本を手に取ったのだ。
「お前は小説なんぞ読むような質では無いと思ったのだがな、鯉登」
と、手に取った本をパラパラと捲り、
「しかも露語原文とくる」
「もらった物だ。私には読めん」
貰い物ゆえ捨てるに捨てられなかったが、と、さも何でもなさそうな素振りをしてみせてから、鯉登は訊いた。
「読めるのか」
「まあ、読もうと思えば」
「読むなら貸すが」
興味を持つかは賭けだなと思ったが、人の本棚でわざわざそう言ってきただけあったのと、ごく短編であったのとで、読む気になったらしい。貸したことも忘れた頃に、学友は酒と本とを持って鯉登の下宿に現れた。
「まあ、端的に言うと、癲狂院に入れられた狂人が罌粟を畑から根こそぎ引き抜く話だった」
「芥子を?引き抜く?」
芥子、のその一言で、打たれたように鮮やかに思い出す人があった。
「そう、その花を悪の凝り固まった物、神の反逆者だという妄想を抱いて」
「反逆......」
立ち上るように脳裏に浮かんだのは、あの、五稜郭に突入する前のあの、敬愛する上官が兵を鼓舞する演説だった。
そうだ、
赤くなかったんですが、という呟くでもなく零された声が鯉登の脳裏に浮かんだ。
〈了〉
ナチュラルに書いてしまったけど,この月島は(1)鶴見中尉の生存を知っている か (2)鶴見中尉の生存を信じている か(3)鶴見だったら後始末指示の時限発動ぐらい仕込んでいると思っている かのどれかです.この話と繋がっているのかも.当初は題名にある通り『赤い花』という小説を渡されるところが肝で,長い話にするつもりではなかったんだけど,当時の汽車のことを調べたら楽しくなってきてしまって,「モブ兵から見た月島軍曹」みたいな話になってしまいました.
軍曹の口調って難しくて,「なんなのだ」とか「めんどうくさい」とか,きっちり発音するんだよね.そういえば,「なんで聞かないんだ」は撥音便になってたか.となると,「公人としてはきっちり」で「私人として(素)は崩す」んですかね.有坂閣下との発遭遇の時の「もし...どちら様?」が好きなので,初めて会う一般市民には丁寧口調にしました.
夕張で1回財布を忘れる描写をされたばかりに,財布を忘れる人にされちゃって可哀相(他人事).夕張のアレは話の展開上そうなっちゃっただけであって,いつもはそんなに抜けてないと思う.話の中で軍曹が奢ってますが,なんか当時二等卒と軍曹とで給料が8倍ぐらい違っていたので,そういうことにしました.もっとも,下士兵卒だけで出張なんてなかったろうなぁ.
一等卒が「居眠りしても怒られなかったんじゃ」と思ってる場面がありますが,居眠りしてたら怒られます.市民の規範にならなきゃいけなかったようなので.決まりはきっちり守らせそうな印象を持っています.
佐渡から見える霊山は,春に宿根木に行った時に案内所のおいちゃんが「冬になったら立山が見えるよ〜」と言っていたのです.地獄だけ書きましたが,極楽もあることになっている山です.
書いている時期にたまたま仙台市歴史民俗資料館に行ったおかげで,ちょぼちょぼ展示物の影響を受けています.小樽駅前の人力車は,仙台駅前にわーっと人力車が行き交っている写真を見たせいです.当時の小樽ならたくさん人居そうだし,同じっくらい賑わってそう.めしいじこ(つぐら)もここの展示で見ました.お櫃もたらいかと思うぐらい大きかった.
当時,小樽で改札鋏のゴミが散らばっていたか分からないけど,スタンプになる前の吉祥寺は散らばってたので,ちょっと書きました.乗降客がどれぐらいいたかにもよると思うんですがね.たぶん,自分は窓の開く特急で駅弁買ったことのある最後ぐらいの世代だと思う.あとね,駅で止まっている時にトイレ使っちゃだめだったのよ.......(「開放式トイレ」で検索してください)
軍人将棋は昔うちにあったんだけど,探しても見つからなかった.判定役が要るので3人必要です.
あと,これを書いている時にやっと思い当たったのですが,学生時代,大学の中庭にあった蕗がやたら大きくて「化学科が怪しげな薬品を垂れ流しているせいじゃないか」というまことしやかな噂があったのですが,あれ,北海道だったから普通に大きかっただけかもしれない.
師団に一番近い駅ってどこかなあと思って,近文の方が近いのかなとは思ったんだけど,結局馬鉄に乗せて旭川に行くやろと旭川からの出発にした.そしたら,この記事には近文駅に接続とある.でも,初代旭橋と馬鉄(もっと知りたい!旭川)の地図を見ると,近文の方に線路行ってないんだよなあ.
国鉄の名称はいつから使っていたのか調べました.1906年(明治39年)の鉄道国有化以降.
1905年(明治38年)から1988年(昭和63年)は,正式には「あさひがわ」駅だったみたい.でも,きっとみんな「あさひかわ」って読んでたと思う.
往事の神居古潭駅の様子が知りたくて.ちょっぴり観光地だった解説がある.
跨線橋《こせんきょう》は,駅構内で線路の上を渡るために掛かかっている陸橋のこと(旧国鉄では発音が紛れないように「りくばし」と呼んだとテレビで聞いたことがある).都市部でホームが何本もある駅だと,みんな普通に乗り換えのために渡ってるけど,この時代はまだそんなになかったみたい.その中で砂川は,北海道でも早い時期に陸橋が架かっていたそうで,それだけ乗換駅として重要だったのだろう.
石炭貨物はもちろんだけど,枕木製造の木工場とか軌道用の砂利採取場なんかもあって,鉄道建設に欠かせない資材を供給していたみたい.三井の工場のあるどちらかといえば木材の街だったようです.
手宮駅は1907年7月1日から旅客取扱い休止しており,大正元年8月11日に再開する.このお話の時期は旅客扱い無し.
庶民は三等で良かったかなと思って調べた.1897年(明治30年)から1960年(昭和35年)は三等級時代.車両記号でよく聞く「キハ」とかの「ハ」は三等(=イロハのハ.普通車)のことなんだって.
昔の旭川の地図を見ていると,第七師団のすぐ近くに「旧土人給与予定地」と書いてあって,それを見る度にたいそう滅入る.
北海道篇は当初は違う曲が付いていた.wikiに譜面あり.この話は1911のつもりで,その頃にはもう多梅稚のメロディーで歌われるようになっていたという想定.鉄道が敷設されていないところでも作詞者の好みで歌詞が作られた場所があるそうです.
汽笛一声新橋を~
しか知らないのは私です.凄く長いことだけは知っていて,調べたら歌詞が出てきた.
小樽のカムイコタンは神威古潭と表記される,らしい.明治三〇年頃の張碓のカムイコタンの写真あり.
在りし日の張碓駅の写真などあります.本当に断崖.
この話を書くために見ていた明治45年(大正元年)の時刻表に「辨當」の表記があるから,駅弁売ってたのは知ってたけど,どんなのだったのかなあと思って調べている途中で見つけました.どんな弁当かは分からなかったけど,日清・日露時代「軍弁」があったのは書いてある.
お茶ほしいなお茶あったのかなと思って.お茶は土瓶に入れて売っていたみたい.長旅だと入れ替えもしてくれたそうな.軍人さん水筒が装備にあるけど,持って行ったら入れてくれないかしらん.
安宿に電話はあったかなかったか迷うところなんだけど,1913年で加入者20万件だし,時刻表の参考にした汽車汽船案内の広告にも電話番号書いてあるので,あった想定で.
電話を掛ける時の交換への会話を知りたかったんだけど,「何番へ」と簡潔に言えとしか分からなかった.実際にそういう具合に機械的に言っていたのか,人に頼む言い方をしていたのか気になる.
この頃は電灯になっていたか行灯だったかで迷ったけど,行灯にしました.余談だけど,「レトロな蛍光灯」の写真を見て,うわあ建て替える前は家にあった~と懐かしくなってしまった.
フキってアイヌ語で何というのかと思って.ただねえ,服を調べた時も分からなくなって挫折したんだけど,地方によって言葉とか文化とか結構違うんだよね.
アキタブキは,藩主と領民の話が好き(佐竹知事のじゃこ天騒動のことを思い出したりした).足寄のラワンブキのことも書いてある.コロポックルって小人のイメージだったけど,蕗が2~3mなら背が高い人でも入れるじゃん.
螺湾川のアイヌ語名が知りたくて.ラ・アン・ペッでいいのかな.
大正天皇が皇太子時代に小樽に来るのに合わせて小樽駅を新しくしたという記述が小樽市総合博物館ガイドブックに書いてあったので,調べたらなんか第七師団の視察があって,旭川が大騒ぎだった.この行啓を知ったせいでこの話は1911年になりました.
明治44年の皇太子小樽行啓の際に宿泊した建物について.小樽で一番大きな住宅を構えていた藤山要吉氏の家への宿泊を打診したら,藤山氏が新しく建物を建てちゃったとのことです.それが旧小樽市公会堂.写真もあります.
ゴールデンカムイ的には小樽には近くにアシㇼパさんのコタンがあるんだけれども.江戸時代から和人が入ってきて住まいだとかそれまでの生活を奪われていったようだ.
当時の北海道の服装が本当に分からん.もうね,日本人,和服が普通だった時代のこと分からないし,雪国・北国でどうしていたのか全然分からないんだよね.
袖口に文様があるのが普通だよな,というのが突然分からなくなって確かめた.でも,地方による違いもあっただろうなあ.
テクンペ調べようとしたらたまたまいろいろな装身具の作り方が見つかった.こういうの見ると作ってみたくなる.
明治時代に天気予報はしてたのか,新聞に載ってたのかを調べてみた.台風は「暴風」と言っていたそうです.
旅行って一般的になってたのかなと思って.当時の時刻表を見てたら旅行鞄とか旅館の宣伝が載ってたから,広まっては来てたのかな.びっくりしたんだけど,JTBって明治45年の発足で,当時は略さずに「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」って名前だったんだって.
北防波堤,色内通り,手宮の高架桟橋が写真で見られます.高架桟橋のことは小樽総合博物館で知ったのですが,模型見てびっくりした.石炭を乗せた貨車が来て,ザーッと船に落っことす.このお話の時期にちょうどできあがってて,兵隊さんたちがそれを見て口開けてびっくりしてるの書こうかと思ったけど,あまりに関係なさ過ぎてやめました(この場面までで散々関係ない描写入れてるし/笑).高架桟橋の描写を入れなかった理由はもう1つあって,桟橋駅の解説に,1911年12月完成,1912年6月使用開始とも書いてあって,稼働していたか稼働していなかったか微妙だからです.
北防波堤ができたのは1908年で,原作の頃.手宮の高架桟橋は1911年.
北防波堤の位置はこちらが分かりやすい.この時代にコンクリートですよ.
小樽港の歴史概説と防波堤のはなし.
知らなかったんですが,1908年には無線電報ができて,公衆電報取扱海岸局というのがあって,船と通信できたようなんです.なら,途中の駅で連絡取れたんでないの?とも思ったんだけど,駅での公衆電報取扱がどういう仕組みが分からなかったので,結局,無駄に早く小樽に行ってもらいました.
終盤の奥さん方は井戸端会議しているつもりで井戸の描写してたら,明治44年7月に水道が通水開始してた!(消し消し)
以前,第二十五聯隊跡を見に行ったんだけど,地下鉄に乗って行く所で,「これ,JRでも別の駅の方が近くね?」と思って調べたら,やっぱり白石駅の方が近くて,そっちを使ってたっぽい.月寒あんぱんの地です.
今回一番見ていた本.どれぐらいの頻度で汽車が出ていたのか,旭川から小樽までどれぐらいかかるのか調べた.この時代,もりもり鉄道路線が延びていった時期で,数年違うだけでものすごく違う.時刻が違うだけでなく,駅ごと出現し,路線が現れるので.汽車の出る頻度とか,掛かる時間,賃金なんかだけ参考に.
北海道における鉄道発祥の地,旧手宮駅の敷地にあり鉄道関連の展示が多い.そのため,ガイドブックには北海道の鉄道の変遷が充実していて,写真も多いので当時の様子を知るのに役に立つ.張碓のあたりの難工事ができたから鉄道が敷けたとか,情報が多い.
余談だけど,金カム茨戸編の警察署の建物のモデルは旧手宮駅長官舎で,野外博物館北海道開拓の村に移築されている.(開拓の村のマップ入口近くの3の建物.イラストをクリックすると写真が出るよ)
地方新聞がいつ発刊になって週刊だったとか日刊になったとかが地方ごとに簡単に概説してある.小樽はこの頃,『北海タイムス』『小樽新聞』『函館毎日新聞』が三強.けっこうこの時代は○○タイムスという名前の新聞が意外に多い.
旭川とか師団とか調べる時はもはやバイブル.第3巻に給与地問題の記載がある.第8巻が『師団歴史』.明治44年の皇太子(のちの大正天皇)行啓の様子は時間単位で書いてある.ところで,明治44年に師団長が砂川に工兵第七大隊を視察に行った記述があるんだけど,工兵は何をしに砂川に行ってたんだろう.砂川大火が明治42年にあるから何か関係あるのかな.
軍人さんが寝る時の服装を知りたかったので.この資料は昭和のはなしだけど,袴下(ズボン下)と襦袢(シャツ)で寝ていたようだ.ちなみに,不寝番は寝相悪い人の毛布を直すのも仕事だったのを知って,ちょっと笑ってしまった.他にも外出の話とか,いろいろ参考になることがたくさん.公用証が腕章になるのは昭和になってからだそうです.
同人誌なのですが,下士官・兵,将校の野戦・通常の外出時の服装がたくさんの写真で見られて,参考になりました.とらのあなでまだ売ってるみたい.(2024.10.27調べ)
書いている最中に,仙台に行って,たまたま仙台市歴史民俗資料館(旧歩兵第四聯隊兵舎であります!)に行ってみたら,当時の道具の資料などいろいろあったので思わず図録を買ってきてしまった.お櫃を入れておく藁で編んだ容れ物は「めしいじこ」というもので,寒い時期に保温に使ってたそうな.ご飯は一日分を一度に炊いていたそうです.仙台の資料だけど,北海道でも使っててもいいやろと書いてみました.「いじこ」は赤ちゃん入れておく容れ物だったようですが,今は使わなくなって,この藁編みの技法は今だと「ねこちぐら」で有名かもしれない.ところで,明治末期からはかれたという下駄ローラースケートあるんですが,樺太編杉元の提案思い出しちゃった.
忘れるところだった.作中出てくる小説は本当にあります.青空文庫でも読めます.この本を読んだことがこの話の組み立ての発端ではあります.
| 二次SS |
ちょっと前にさくらインターネットから「新サーバーへの移行」のお知らせが届いていました.サポートページを見ると,放っておいてもそのうち移行されるみたいだったのですが,タイミングを選べるのと,速度が速くなるということに惹かれて,条件を確認してから移行ツールで移行しました.「移行ツール」とかいっていますが,レンタルサーバーのコントロールメニューから申込をするだけです.自分の場合は,たいしたファイル量でもなかったせいか,1時間ちょっとで「移行ツール処理成功のお知らせ」メールが届きました.
Movable Typeの管理画面があきらかに表示が速くなったし,ページの表示も若干速くなったような?
いま,試しがてらこの記事を書いているわけですが,良い感じです.
| PC/Web |
重い腰を上げて,Movable Typeを8にしました.Wizardが今までと違っているから,どこかで間違えてハマりそうだなあと思っていたのですが,すんなりアップデートしたみたいです.
トラックバック機能やping機能は無くなったようです.たしかに,トラックバックはURL列挙のスパムしか来てなかったからなぁ.
問題無さそうだなと思ったのですが,なぜか記事にコメントを付けようとするとInternal Server Errorになります.エラー画面は出るけどコメントは書けているという.こういう中途半端なのが一番解決できないんだよなあ.......
これ,まだ,解決できていません.どうしたものか.
| コメント (1) | PC/Web |
いつもハマるTeXインストール,もはやTeX芸になっている気がするけれども,また備忘録に記載しておきます.(自分はWindows 11です)
まず,環境構築があまりに久々すぎて,まさに10年一昔みたいになってるんですが,今時はTeX Liveが主流みたい.お馴染みのTeX Wikiの記事を参考にインストールします.
そして,texmf-localフォルダに自分の使うスタイルファイルをコピーします.具体的には,ずっとpLaTeXを使っていたので,texmf-local配下のtex\platexに拡張子styのファイルを入れました.
今回,游明朝・游ゴシックを埋め込みたかったので,texmf-local配下のfonts\opentypeに游明朝・游ゴシックのフォントファイルへのシンボリックリンクを張ります.具体的には,コマンドプロンプトを管理者権限で動かして,
>mklink texmf-localまでの絶対パス\fonts\opentype\yumin.ttf C:\Windows\Fonts\yumin.ttf
のように打ちます.強調した部分がフォントファイルの名前で,yumin.ttfは游明朝標準.この部分を,使いたいフォントファイル名に変えて打ちます.Windowsに入っている游フォントは下記の通り.
次に,dvipdfmxのためにフォントのマップファイルをtexmf-local配下のfonts\map\dvidfmxに入れるのですが,今回のハマったのはここでした.Windows 10, TeX Live 2015でのフォント変更―游明朝・游ゴシックを導入するを参考にTeX wiki経由でhttps://github.com/texjporg/ptex-fontmaps/tree/master/maps/yu-win10に飛んだのですが,4つ有るマップファイルのうち違う物を使っていたみたいでフォント変換時にエラーが出ていたようです.自分の環境ではptex-yu-win10.mapが正しかったみたい.
で,Tex Liveをインストールしたフォルダの\2024\texmf-dist\dvipdfmxにあるdvipdfmx.cfgファイルの最後に
f otf-yu-win10.map
を1行書き足し,ターミナルを開いて,
mktexlsr
と打って,TeXが参照する一覧を更新しておきます.(参考:一覧表の更新 (mktexlsr) について(TeX Wiki))
いちおう,これで動いたみたいで,無事PDFに游明朝を埋め込むことができました.
| PC/Web |
朝食を終えると、いつも少しばかり手持ち無沙汰になる。鯉登などは、もっとゆっくり食えと言うのだが、勤務中の行動は迅速であることが第一だろうと月島は思っている。
下士室は月島一人だ。黙っていれば部屋の中は静かで、それゆえ、近くの大部屋の浮き足だった気配を感じることは容易だった。何せ今日は日曜日だ。朝食が終われば夕食までは外出許可が出る。いくら凍てつく冬だとて、週に一度の楽しみを待ち遠しく思わぬ者はない。しかも、今日はどうやら晴れている。部屋の暖気が窓をすっかり曇らせていたが、日の光がゆるゆる兵舎に射し込みつつあった。
立ち上がり、少しばかり窓の外をうかがっていると、扉の方から声がした。
「斉藤、入ります」
「おう」
飯上げ当番の二等卒は机の前にやってくると、食器が空になっているのを確認してから月島に声をかけた。
「班長殿、お下げしてよろしいでしょうか」
「ああ、頼む。皆も食事は終わったか」
「はい。班長殿をお待ちしているところであります」
「分かった。――食管返納したら早く戻ってこい」
そう言うと、斉藤は少しばかり笑みを浮かべて、はい、と返事した。
しばらく経って飯上げ当番が帰ってきたと思しき足音がしたのを見計らい、月島は自分の班の大部屋に歩いて行った。着くなり声を張り上げる。
「注目!」
ざわめきが急に低くなり、班員全員の視線が月島に集まる。
「これから夕食まで外出を許可する。分配喇叭が鳴る前に戻れ。新兵は街を案内する。八時半までに準備しろ。二、三時間歩くと思え。軍帽・外套着用、帯剣し、手帳を所持すること。分かったか!」
はい、の声が揃わないのはまごまごしている新兵のせいだろう。先任の兵卒に睨まれて縮み上がっている。
「声が小さい! 分かったか!」
「はい!」
今度こそ奇麗に声が揃った。
「新兵以外は解散!」
途端に、ざわめきが甦る。準備のいい者から月島に挨拶をして楽しげに出て行くのを、いちいち頷きながら見送る。あらかたの兵が出て行った頃に、月島は自分も準備するために部屋に戻った。新入兵にとっては入隊後初めての外出だ。引率して公共施設その他主要な場所を叩き込むと同時に、外での振る舞いを言い聞かせ、そして、外に出たからこそ出る性格を見極める。命じた刻限に大部屋に行くと、新兵はしっかり準備を整え、従順に月島を待っていた。今年は面倒な班員は居ないようだ。
「順に出発する。隣の班が出るまでそのまま待機しろ」
はい、の声が朝より揃っていたので満足して頷いた時、突然、廊下から怒号が上がった。
「高橋! またお前か! この時期にそんな格好で外に出られるか! 凍え死ぬぞ! もたもたするな!」
開け放したままの戸口から廊下に顔を出して見ると、隣の大部屋の前でそちらの班長が新兵をどやしつけている。
「どうしたんだ、菅原」
「すまん、月島」
菅原は月島と同じく軍曹だ。月島よりも数年年下だが、月島がうるさく言わないと分かってからはすっかり口調が砕け、またそれが癇に障らないぐらいに人懐っこい雰囲気がある。大部屋の並び順から月島の班の前に出ることになっていたのだが、準備がまだとみえる。
「鈍くさいのが居てな。外套は前を締めてないわ、手袋は無いわ、慌てたのか上着は釦を掛け違えとくる」
菅原は廊下を一、二歩月島の方に歩み寄って眉を下げる。そういう表情をすると、もとから垂れ目気味なのもあって、いかにも申し訳なさそうに見えた。
「先が思いやられるな。徴兵で選抜されているはずなのにそれか」
「背丈だけは高いんだ、背丈だけは。身の丈六尺の大男、ではある。だが、何をやらせても一拍遅れるし、何より性格が大人しい。しょうがないから炊事当番に出したら――」
「何? もう当番の連絡が来たのか? いつもはもっと後だろう」
見落としていたとなると一大事だが、人事を握る特務曹長からは何も聞いていない。難しい顔になった月島に向かって、菅原が手を振った。
「たぶん、お前の所にはまだ来てない。ほら、一ヶ月前に腸チフスが流行っただろう。あれで欠員が出たらしくて、一人出してくれと何班か連絡が来たそうだ。で、だ――」
自分の大部屋の方を身振りで示して、菅原は困り果てたように首を振った。
「炊事掛からえらく文句を言われた。風呂も焚けん奴を寄越すな、と」
風呂は炊事場の隣で、炊事掛下士が取り仕切っている。
「なんでも、刻限が近いのにまだ鉈で薪を割ってたそうだ。焚き付け用意するのを忘れてたって言うから、『火の付け方ぐらい分からないのか!』って、こう」
菅原は、拳を握ってぶん殴る真似をしてみせる。実際にやったのは炊事掛の上等兵あたりだろう。
「だが、新兵を充てたなら教えた奴がいるはずだ。何も高橋とやらだけの責任じゃないだろう」
「まあな。だから、俺も叱りはしたが、最後は『言われたとおりやればいいんだ』と言ってやったんだ。いちおう言えばできるらしい。その後で文句は来ていない」
ふと思い当たって、月島が首を振る。
「いや、できてなかった」
「何?」
「そいつ、ひょろっとした顔の長い奴じゃないか?」
「ああ。それで、いつもおどおどしていてなんだか悲しそうな顔してる」
なら、やっぱり、あれがそうだな、と月島は腕を組んだ。
「火曜に風呂に入りに行ったら、まだ火が入ってなくてな。見に行ってみたら、焚き付けをやっぱり用意していなくて、どこかから持ってきた紙屑でどうにかしようとしていた」
「紙でも何でも火が付けばいいだろう」
「それが、湿っているだの量が少ないだの、別の当番兵にどやされていたんだ」
月島が来たのに気づいて、怒鳴っていた者が気をつけをし、まごまごしていたひょろっとした男が、軍曹殿だぞ! と怒られながら姿勢を正していたのを思い出す。
菅原がく、く、くと肩を震わせた。
「なんだ、軍曹連中が焚き付け作ったとかいうのはお前のせいか」
「尾ひれが付いてるぞ。薪を割ったのは俺だけだ」
「お優しいなあ、月島軍曹殿は」
菅原はからかうように言った後、新兵甘やかすなよ、と真顔で嗜めたが、月島の方は眉根をぐっと寄せる。
「あー......」
――甘やかしたというのか、あれは。
黙って鉈を取り上げて勢いよく叩き割ったら、場がしん、と静まりかえったのを思い出す。
「......いつまで経っても沸きそうになかったもんだから」
慌てて月島と一緒に風呂焚きの兵卒も必死になって薪を割り、月島は薪を一本全部細くしたところでそれを押しつけ、後は任せたのだ。
菅原はにやにや笑いながら、
「せっかちなもんだな。そんなに入りたかったのか」
「焚き付け作ってたぐらいだぞ。入れたのはもっとずっと後だ。時間が押して一等卒以下割を食ったんじゃなかったか」
「それを尻目に月島軍曹殿は先に風呂をいただき満喫した、と」
からかうような言いぐさに、月島は仏頂面になった。
「お前だって軍曹なんだ、一番風呂は同じだろう」
「お前には負ける。いつも真っ先に入ってるじゃないか」
「別にいつもじゃない。――それより気をつけた方がいい」
未だ準備の物音がごそごそしている菅原の班の大部屋を、月島は顎でしゃくった。
「ああいうのは狙われやすい」
「私刑の的になるって言うんだろ」
上官に頻繁に怒鳴られると、周りにもそうしてもいいと認識されやすい。
菅原は自分の後頭部を雑に掻いた。
「分かっちゃいるんだが、見てるとどうも苛々してな。いちおう一番面倒見のいい一等卒を組ませてはやったんだ」
その言葉が終わるか終わらないうちに、突然、何かが落ちてばらまかれたような音がし、菅原がぎょっとして大部屋を覗き込んだ。
「高橋! 何をどうやったらそうなるんだ!!」
何かやらかしたのだろうと推測して月島は、あー、と口を開いた。
「菅原、先に行っていいか」
「すまん、行ってくれ」
さんざん待たせた自分の班の新兵十五名に、ついてこいと命じる。横切る時にチラッと見てみると、寝台の上にあるはずの荷物がなぜか床に散乱しているのが見て取れた。戸口で菅原が仁王立ちし、慌てた新兵たちが右往左往しているのを尻目に、班員に遅れるなと号令をかけて出立した。
門を出て練兵場を回り込み、馬車鉄道を横目に歩かせる。できたばかりの招魂社に寄って参拝させてから更に歩き、斜めに折れる大きな道を歩いて行くと、何本もの鉄材が斜交いにかかった橋が見えてくる。一度は渡って入営したはずなのに新兵にはその形がまだ物珍しいと見える。月島のすぐ後ろを歩いていた新兵がおそるおそる話しかけてきた。
「班長殿、あれは何という橋ですか」
「旭橋だ。まだ掛かって十年も経たない」
橋まで来て木板を踏んで渡りながら、腕を伸ばして中州の目立つ川の辺りをずっと指し示す。
「この辺りは川が蛇行していて出水も多い。大雨の時は覚悟しろ。被害が出れば我々も出ることになる。酷ければ練兵場も水浸しだ」
「はい」
そのまま渡りきったところで右手を指し、ここは公園が出来る予定だと教えた後で、向かいに腕を転じ、奥に伸びていく道を指さす。
「あの道を真っ直ぐ行けば遊郭だ」
言ったのはそれだけだったが、言われた途端に新兵たちがそわそわし出したのは気のせいではないだろう。どうせ、時間と金に余裕ができて遊べるようになるのはまだまだ先だ。特に注釈は加えずに放っておく。
そのまま師団通り沿いに街の中に入り、出来たばかりの真新しい町役場や、警察署・裁判所や支廳のある四条通をざっと案内し、三条通からの商店を説明しながら停車場前まで到着したところで月島はくるっと向き直った。何事かと自分を注視する新兵を見る。特に息を切らしている様子も無いし、ここまでの道行きも素直に付いてきた。今年は悪くないな、と思いつつ、月島はぴしりと背を伸ばした。
「案内はここまでとする。解散後は好きに過ごしていいが、軍人として市民の模範にならねばならん。分かったな」
「はい!」
「朝にも言ったが、食事分配の喇叭の前に兵営に戻れ」
「はい!」
「では、解散!」
本当に離れていいのか迷ったようだったが、散れ散れと身振りで示してやると、ようやく新兵たちは歩き出した。とりあえずは固まって行動することにしたようで、お互い話ながら去って行く。これから満期までを一緒に過ごすにあたって、悪くない様子だった。
引率してきた新兵が人混みに紛れたのを見守ってから、月島自身も雪道を歩き出した。だいぶ高くなった日が停車場前の広場の雪を白く輝かせている。師団通りに面した勧工場はもう店が開いていて、人々が思い思いに出入りしている。
買い物と行っても、衣服は軍服で事足りるし、食事も兵営で出るもので十分だ。観劇の趣味はないし、遊郭は食指が向かない。このまま帰るかどうしようか決めかねたまま白い息を吐きつつ馬鉄の線路沿いを歩いていると、ちょうど洋館作りの書店の中から男が一人でてきた。馴染みの店主で、どうやら店の前の雪をどかそうと出てきたらしく、スコップと鶴嘴を雪に突き刺して月島に愛想良く会釈した。
普段は古書か貸本で間に合わせているのだが、ここに本屋が出来た時に物珍しくて一冊買って以来、しばしば売り込みをされている。月島は買ったり買わなかったりだが、商売人に相応しく話し好きな店主はめげずに見かける度に声をかけてくる。
「こんにちは、軍曹さん。久しぶりじゃないですか」
「ああ。新兵の引率帰りだ」
「そういえばそんな時期でしたね。入営の日なんて停車場前のほら、三浦屋と宮越屋がごった返していましたよ」
「この店も書き入れ時だったんじゃないか」
「うちはぼちぼちですよ。村から出てきた連中が本なんて買うかといえば、そんなにはいませんから」
に、と笑うと店主は白い木枠の扉を招くように少し開いた。
「どうです、寄っていきませんか」
「何か面白い本があるのか」
「話題の本ならありますが、軍曹さんに面白いかどうかは分かりませんねえ」
「俺の感性など十人並みだ。人が面白がる本なら、だいたい面白い」
「そうは言うけど、なんでも読むじゃないですか。前は鴎外を読んでいたでしょう」
「軍医部長殿がどんな話を書くのかと思ってな。もう今は軍医総監閣下か」
「かと思えば、『南満洲鉄道案内』」
「......興味があってな」
「出征前は紅葉だったじゃないですか」
「『金色夜叉』か。あれはどうなるのか気になっていたのに、残念だ」
「戦後はしばらくお見かけしませんでしたけど、そうだ、『海潮音』をお買い上げになりましたよね」
「訳したというのに音の調子がよくて、頭がいい人間はいるものだと感心したんだ」
「ほらね。私には未だに軍曹さんの趣味が読めませんよ」
取り立てて何が好きというわけではない。世の中にはいろいろなことを考える人間がいて、それを字やら絵やらで伝えることができるのが興味深いと思っているだけだ。それに、本なら兵営にいても空き時間に読めるし、代金の割にしばらく保つのも娯楽として都合が良い。
「そうそう、今、ちょうど入荷したのがあるんですよ。ちょっと待ってもらえたら荷ほどきするところだったので――」
店主に続いて入ろうとした時、停車場の方から馬車の音が近づいてきたので、何の気なしにそちらを見て、月島はふと動きを止めた。
大きな葛籠を背負った男が停車場に向かっていく。手には何か長いものを布か風呂敷かで巻いたものを持っている。たいそうな荷物である。
――妙だな。
「これこれ、この本なんですがね、札幌から届いたばかりで――どうかなさったんですか?」
月島が停車場の方を凝と見詰めていることに気がついて、店主が不思議そうな顔になった。
「ああ。あの、ずいぶんな荷物の男」
外に出てきて体を左右に揺らすと店主も月島の言う男が分かったらしい。
「あの停車場の前の? あれが?」
「手荷物扱いにしないんだなと思ったんだ」
「そういえばそうですね。手荷物の窓口はあっちなのに。よほど大事な物なんでしょう」
「あれだけ大きければ座席で邪魔にされそうだ」
「違いない。――それでですね、この本が東北の遠野という地方の――」
商売っ気を発揮しだした店主が本を見せながら、温かい店内に月島を招き入れた時だった。
「誰か! 捕まえてくれ!」
叫び声に続けて振り向くと、停車場の方向の人混みが乱れてわらわらと割れ広がっていく。人混みの先には布を巻いた長いものを抱えた男がいて、その男が人々にぶつかりながら無理やり押しのけているのだった。男は凍り固まった雪を物ともせず必死の形相で走ってくる。
「待て! 止まれ!」
叫び声を上げながら警官が男を追ってくる。
さっきの葛籠男だ、と認識するなり、月島は目の前を通り過ぎようとした男の左手を掴んで引き倒した。流れるように、転んだ男の背中を膝で押し潰し、両腕を後ろ手に捻じ上げる。男がどうにか逃げようと身を捩ると、乱れた合わせから何か軸のような物が二本見えた。葛籠は逃げるためにどこかに放り出してきたのだろう、男が抱えていたのは布で巻かれた長い物だけだった。放り出されたそれは、布が乱れて少し中が見えていた。職業柄、小銃を想定していたが。
――刀?
ちらりと見えたのは刀の柄と思しきものだ。
なおも動こうとする男を地面に押さえ込み、月島がぎりぎりと力を入れると、身動ぎすらできなくなって、男の食いしばった歯から苦痛の呻き声が漏れている。
そこにやっと追いついた警官の足が四本側に止まった。二人の警官は荒い息を吐きながら、
「さすがは、北鎮、部隊、ですな」
と切れ切れに言いつつ、月島が捕まえた男を引き起こして捕縄をかけた。その拍子に男の懐からさきほどから見えていた軸がこぼれ落ちる。
――掛け軸?
月島は掛け軸と放り出された刀を拾い、警官に渡しながら訊いた。
「窃盗ですか?」
「ご存じないですか、今、話題の古美術品の――」
「例の新聞を賑わせている?」
声を上げて引き取ったのは、月島の後ろから顔を覗かせた書店の店主だった。聞いたことがないなと眉を寄せた月島に、店主が興奮気味に言う。
「知らないんですか、軍曹さん。一条通の酒造店の主人の家に泥棒が入って、大事にしていた美術品をごっそり全部持っていったとかいう。――ですよね?」
店主に問われて、あー、まあそうだ、と警官が頷く。
会話が続く横で、捕まえられた男はまだどうにか逃げようとばたばたしていたが、警官が何度か背中からこずいたりどやしたりして、やっと大人しくなった。とはいえ、雪の上に唾を吐いて、ぷい、と横を向いている様子を見ると、観念したようにはとても思えない。
しかし、そこから先は警察の仕事で、月島の与り知るところではない。ご協力感謝いたします、の言葉と共に警官が男を引き立てていくと、本屋も商売の方を思い出して月島の袖を引っ張り、それで男のことは月島の頭の中から追いやられてしまった。
月島ァ! の叫びが兵営の廊下に響き渡ったのは、翌る日の夕方だった。
未決の箱を空にして一息ついたところだったが、月島はため息をついて立ち上がると部屋を出た。
「鯉登少尉殿」
「そこにいたか、月島」
鯉登は月島を見留めて、ずんずんと大股でやってくる。その後ろから二等卒が泡を食って走ってくるのが見えた。部下を置いて突っ走ってくる癖はなかなか直らないが、戦場ではないので小言はやめておく。
「御用の向きは」
「うむ、司令部に報告があって行ったら、そこにちょうど警察の者が来てな」
「兵卒が街で何かやらかしましたか」
「軍曹がな」
言いながらなぜか鯉登はしたり顔で月島に視線を寄越した。面倒事の予感を抱えつつ月島は次の言葉を待った。
「昨日の昼近く、師団通りで盗人を捕まえた軍曹を探しているというのだ」
話が見えてきて、月島が口を開く前に、鯉登が鼻高々といった調子で決めつけた。
「ずいぶんと小柄で外套に着られているみたいだったが、大の男一人を眉一つ動かさずに押さえ込んだ、巌みたいな軍曹だと言うんだ。お前のことだろう、月島」
無表情に、はい、とだけ答えると、鯉登は追いついたばかりの二等卒に命じた。
「司令部に戻って、やはり月島軍曹だったと伝えろ。それから、来訪者お二方は第二十七聯隊本部にお連れしろ」
「はい!」
二等卒が足早に司令部の方に去って行ってから、月島は鯉登を見上げた。
「いったい警察が何の用事で来たのですか? 捕まえてくれと叫んでいたから取り押さえただけで、見知った顔だったわけでなし、すぐに引き渡したのですから、それで話は終わりのはずです」
「詳しくは聞いておらんが、面倒ごとを持ち込まれたお前みたいな顔をしておった」
しばしば面倒ごとの持ち込み主になる男がそう言うのを、月島は、すん、とした顔で聞き、いつものように発言は差し控えた。
「さて、連隊長殿に報告して、同席をご希望か訊くか。行くぞ、月島」
「はい」
旭川の冬は日が落ちるのが早い。最近では十六時ともなれば日の入りである。電灯が灯る薄暗い廊下を二人は本部へと向かった。
連隊長の地位にある者が同席するほどのこととは思えなかったが、些細なことでも全て報告することにしている。それは、金塊争奪の件が終わってからの二人の方針で、「自分たちは上官に忠誠を尽くす一介の将兵である」という態度を印象づけるためである。数年は目を付けられていたが、連隊長が何度か替わった後は二人の方針が奏功したのか、徐々に風当たりが緩和されている。中隊長に報告し、大隊長、連隊長、と伝わった話が、逆の経路で戻ってきて、結局、中隊長のみが同席することになった。配下の者の行動管理者という意味では妥当なところだろう。
話し合いの場として設けた一室に行くまでに、中隊長に手早く事情を説明する。
「落ち度はないのだな、月島軍曹」
「はい。心当たりはありません」
「となると、いったい警察が何の用件か......」
鯉登とは対照的に中隊長は渋い顔になった。そういう態度になる方が普通だろう。
三人が部屋に着くと、案内された警察の者二人が既に座っており、戸口に二等卒が立っている。入るなり二人は立ち上がった。
「昨日はどうもありがとうございました」
一人は月島が昨日協力した巡査だったが、もう一人はその上役の警部を名乗った。おそらく、師団に話を聞きに来るにあたって、一介の巡査だけでは取り合ってもらえないと判断したのだろう。
互いの紹介をし全員が座ったところで、月島は自分が進めていいか上官たちに目線で確認してから、口火を切った。
「昨日の件でいらしたと伺いましたが」
「実は、少し伺いたいことがありまして。書店の主人が軍曹さんと呼んでいたので、問い合わせた次第で」
すぐに分かって良かった、と手をすりあわせた後、その手の動きを止めて巡査が言った。
「昨日の男、刀と掛け軸を持っていたのは分かったと思うのですが、他に何か持っていませんでしたか?」
「他に? いえ――」
言いさして、月島は思い出した。
「そういえば、捕まえる前、その男が停車場の辺りに行くのを見かけた時は葛籠を背負っていました」
そういえば、と言われて身を乗り出していた巡査が、それを聞くと席に座り直し軽く首を振った。
「葛籠は既に確保しました。ちょうど汽車の座席に下ろしたところで私たちが見つけて追いかけたので、そちらは諦めて逃げ出したのです」
「となると、思い当たる物はありません」
すると、警察側の二人がやや視線を交わし合い、警部の方が月島に訊いた。
「何か紙のような物は有りませんでしたか」
「紙でできた物と言えば掛け軸ぐらいですが、それはお渡ししました」
「そうではなくて、折り畳んだ紙です。刀と一緒になっていたはずなのですが」
「刀は布にくるまっていましたが、紙、ですか......?」
思い返しても、ついぞ思いたる節が無い。
「刀は地面にばらまかれたわけではなくて、布から柄が少し見えていたぐらいでした。布の中に無かったのなら、私には分かりません」
でしょうな、と呟いたところを見ると、月島に情報を期待していたわけでもなく、疑いをかけているわけでもないらしい。
「念のためで伺うのですが、本の類いはありましたか?」
「いえ、それこそ見ていません」
そこまで遣り取りを見守っていた鯉登が中隊長を見る。頷いたのを確認してから、警官たちに質問した。
「月島軍曹が窃盗犯を捕まえたことは聞きましたが、この尋問はどのような目的あってのことですか」
尋問という単語を使ったのはわざとだろう。巡査が慌てて首を振った。
「疑いをかけているわけではありません。ご協力により捕縛した男、前から目をつけていたごろつきなのです。この男、もう何件も盗みに入っていて、陶磁器や書画、掛け軸などなんでも盗っている。被害者のうち一番話を大きくしたのが刀を盗まれた酒造店の主人です」
警部の方も、大きく頷いて、付け加える。
「名の知れた大きな酒造店で、新聞も見出しにするものだから、巷ではそこだけ盗みに入られたと誤解している者も多いのですが。騒ぎが大きくなって、何が盗まれた、それはこれこれこういう物だったと知れ渡ると、旭川では換金するのが難しくなった」
「それで別の街で売り捌こうとしたわけですか?」
「そうです。札幌あるいは小樽にでも持って行こうとしたのでしょう。が、停車場に行ってみたら、師団の兵隊が何組も何組も時間を違えて来るものだから、最初に思っていた列車に乗れなくなってしまった。制服姿の鍛えた男たちがたくさん居るところに出て行くのは避けたかったのでしょうな」
「新兵引率の日にそんなことをするからだ」
今まで黙っていた中隊長が口を挟む。配下の者が何かをやらかしたわけではないと分かって、態度は会見当初より柔らかい。
「それでその男、最後の組が停車場から居なくなったのを見計らって、列車に乗り込み席に落ち着いた。そこを見つけたのが、ちょうど巡回していたこの男でして」
警部が横の巡査を手で示し、巡査もこくりと頷いた。
「見つけて捕まえて、さきほど月島軍曹も言っておられた葛籠も確保し、男の家に残る物もなく、それで全部だと思っていたのですが、足りない物があると分かったのです」
「それで残りの物を探している、と」
月島が確認すると、警部がうんざりと言った調子で二度三度と頷いた。
「ですが、その窃盗犯のごろつき、強情で全然口を割らない。捨てたのか、仲間に渡したのか――」
そこで言葉を切り、問いかけるように視線を寄越してきたので、月島は首を振った。
「人を突き飛ばして走ってきたのは分かりましたが、何か渡しているような素振りは私には分かりませんでした」
「後ろから追いかけていて、自分もそのような様子は無かったとは思ったのですが、前から見ていたあなたに確認を取りたかったのです。いつから無かったか、はっきりさせるために」
巡査がそう説明すると、それを受けて警部の方も頷いた。
「となれば、停車場に来た時にはもう無かったか、あるいは汽車の中で誰かに渡したのか」
「では、月島軍曹への話はそれだけと思ってよろしいか」
中隊長が確認すると、そうです、と警部が頷いた。
「兵営に起居する方は一日のほとんどをこちらで過ごしておられますし、そもそもどなたか分からなかったので師団司令部を通すしかなかったのです。たいした用件でもないのにお手間を取らせて申し訳ない」
ご協力ありがとうございました、の声と共に二人は立ち上がり、案内の二等卒について聯隊本部を出て行った。
警官たちの人影は聯隊正門から出ると、すぐに右に曲がって見えなくなった。窓からそれをなんとなく見送っていた鯉登が月島に話しかける。
「気になるな、月島」
「私は気になりません」
厳然と言い切ると、鯉登は月島の方に視線を下ろして、
「つまらん男だな、お前」
「つまらなくてけっこう」
隙を見せると碌な事にならない、と月島の直感が警鐘を鳴らしている。
話しているうちに日はとっぷり暮れている。日が暮れた途端に、しん、と空気が一段と冷えてくる。
「さすがに寒いな、この季節は」
鯉登の自宅は営外の官舎である。外套を取りに戻るという鯉登とは将校室の前で別れ、月島は自分の下士室に戻る。ちょうど部屋に入ろうとしたところで、菅原が廊下の反対側に姿をみせ、月島を見つけると大股で近づいてきた。
「鯉登少尉と本部に呼び出されたって? 厄介ごとか?」
菅原が心配そうに訊いたのは、函館から復帰した後しばらく何度も連隊長に呼び出されていたのを知っているからだろう。月島は軽く手を振った。
「いや、違う。昨日、官憲に協力して古美術品泥棒を捕まえたんだが、その件で少し聞きたいことがあるとかで、中隊長殿同席の元で警官と話をしていたんだ」
説明すると、菅原は途端にほっとしたような表情になり、そうなると笑みを含んで言った。
「休暇中にそれか。盗人捕まえたなんて面白そうなこと、何も言ってなかったじゃないか」
「わざわざ人を捕まえて吹聴するような話でもないだろう」
「お前はそういう奴だよ」
呆れたようなにわざとらしく肩をすくめた後、急に菅原は動きを止めた。
「いや、待て。古美術品泥棒? 酒造りの主人の家に入った?」
「たぶん、それだ。新聞が書き立てていたらしい」
答えながら月島は疑問を抱いた。てっきり、興味本位で訊いてきたのかと思いきや、菅原は悩むような迷うような、そんな神妙な面持ちだったからだ。
「どうかしたのか」
「あー......頼みたいことがあるというか、話を聞いてほしいというか、聞いてもらっても仕方がないというか......」
「なんだそれは」
菅原はまったく煮え切らない様子で、しばらく唸っていたが、そろそろと月島の様子を窺いながら話し出した。
「俺の家は近くの村だと知っているだろう?」
「東旭川だったな。屯田兵として入植したとかいう」
「親に連れられて来て、それからずっとだ。――でな、俺の姉の娘というのがいるんだが」
「つまりは姪か」
「そうだ。今年で十五になるんだが、これが酒造店の主人の家に住み込みで奉公に出てる」
月島は眉根をよせた。
「――件のか」
「件のだ」
それで? と促すと、菅原がうん、と一つ頷いて、
「実は、その泥棒、よりによって俺の姪が掃除をしていた部屋の前を通って蔵に行ったらしくて――」
「――それで理不尽に責め立てられたのか!」
急に横から大声をかけられ、菅原はびくっと身体を震わせ、鯉登少尉殿、と反射的に礼をした。
月島の方はといえば顔を上に向けて目を閉じ、帰ったんじゃなかったのかとか、なんでここに居るんだとか、頭の中を言いたいことが駆け巡るのをやり過ごしてから、すん、とした無表情を鯉登に向けた。鯉登は二人に向かってずんずんと近づいて来る。
「責められたお前の姪はどうなったのだ」
「いえ、責められてはいません。むしろ、良いご主人だそうです」
「ふむ、それは良かったな」
あっさりそう言った頃にちょうど二人の下に着き、鯉登は月島の横にぴしりと立った。
「それで、月島に何を頼みたいのだ」
「頼みと言いますか、姪の話を聞いてやってほしいと言いますか」
言われて月島が声を立てる。
「お前の? 姪の?」
何で俺が、の意を込めて月島は言ったのだが、当人を無視して鯉登が頷いた。
「いつだ」
「休暇の日にでもと思っていたのであります」
「では日曜だな。月島、久々に洋食でもどうだ。大坂やで飯を食いながらといこう。――菅原軍曹、姪御を連れて来い。私の奢りだ。遠慮するなと言っておけ」
「あなた、来るんですか?」
「うむ、私も休みだからな」
これは何を言っても無駄だろう、と月島は成り行きに任せることにして口を噤む。首を突っ込んできた鯉登は、目をきらきらと輝かせ、上機嫌で頷いた。
「菅原、奉公先から外出の許しが出るか訊いておけ。姪御の都合に合わせるから、時刻の指定は任せる」
ではな、と鯉登が嵐のように去って行くと、菅原は焦った様子で話しかけてきた。
「お、おい、大坂や? 洋食?」
「どうした」
「いったい何着ていけばいいんだ」
「普通に軍服でいいだろう」
「俺の姪は! 軍人じゃないんだ!」
月島は溜め息を吐いた。
「落ち着け。お前の姪は普段着でいいだろう。飯を食いながら話をするだけだ」
菅原は上を向いて目をつぶり、唸るように声を立てた。
「月島、お前と違って俺は奢られ慣れていないんだ」
対して月島は表情を動かさない。
「振る舞い酒なら遠慮しないだろうに」
「隊の集まりと訳が違う。俺の姪なんていよいよ関係がないじゃないか」
「少尉が勝手に首を突っ込んできたんだ、当然の対価とでも思っておけ」
「当然の対価って......」
ふう、と息をつき、菅原は首を振った。
「昔からお前は気前のいい人ばかりに目を掛けられるよな。鯉登少尉といい、鶴見中尉とい――」
言葉を途切らせた菅原が申し訳なさそうに眉を落とす。
「すまん」
行方の知れなくなった長年の上官の姿をしかと思い出す前に、月島はただ頭を振った。言葉にすると、どうしても苦いものが胸を過るのは分かっていたので、言葉を発するのを避ける。ちょっと息を吐き、いったん無意味に視線を逸らしてから、仕切り直すように菅原の方を向く。
「くれるというものをただ食えばいいだけの話だ」
話を逸らしたのは分かっただろうが、そう言うがなあ、と乗った菅原も人がいい。まだ躊躇っている菅原に確認する。
「それより、いいのか。少尉殿に聞かれたくない話ならば、俺から断りをいれるが」
「ああ、いや......」
菅原がごりごりと後頭部を書く。
「お前に頼むのも無理筋なんだ。藁にも縋るってやつだ。なら、縋る藁はたくさん有る方がいい。鯉登少尉なら恩着せがましいことも言ってこないだろうし」
そこで菅原は思い出したように手を止めて少しばかり眉を寄せた。
「まあ、その、時々、突飛なことをするが」
時々か? とは言わないでおいた。
次の日曜は任務も無く、朝食後は休暇である。二週間ほど前に手に入れた古本を引っ張り出すと、月島は机の上に広げた。紙は擦れているのだが絵が描いてあって字も大きい。早くは読めないので、空き時間にそれをゆっくりゆっくり読んでいる。
昼近く、そろそろ約束の時間かと本を閉じて棚にしまうと、軍服・軍帽を身につけた。外套を着て聯隊本部前の門から西の角に移動して待っていると、白い風景の中を丘の方から人影が近づいてくる。
「鯉登少尉殿」
「うむ、行くか」
官舎からやってきた鯉登は私服姿で毛皮の襟が付いた二重廻しを着込んでいる。待つことほどなく、二七角にやって来た馬車鉄道を手を上げて止め、そのまま乗り込んだ。朝なら混雑していたかもしれないが、日曜の昼では師団周辺の乗客はあまりいない。
座席に並んで座り馬鉄の走行が安定した頃に、鯉登が口を開いた。
「反対しなかったな、お前」
「何のことです?」
「私が強引に首を突っ込んだことだ」
自覚はあったか、と思いつつ、月島は正面を見たまま静かに言った。
「息抜きは必要でしょうから」
「......かなわんな」
目下、鯉登は大学校への推薦を希望している。難関の試験を考えれば、推薦されてから勉強を始めていては間に合わない。自由闊達、鷹揚に過ごしているように見えて、空いた時間をひたすら勉学に充てていることを知っている。
「あなたはやらなければならないことを見誤るようなことはしないでしょう」
鯉登は月島の方に首を向け、見下ろす。
「ずいぶんと信頼してみせるではないか」
「......」
推薦を得られるかどうかは見通せない。どんなに能力があっても、それ以外のことで道が決まることはある。
――だって、あの人がそうだった。あの人ほどの人がそうだった。
それに、大学校に行くことなど道半ばでしかない。道半ばだと思っている人でなければならない。ただ、思うに鯉登は――
――そういう人だ。
「このことに関して俺の出来ることはありません。ですが、信頼ならば捧げます」
ちらりと視線だけを横に座る鯉登に投げる。鯉登は、ふー、と大きく息を吐くと、体から力を抜いた。
「急に大きな物を寄越すものだな」
急にではない。函館で渡したのだから、もう何年か経つ。
月島が少しばかりの不満を凝らせて黙っていると、ふ、と鯉登の雰囲気が軽やかに揺れた。
「......お前は厳しいが、優しいな」
「意味が分かりません」
顔も動かさずに固い声で答えると、鯉登はふふと小さく笑った。
馬車鉄道専用橋から旭橋を見上げる。幸い今日も晴れている。中州の雪も流れる石狩川も日の光を受けて明るい。近文地区から旭川地区に入ると、人通りが明らかに増えてきて、賑々しくなってくる。
二条通で馬鉄を下り、西に向かって歩き出す。チリチリチリと高い鳴き声が賑やかなのでそちらを見上げると、薄い赤のような灰色のような柔らかい色をした鳥が木に生った小さな赤い実に群がっている。
それを眺めながら歩を進め、視線を道に戻した時、見知った僧形が向こうからやってくることに気がついた。先方も月島に気づいたと見え、連れている小坊主共々会釈してきたのでこちらも会釈を返しながらすれ違う。
鯉登はそんな月島を見、さらにすれ違った僧の後ろ姿を見遣ってから訊いた。
「誰だ」
「報恩寺の住職です。中島近くの」
鯉登が不思議そうな顔になる。
「知り合いなのか?」
「知り合いというか、ぐにゃぐにゃした文字が読めるのです」
「ぐにゃぐにゃした文字? なんだそれは」
鯉登が問うので月島は空中に指で字を書いて見せた。
「こう、蚯蚓ののたくったような字があるじゃないですか。読めなくて教えてもらったことがあるのです」
「確かに、そういうことが得意な人間はいるな。それだけ人の字を見ることが多いのだろうが、住職なら、然もありなん。――お、菅原軍曹か、あれは」
月島が言ったとおり軍服で来ることにしたらしい菅原が、顔立ちのよく似た娘を連れ、大阪やの前で所在なげに立っていた。月島たちに気がつくと、菅原は何事かを姪に伝え、それから二人揃ってこちらにお辞儀した。
「鯉登少尉までご足労いただきまして」
「なに、こちらが勝手に来たのだ。気にするな」
鯉登は慣れた足取りで店に入っていく。まだ躊躇っている菅原とその姪を月島が促すと、意を決したのか、菅原はやっと入り口をくぐった。
昼食時の店内は混んでいて、人々が思い思いの話をしていて賑やかだ。四人は席に着き、緊張している菅原とその姪からなんとか注文を聞き出すと、月島が給仕にそれを伝えた。給仕が引っ込んだところで、思い出したように菅原が横に座っている娘を紹介した。
「姪のひさです」
「あの、ひさ、です......」
十五だというひさは、女性と言うにはまだ幼さが残る。菅原に似た垂れ目は優しげで、見たことのない軍人二人を前に、不安そうに叔父を見上げている。その叔父の菅原が借りてきた猫のようになっているものだから、不安は解消しそうにない。しょうがなく、月島は笑顔を作ってできうる限りの優しげな声というのを出してみせた。
「自分は月島と言う。君の叔父さんと同じく軍曹だ。こちらは、鯉登少尉。若いが俺たちの上官だ」
それは、ほとんど猫なで声のような有様だったが、多少は功を奏したらしい。普段を知らないひさは、僅かばかり笑みを浮かべておずおずと頷いた。だが、その隣の菅原はぽかんとした顔をしているし、鯉登など遠慮なく声を上げた。
「月島ぁ、お前、そんな顔できたんだな」
瞬く間に笑顔を消し、月島は仏頂面を鯉登に向けた。自分で首を突っ込んできたのだ、思ったことをそのまま口に出していないで話を円滑に進めてほしい。
月島の内心が伝わったわけではないだろうが、鯉登がひさに話しかけた。
「話を聞いてほしいと聞いているが、奉公先の泥棒の話なのか」
「聞いてほしいというか、叔父さんが――叔父が勝手に......」
おずおずとそれだけ言うと、心配そうにひさが菅原を見上げる。
「菅原」
不機嫌に月島が目を向けると、菅原が慌てて言った。
「あんまりこいつが落ち込んでいるから、何かできないかと思って」
「落ち込んでいるというのは、泥棒が近くを通って行ったのに気づかなかったからか」
「あ、はい。昼だったのに、部屋をお掃除していて気がつかなくて。その間に部屋の前を通って、蔵の方に行ったのだろうと警察の方が」
「人気が少ない場所だったそうです」
菅原が姪を擁護して説明する。
「昼だからほとんどの者が店の方に出ていて、奉公人は他にもいるんですが、掃除に洗濯に煮炊きと手分けをしていたので、その時そこに居たのはこいつだけだったと言うんです」
そうだな? と菅原が水を向けると、ひさは、うん、と小さく頷いた。月島は腕組みをして――笑顔を作るのは放棄した――ひさに言った。
「下手にばったり泥棒と鉢合わせていたら何をされていたか分からんぞ。警察が言うには何軒も盗みに入っていたごろつきだ。女の身でどうにかできたとは思えんな」
「そう、なんですけど」
ひさは下を向き、膝の上に置いた自分の手を凝と見ている。
「旦那様ががっかりしていらして」
「いや、待て」
月島は眉根を寄せた。
「刀は取り返したぞ。酒造りの家から盗られたのは刀だけではなかったのか」
そこで菅原が人差し指をピンと立て、それだそれ、と月島に向かって二度振った。
「そのことで訊きたかったんだ、月島。何か紙のような物を見てないか。それが無くなって奉公先の主人が消沈しているのだとひさが」
途端に、月島は大きく頭を振った。
「なんだ、それだったのか、お前の用事は。だったら、兵舎で言ってくれれば、すぐにも俺では役に立たないと教えてやったのに」
「知らないわけか」
諦めきれずに菅原が念を押し、月島の代わりに鯉登が言った。
「警察にも訊かれたのだ、それは」
「だいたい、紙切れ一つに何をそんなに。何か思い出の品なのか」
だが、月島の言葉を聞くなり声を立てたのは鯉登だった。
「紙切れと言うが、折紙だろう?」
言われて月島は鯉登の方に首を向けた。
「なんです、その折紙というのは」
鯉登は驚いたように月島を見、さらには菅原もひさも飲み込めていなそうなことを見て取って、首を振った。
「月島、お前、分からないで警察に答えていたのか」
「だから、何なんですか?」
「折紙は刀の鑑定書だ。ひさ、その刀はずいぶんな名刀なのではないのか」
「詳しくは存じ上げませんが、旦那様が旭川に移住する前から家にあるそうです。なんでもずっと前のご先祖様が手に入れて、以来、大事にしていた物で、何百年も前の物だと伺っています」
うむ、と鯉登は頷いた。
「代々刀剣の鑑定や研ぎを生業にしている有名な家があるのだ。その家で鑑定をして、これこれという刀であると極めがつくと、値が段違いになる。その時につけるのが折紙とか極札という物だ。ほら、『折紙付き』などと言うだろう。その折紙だ」
「なるほど。てっきり、『折り目正しい』とか『きっちり折られている』とか、そういう意味での言い回しかと思っていました」
月島が言うと、菅原も、私もです、と同意する。鯉登はまた一つ頷き、
「物によっては、折紙自体に値がつくぞ」
「はい、おまちどおさま」
給仕がちょうどやってきて、湯気の上がるビーフシチューやら、キャベツの添えられたエビフライやらを白米と一緒に並べていった。
わあ、と小さく漏らしたひさが目を輝かせている。鯉登が笑みを浮かべた。
「うむ、温かいうちに食え」
鯉登と月島がナイフとフォークを手に取り慣れた手つきで食べ出すと、見よう見まねで菅原も慣れぬナイフとフォークを持ち、それを見たひさもおっかなびっくりエビフライにさっくりナイフを入れた。
「うまい!」
「おいしい!」
二人から自然と漏れた言葉に、鯉登は満足そうに頷いた。
突然、頭の中に浮かんだВкусноの単語を月島はそっと胸の内に沈めた。
「......美味しいですね」
「ああ。シチューも旨いぞ。寒い季節には実に合う」
しばらく食べる方に気を取られていたが、それが落ち着いた頃、口元を拭いてから鯉登がひさに訊いた。
「盗みの件だが、別にお前のせいで盗まれたなどと責められているわけではないのだろう? 菅原がそう言っておったぞ」
「はい。ただ、よくしていただいている旦那様が悲しそうにしていらっしゃるのがお気の毒で。子どもの頃から家にある刀で、おもちゃにしてお母様に怒られたですとか、自慢げにされていたお父様のことなどをお話されていましたから、自分がそれを失してしまったのが堪えておいでのようなのです」
「物には思い出が詰まるものだ」
ぽつり、と月島が言った。菅原は意外そうな顔をしたが、鯉登は月島の方を見、何も言わずに少し目を伏せた。サクリ、と音を立ててフライを一片食べてから、ひさが続けた。
「『勉強堂さんはサガボンがまるまる戻ってこないそうだから、それに比べれば』ともおっしゃって、納得しようとなさっているのですが、探す術は無いものかと思ってしまって」
「サガボン? ああ、嵯峨本か」
鯉登が理解したように頷いたので、月島が訊いた。
「なんですか、そのサガボンというのは」
「江戸時代の本だったかな。サガは京都の嵯峨だ。そこで出版したから嵯峨本と言うそうだ」
「はー、さすがは少尉殿。よく知っていらっしゃいますね」
菅原が素直に感心すると、鯉登はぞんざいに手を振った。
「昔、家によく来ていた客人の受け売りだ」
「それで、その嵯峨本というのはどんな外見なのかは分かるか?」
菅原が尋ねると、ひさは申し訳なさそうに首を振った。
「いいえ。さすがに他のお店のことは......」
「それもそうか」
それを聞いて、月島が鯉登を見た。続いて菅原とひさも鯉登を見る。三人の目が集まったのに気づいて、珍しく鯉登は困ったような顔をした。
「私も知らん。別に美術品に取り立てて興味があるわけではない。刀は使うから知識はある。掛け軸になるような書や絵画、そうだな、あとは陶器磁器の類いなら家にあったから、まあ、価値がある物は価値があるのだろうとは思うが、本か......。美しい模様の入った紙に印刷した古い活字本だとは聞いたような気がするが」
「活字の本というのは江戸時代からあったのですか。御一新以来のものかと思っていました」
月島がそう言うと、鯉登も記憶があやふやなのか首を捻った。
「そういえば瓦版は版画か。今とは別な技術なのかもしれんな」
「そもそも、本なら物によって外見は様々なのではありませんか」
月島が言うと、ふと思いついたように鯉登が月島を見た。
「お前の方はどうなんだ」
呆れて月島はやや上を向いて目を閉じ首を振った。
「そんなもの、学がない私が見たことあるわけないでしょう」
「そう言うが、お前、本ならよく読むじゃないか」
「俺が読むのはその辺の本屋に売っている物であって、そんな高い物、縁があるわけがない」
スプーンでビーフシチューの皿を執拗に浚っていた菅原が顔を上げた。
「紙物ばかり戻ってこなかったんだな」
「騒ぎが広まる前に金にしてしまったか」
鯉登が腕組みしたところで、月島はスプーンを持つ手を止めた。
「ああ、そうか」
「何が、『そうか』なのだ」
「私が男を捕まえた時、そいつが持っていたのは刀と掛け軸何本かでした。他にも葛籠を背負っていたのですが、追われた時に置いていって持っていなかった」
「それは警官も言っておったな」
「つまり、逃げるにあたって運びやすい物だけ手に取ったのでしょう」
「そうだろうな」
月島はスプーンをテーブルの上に置き、鯉登の方を向いた。
「あなたの言う折紙とやらは、持ちにくい物ではないのでしょう? にもかかわらず、それを持ってはいなかった。刀と一緒にしておいた方が価値が上がるにも拘わらず、です」
「そうだな」
「つまり、その男、我々と同じで古美術品の価値が分からんのです」
フォークでキャベツが掬えなくて悪戦苦闘していた菅原が、月島の方を見る。
「じゃあ、単に金持ちが蔵に入れて大事にしているから盗んだだけだということか」
「そうだ。紙なんぞ金にならんと思って捨ててしまったんだ」
だが、鯉登は疑問を口にする。
「それだと本はなぜ盗って行って、なぜ出てこないんだ。折紙は刀と一緒になっていたそうだから、盗む時は一緒に持って行って、要らないから捨てた、というのは分かるが」
「本の形ぐらいになっていて、大事にされていればさすがに価値があると判断してもおかしくないのではないですか?」
「あの!」
ひさが声を立てた。
「勉強堂さんには、嵯峨本を入れていた漆塗りの文箱が返されたそうです」
「うーむ、漆塗りだけ価値があると思って中身は捨てたか。本当に紙の物ばかり戻ってきていないな」
「掛け軸は取り返しましたがね」
「あれは、見るからに古美術品だからな」
菅原が給仕を呼び止め、箸はないかと頼んでから、眉を下げてひさに言った。
「すまん、ひさ。これはもう捨てられたと思った方がいいかもしれん」
ひさもがっかりした顔にはなったが、頷いた。
「できることはないのだと、思ってはいましたから......」
「もし、まだ、可能性があるとしたら――」
口を開いた月島に、三人の目が集まる。
「折紙だけなら捨てただろうと思ったが、本があるならそれなりな量になるかもしれん」
「なんだ、勿体を付けるな」
「詰まるところ、紙なんでしょう? 折紙にしろ、その嵯峨本にしろ。売った可能性はなくはない」
「さっき、盗人には価値が分からなかったと言ったばかりではないか」
せっついた鯉登を余所に、菅原が膝を打って月島に指を突き出した。
「そうか、屑屋か!」
「屑屋?」
「少尉殿も巡回しているのをどこかで見たことぐらいはあるでしょう。反故だの襤褸だの屑鉄だの集めて、再利用する業者に売るんですよ」
月島が鯉登に説明してやり、菅原が身を乗り出した。
「ああいうのは縄張りがあると聞いたことがあるぞ。その盗人のねぐらが分かれば」
「もしかしたら、それは旦那様が警察の方から聞いたかもしれません」
ひさが言うと、菅原は笑みを浮かべた。
「よし、探すだけ探してみる!」
話してみるものだな! と菅原は喜んでいる。
「あー......」
もう警察もそれぐらい捜査しているのでは、とか、警察に任せておけば、とかいろいろ頭を過ったが、気が済むまで放っておくか、と月島は口を噤んだ。
翌週の日曜は雪がしんしんと降っていた。風があまり無いことでまだ救われているが、凍てつく、の言葉が似合う天候だ。月島は軍靴で雪道を踏み、白い息を吐きながら兵舎から官舎に向かって黙々と進んだ。凍った雪の上に軽い雪が乗って滑りやすく、少し気を抜けば足を取られる。北海道に移ってきたばかりの頃は、新潟の湿った雪と違うことに慣れなかったが、今ではこちらが月島の普通になった。
建ち並ぶ官舎はどれも同じ形である。しかし、何度も来ているので表札の確認は必要なかった。玄関の引き戸を開ける前に軒の下で外套の雪を払い、軍帽を一度脱いで積もった雪を落としてからかぶり直した。
訪いを入れると、急ぎ足の音が近づいてきて、鯉登がすぐに現れた。
「どうしたのだ」
「菅原が屑屋を見つけたのです」
三和土からでは鯉登の顔が見にくかったので、月島は軍帽の鍔を片手で少し上げ、やや首を傾けて見上げた。
「気になるのでしょう?」
言うなり、鯉登の顔に大きな笑みが浮かぶ。
「なる!」
奥に戻りつつ、鯉登は月島の方に指を向けた。
「少し待て! すぐに支度する!」
休養日だったが、鯉登は軍用コートで現れた。
「軍服で? 行くのはただの屑屋ですよ」
「偕行社で集まりがあるのだ。今から行って帰ると、身支度の時間があるか怪しい」
頷いて月島は外に出た。すぐに鯉登が横に並ぶ。
「どこだ?」
「常盤通りの辺りです」
「ふむ。あそこなら店もあれば人夫も職人もいるしな」
「はい。その屑屋は常盤通りと中島遊郭辺りを縄張りにしているそうです」
馬鉄に乗ってしばらく、菅原が常盤橋前でこちらを見詰めて待っているのを見つけて近くで降りた。菅原は鯉登に敬礼をしてすぐに店の並ぶ方に身体を向けた。
「あちらの飲食街の裏手にせせこましい路地があって、屑屋はそこに住んでいるのであります」
「軍人三人に押しかけられて、屑屋が警戒しないといいものだが」
月島が懸念を口にすると、大丈夫だ、と菅原は笑みをみせながら請け合った。
「まあ、のんびりした男だよ。もう何人かで話を聞いていいかとも伝えてあるし」
それは、部下相手でなければ人懐っこさの方が滲み出てくる菅原の人当たりの良さのせいだろう。菅原に案内されて行ってみると、屑屋の家は粗末で小さく、綿入れを着た男が一室しかない部屋の真ん中に火鉢を据えて待っていた。その火鉢を四方から囲んで男四人が座ると、それだけで部屋はいっぱいになった。
「あたしに聞きたいことがあるってぇお話でしたが、軍人さんが雁首揃えて何のお話で?」
「話したとおり、公用じゃないんだ。ほら、こないだ巷を賑わせてた泥棒を師団の軍曹が捕まえたって新聞に出ていただろう?」
「ああ、ああ、それが載ってる新聞を出した家もありましたね」
「その軍曹がこの男だ」
そんな口火の切り方があるか、と月島は顔にだけ不満を出したが、にこにこ愛想良く屑屋に話しかけている菅原は気づかない。屑屋が月島を見て得心いったように頷いた。
「ああ、だから、その捕まった男の話が聞きたかったんですか」
話を聞きたいのは俺じゃないと大いに言いたかったが、ややこしくなるのでそれは言わずに月島は尋ねた。
「その泥棒から屑を買ったことはあるのか?」
屑屋は煙草を一本懐から取り出し、呑気に吸って吐いた。
「ありますよ、二本向こうの道沿いに住んでいたんです。もともとは師団が旭川に来た頃に住み着いた人足だって人が言ってましたが、今は何の仕事しているやらとんと分からない有様で、すっかりごろつきですよ。しばらく見ないなと思っていたら、捕まったって言うじゃありませんか。びっくりですよ。まあ、荒っぽいところもあったし、どこで何をしてるんだかよく分からないのに酒だけはよく飲んでて、そういうことしても不思議じゃない男でしたがね」
のんびりした口調にしびれを切らした鯉登が核心を訊いた。
「その男から本を買ったことはないか。古い本だ。あるいは、こう、折った紙なんかも」
「あります」
「ある!」
興奮した菅原が声をたて、
「間違いないか?」
「だって、ごろつきが本ですよ? そりゃあ覚えてますよ。柄にないもん出してきたなって」
「それ、どこにある?!」
重ねて訊かれ、途端に屑屋は困惑したように眉を寄せた。
「ええ? だって、もう二週間以上前の話ですよ。まとめて持って行っちまいました」
固唾を飲んで返答を訊いていた鯉登は、だろうな、と力を抜いた。菅原が眉を下げて未練たらしく訊いた。
「どこに持って行った?」
「もう、持ち込み先でも使っちまったと思いますけど......」
「一応、調べるだけ調べたいんだ」
「紙でしたよね。紙はいつも――」
言葉を切った屑屋が、ぽん、と煙草の灰を火鉢に落とした。
「そういえば、その紙屑、持ち込む前に買ってくれた人がいましたよ」
途端に三人の目が屑屋に集まる。
「紙だのなんだの集めながら歩いていた時、師団の敷地からすっ飛んできた人がいて」
「なに? 第七師団に行ったのか」
「火曜に行くことにしてるんです。ほら、招魂社ってんですか、立派なお宮が建って、競馬場もできて、あこいらも紙を出してくれるんです。そのまま今度はあの真っ直ぐな道路をずっと行って――」
「工兵の方だな?」
「そうなんですか? よく知りませんが。――それで、向こうまで行ったら角を曲がって司令部も行くでしょう? そんでそこまで行ったら、どれ官舎の方にも、ってなるじゃないですか。その辺りでね、紙屑持ってるなら買いたいって」
「そうか、司令部か......」
鯉登が呟いたのを気にせず、のんびり屑屋は続ける。
「本なんか売りそうにない男が本を出して、その日のうちにいつもと逆に紙屑が買われたんですから、そりゃあよく覚えてます」
そこで屑屋はもう一度煙草に口を付け、煙をすーっと吐いてから、三人に順に目を向けた。
「その本、何か大事なものだったんですか?」
屑屋の路地を出て常盤橋まで出てくると、鯉登がとうとう笑い出した。月島が菅原を睨み付ける。
「言うに事欠いて俺の日記はないだろう」
「すまん、高価なものを探しているとばれたらまずいかもしれんと焦って」
「人を巻き込まずに自分のだと言え。しかも、疑ってたぞ、あの様子は。誤魔化しにもなってない」
「すまん、すまん」
屑屋との話を無理やり切り上げて出てきたはいいが。
「師団の中にも目利きが居たということか......」
鯉登は笑いを収めて思案顔になった。
「屑屋の箱橇にそんな高価な物が入っていては、それはすっ飛んでくるでしょう」
菅原が言ったが、月島は釘を刺す。
「菅原、お前が探しているのは折紙だろう。本を見つけても仕方がない」
「いや、待て、月島。あの屑屋、『紙屑が買われた』と言っておった。もしまとめて出したなら、そして、買い上げた人間が古美術品が分かるような目利きなら、まだ望みはある」
「誰が買ったか探すだけ探したい」
姪の為もあってか、菅原はもう少し粘りたいらしい。
「しかし、美術品が分かる兵卒などいるとは思えない。現に、俺もお前も知らないことばかりだったろう」
「となると、将校か......」
菅原が縋るように鯉登を見ると、鯉登は大きく頷いた。
「分かった、ちょうどこれから偕行社で集まりがある。将校には私が話を聞いてみる」
「恐れ入ります、少尉殿」
うむ、と頷き、早速とばかりに旭橋に向かって歩き出したところで、鯉登はくるりとこちらに向き直った。
「月島ァ!」
呼ばれて、黙り込んだまま月島は口を引き結んだ。菅原が横で笑いを隠しきれずに身体を震わせているのが忌々しい。
「何をしている、お前も来い!」
自分が話を聞くのではなかったのか。偕行社に自分など場違いだろうに。
結果的に、将校の中に本を買ったという者は見当たらなかった。
「司令部から官舎に行こうとしていたと言っていただろう? だから、司令部を主に使う方々にもあたってみたのだが、なんで屑屋が本を売っているんだという者がほとんどだったのだ」
「それはそうでしょう」
月島が呆れを含んだ口調で言うと、鯉登は軽く嘆息した。
「考えてみれば、道を歩いている屑屋の押す箱橇の中なんて上からしか見えないし、となると、二階から箱橇までの距離で紙屑に混じって本が入っているかどうかなど、そうそう分かるわけもなかったのだ」
火曜日の演習後、聯隊本部前の門に鯉登と月島と菅原が立っている。さきほどからずっと立っている三人に、歩哨はいったい何事かとちらちら視線を投げている。
「変な言い訳して、変なところで話を切り上げるからこうなるんだ。もう一度、屑屋に話を聞いて、買ったのがどんな奴だったか分からなければ話にならん」
じっとりと無表情に月島が菅原を見ると、菅原は面目無さそうに首をすくめた。
「だから、ここで屑屋が来るのを待っているんじゃないか。火曜に来るって言っていただろう」
「もう行ってしまった可能性があるのではないか?」
鯉登が懸念を口にすると、
「それはそこの歩哨に確認しました。まだ見かけていないそうです。こんなに真っ直ぐな道ですから通れば目に入らないわけがありません。となると、さすがに日没後に屑集めもないでしょうから、通るとしたらそろそろだと思われます」
菅原は少し伸びをするようにして、司令部の方を見たり、その反対側を見たりを繰り返している。夕日は傾いてきていて、影が長く伸びている。誰かが話すたびに白い息が上がる。
最初は菅原が、自分が責任を取って外を見張ると言ったのだ。それを、私も待つと言ったのが鯉登で、その鯉登の月島ァのひと言で、月島もここに立つことになってしまった。正直言えば、寒空の下、なぜこんなところに自分まで立っているのかと月島は解せない気分でいる。
待つことしばし、鯉登が、ふ、と顔を司令部の方に向けた。
「何か聞こえないか」
くずーい......くずーい......
「屑屋だ!」
くずーい、おはらい......くずーい、おはらい......
師団司令部の角を曲がって姿が見えて来るなり鯉登が大股で歩き出したので、慌てて追随する。
「おおい、屑屋!」
鯉登がよく通る声で呼びかけると、屑屋はすぐに気がついて、おっとりと軽く腰を曲げて会釈した。立ち止まって屑屋が近づくのを待つと、三人の所まで来た屑屋が訊いた。
「どうしたんです? こないだは急に出て行っちゃって」
「あー、うん、後の用事が押していたんだ」
菅原が月島の方を気にしながら答える。月島は菅原に不満を込めた視線を投げたが、それはいったん脇に置いて屑屋に訊いた。
「こないだ訊けなかった続きだが」
「はいはい」
「紙屑を買ったのはどんな奴だった?」
屑屋が箱橇を再び押し始めたので、三人もそれに付いて一緒に歩く。
「そうですねぇ、ずいぶん丈は高くて、手足はひょろひょろと長くて、なんだか悲しそうな顔をしていて」
すると、突然、菅原が屑屋に向かって身を乗り出した。
「そいつ、将校殿ではなくて、ただの兵卒じゃなかったか」
「自分は将校さんだなんて言ってませんよ。普通の兵隊さんです」
「ただの兵卒が?」
疑念を乗せて鯉登が声を立てたが、菅原は畳みかけるように尋ねた。
「新兵か?」
「そうかもしれません。なんだかおどおどしてて」
「どこで売った? あそこの角を曲がって、官舎の方に行く途中じゃなかったか?」
「そこです、そこです、あの門があるところ」
となると、第二十七聯隊の、月島や菅原の所属する大隊の厨房がある辺りだ。
「心当たりがあるのか、菅原?」
「新兵全員把握してるわけじゃないが、たぶん高橋だ。――鯉登少尉殿、高橋は私の班の新兵なのです」
途端に、月島が身動ぎし、
「あ」
「あ」
「あ?」
月島、鯉登、菅原の順に声を立て、三人は三様にお互いを見た。月島は、ばつが悪そうな顔をしており、鯉登はその月島に何か言いたそうな視線を送っている。菅原はと言えば、何かを思いついたらしい二人を何度も見比べたものの、何が何やらさっぱり分からぬという顔のままである。
「あー......菅原、高橋を俺の部屋に寄越してくれ」
「お、おう」
頭を傾げたものの、菅原は頷いた。
ロシアとの戦争の後から、月島は下士室を一人で使っている。戦時の体制が解かれて部屋が空いたところに古参だったせいもあり、それはそこまで異例の扱いではなかったが、鶴見の意向が大いに働いていたのだろうということは想像に難くない。その待遇が函館での負傷からの復帰後もそのままだったのは、何らかの思惑があったのではないかと思っているが、鯉登が心配するだろうからそれを口にしたことはない。いずれにせよ、こういう時は都合が良かった。
部屋に置かれたストーブの上にやかんを乗せ、鯉登と一緒に待っていると、廊下が騒がしくなってきた。
違う、そっちは俺の下士室だ! 月島の部屋だと言っているだろう! 隣の班の! 月島軍曹の! 下士室だ! いいから一緒に来い!
菅原の怒声がだんだんと近づいてくる。
「大丈夫か、その高橋とやら」
「飲み込みが悪いところがあると聞いております」
扉を開けるなり鯉登がいたので、菅原が礼をした。
「菅原、入ります」
ついてきた高橋は菅原より頭一つ大きく、悲しそうな顔で突っ立っている。それを菅原が振り返って睨みつけると、慌てて菅原を真似て頭を下げた。
「高橋、入ります......」
二人が部屋に入り扉を閉めたので、月島が徐に口を開いた。
「高橋、三週間前の火曜、俺が浴場で薪を割った時」
「なんでお前が薪を割っているんだ」
鯉登が口を挟んだのを視線で黙らせ、何を言われるのかと高い背を屈めている高橋に話しかける。
「あの時、燃やそうとしていた屑紙はどこから手に入れたんだ」
「は、はい」
ただ訊いただけだというのに、怯えて口を震わせているので、高橋、と菅原が促すと、まるで観念したように、高橋が答えた。
「あ、あの、外を通った屑屋から買ったのであります......」
「なんで屑なんて買ったんだ」
事情を知らない鯉登が訊くと、高橋はそれだけで震えだした。高橋、とまた菅原が促す。
「焚き付けが......前に、上等兵殿に......無くて、その、ものすごく、叱られて......」
しどろもどろの上に息も絶え絶えという調子で高橋が単語を並べる。
「すぐにと、思ったら......外を、屑屋が、見えて......」
「ああ、だいたい分かった」
鯉登がもういい、と手を振って黙らせた。月島が尋ねる。
「幾らだった」
「あ、あの、五銭であります」
「そうか」
月島は机から財布を取り出し五銭を出した。
「手を出せ、高橋」
おずおずと差し出された高橋の手の中に、硬貨を乗せる。
「買った物だとは思っていなかった。巻き上げるつもりはなかった。すまなかった」
高橋は自分の手の中の白い硬貨を信じられない物を見るように見詰め、それから、月島の顔を見て、突然思いついたように、ありがとうございます、と深々とお辞儀した。月島がぞんざいに手を振る。
「返したようなものだ。ありがたがらなくていい」
「あ、あの、他に、ご用件はありますでしょうか」
「いや、これだけだ。戻っていい」
「はい、失礼します!」
長い手足をカクカクと動かして、高橋が部屋から出て行く。はっと気がついて、菅原がその背に声を投げた。
「高橋、それは衣嚢に仕舞ってから帰れ!」
鯉登が呆れて言った。
「たかが五銭ではないか」
「あいつ、巻き上げられかねないので。あ」
菅原が鯉登を気にして、視線を向ける。内務班内のいざこざは班長の責任になるのだ。鯉登は小さく頭を振って不問の意思を示し、そのまま月島の方に物問いたげな視線を向けた。
「それで、月島?」
月島は何も言わずに棚を開けた。中から古い和綴じの本を取り出して机の上にそっと置く。菅原がしげしげとそれを眺めた。
「これが、『美しい紙に印刷された本』か」
「『かつて美しかった紙』に印刷された本、だな」
それぐらいの言い訳はさせてほしい。大事にされていたのだろうが、長い年月で紙は古ぼけ、擦れた部分も多いのだ。
菅原もうんうんと頷きながら、
「確かに、言われなければ古ぼけた本でしかないな」
だが、分かってから明るい場所で見てみると、紺の表紙は優美な植物や鳥の絵が描かれ、紙にはうっすらと模様が入っている。菅原が本から目線を上げた。
「高橋はこれを焚き付けにしようとしていたのか」
「そうだ。他にも紙屑はあったが、本は燃やすのは勿体ないと思って持ってきたんだ」
「間一髪だな。風呂好きのどこぞの軍曹が風呂が沸いていないことに怒り狂って薪を割ってなければ、灰燼に帰していたわけだ」
怒り狂ってなどいない、と心の中だけで思い、月島はむっつりと黙り込んだ。軍曹二人の遣り取りを面白そうに見ていた鯉登が、月島ににやにや笑いかけた。
「『縁があるわけがない』?」
月島は あー、と声を立ててから、仕切り直すように鯉登を見上げた。
「私が気づいたのは当然として、少尉殿はなぜ気がついたのですか。屑屋と話していた時に既に何か思い当たる様子でしたが」
「ああ。あのな」
風雅な絵が描かれた和綴じの本を一冊取ると、鯉登は月島の目の前に突き出した。
「この字」
繊細な細い筆のような文字が流れるように綴られている。横から覗き込んだ菅原は、見るなり、私には読めません、と匙を投げた。月島は突き出された紙面に目を落としてから、顔を上げた。
「これが活字なんですか?」
「そう聞いた。――ああ、そうか。確かにこんな字の形では活字と言われても分からんな。なあ、月島、これがお前の言う『蚯蚓ののたくったような字』ではないのか」
「ええ、そうです。くずし字と言うんでしたか」
「最初からそう言え」
軽く目を閉じ首を振ってみせた鯉登に、月島が疑問を投げる。
「最初とは」
「前に言っていただろう。報恩寺の住職に『蚯蚓ののたくったような字』を『読めなくて教えてもらったことがある』と」
「はい」
「聞いた時は悪筆のことかと思ったが、それなら『読んでもらった』と言うのではないかと考えたのだ。下手な字というのは、教えてもらって読めるようになるようなものではない。となると、だ」
「つまり、月島がなぜくずし字を読もうと思ったか、疑問に思ったということですか?」
「うむ。月島自身に屑屋の覚えはなかったようだが、二十七聯隊内に買い上げた者が居るなら、回り回って月島の所にきた可能性はあると思ったのだ」
「回り回ってどころか、直接の巻き上げだったわけだ」
菅原はそう言ってにやにや笑うのを睨みながら月島は指摘してやった。
「だが、菅原、お前の目的は折紙だろう。本は目に付いたし、勿体ないと思ったが」
「あー、そうだった。しまった、残りの反故をどうしたのか訊くのを忘れた」
「もう三週間前の話だろう? それこそ焚き付けにしたのではないのか」
鯉登が言うと、菅原は眉を下げてしゅんとなった。
月島が本を取り上げた。本は勿体ないから読もうと思ったが、紙屑を集める趣味はない。当然、手元に他の紙屑は無い。
「この本は返さないとな」
読みかけだったので残念な気がするが、月島にとって読書は金の掛からぬ気分転換でしかない。ぱらぱら捲って栞代わりの紙を取ると本を棚に仕舞いかけたが、思い直していったん机の上に置いた。さすがに、警察に引き渡すまではどこか鍵の掛かるところで保管したい。経理部かどこか金庫を持っている所で預かってもらえないものか......
「おい、それ!」
「は?」
鯉登が大声を上げたので見てみると、驚愕の表情でこちらを見ている。視線の先はどう見ても月島の持つ古ぼけた紙である。
「これですか?」
折り畳まれた和紙は古ぼけていて、何かを書き付けてあるのか、うっすら字が見えなくもないが、これこそ書き損じの反故だろう。
「これも高橋が買い上げた紙の中にあった物です。ちょうど良い厚さだったので栞にしていたのです」
言うか言わないかのうちに、鯉登が興奮して月島の手の中の物を指さした。
「それだ、それ!」
「何なんですか」
「それが、『折紙』だ!」
机の上にぞんざいに投げだそうとしていた手を止め、月島は瞬きした。その手の中から紙を取り上げ、鯉登は慎重にそれを広げる。
「『備前国宗』......『代金子五枚』、ほら、花押もある」
「竈の上に何か乗ってるみたいな絵ですね」
「絵じゃない。花押は字だ。名前が書いてあるんだ。つまり、署名だな。本阿弥某かの」
言われて見れば、「本」と「阿」の文字は確かに読める。
しばし筆で書かれたその文字を見詰めてから、月島は神妙な面持ちで顔を上げた。
「すぐに警察に知らせないと」
「それなら、俺が行く。ひさもにも知らせたいしな。ありがとうございます、少尉殿。月島もありがとう」
嬉しげな菅原が足取りも軽く出ていく。それを見送った月島が、ふう、とため息を吐いた。
「礼を言わなければならないのは俺の方だったかもしれません」
「菅原が粘らなければ見つからなかったろうし、時間が経てば全員記憶もあやふやだろうし、屑屋と高橋の証言が無ければ」
「俺が盗んだと言われかねません」
ゆっくりゆっくり読んでいただろうその本を取り上げ、鯉登は、月島、と静かに呼んだ。
「学がないなどと言いながら、こんなものを読もうと思ったのか」
「はあ」
「あのな、月島。学は生まれだの身分だのとは関係がないぞ。弛まず学んだ者の上に宿る物だ」
言われた時、ふと懐かしい声を思い出したのだ。
――学は努力した者の上に宿る物だ、月島。生まれの上に胡坐を掻いた者には一生身につくことはない。
「......昔、似たようなことを言われました」
久しぶりにはっきりと思い出したその声は、存外、温かいものだった。
軍曹会議が第7回なので第七師団の誰かとの絡みで事件物を書けないかなあと最初は思っていたのですが,申し込もうかどうしようか考えている時に,気の迷いで池袋の実写金カム4DXを観に行き,それだけのために上京というのもさすがにどうなのと思って,ついでに『本阿弥光悦の大宇宙』展を観に行ったら,最後まで見終わるまでに頭の中にこの話の大筋ができあがっていたので,家に帰ってから軍会に申し込んで,もそもそ書き出しました.間に合って良かった.
引率して出て行ったら,引率して帰ってくるんじゃないかなとちらっと思いましたが,考えないことにしました.どうも,新兵の引率って入隊から6ヶ月後ぐらいのようでそうなると6月頃のはずなんですが,既に冬で書いちゃってたのでそのまま押し切りました.
引率ってどこに行くのかなあと思ったんですが,旭川って師団がどーんと大きな敷地を占めていて(特に当時は)周りに何も無いレベルなんで,旭川駅側に出るしかないよなと思って,そっちに行くことにしました.前に旭川に行った時に偕行社まで歩いたんですが,普段運動なんぞしない人間があちこちカメラで撮ったりご飯食べたりしながら歩いて行けたわけだから,昔の人よく歩くしましてや軍人さんだし大丈夫でしょう,うむ.
なんで歩いたかというと,出征から帰ってきたらどうやって兵営に帰ったのかなと思ったからだったんだけど,結局,明治時代の地図を見たら練兵場まで引き込み線があって「鷹栖線」となっていたから,出征の時などの集団で出る時は列車で直に出て行ったのかもしれない.さすがに一般人乗せないだろうから,常に出てるわけではなくて単なる個人の外出の時は使えなかったのではないかなあと思う.いちおう,一番近そうな普通の?汽車の駅は近文だけど,そこでも歩いて一時間ぐらいみたい.
祖母の家が昔五右衛門風呂だったんですが,祖母が言うには焚き付けには牛乳パックが良いです.ちょっと紙があったら火ぐらいつくんじゃない?と思うんですが,「焚き付け作れ」と言ったら作ってなくて,叱ったらぷいっといなくなったので紙を持って帰ってきたのに腹を立てられ怒られたのでしょう.理不尽.
前から,月島軍曹に『金色夜叉』読ませて感想聞いてみたいという鬼のような想像をしていたんだけど,4期DVDのおまけCDドラマ聞いて,え,この人にその話を語らせるんですか?!?!と思ったから,案外,『金色夜叉』は読んでたかもしれないなあと思って出しました.もし読んだら,「お宮がかわいそう」とお宮の行く末をはらはらしながら読んでたんじゃないかなと自分は思ってる.
『南満州鉄道案内』という明治四十二年刊行の本があるみたいで,もしかしたら気になって手にしたかもしれないなと思っている.
オリジナルで出した人たちですが,菅原軍曹は金塊争奪戦では五稜郭で負傷して脱落している設定です.高橋二等兵は,実はあれで菅原に懐いています(他の人より相対的に怒鳴り具合がソフトで結局のところ面倒見てくれるから).この後,本式に炊事兵になってやることを飲み込んできたら,同じ時間に同じ事をするというのが性に合ったのと,野菜や果物を大量に薄く早く剥くという特技を開花して重宝がられ,除隊まで炊事兵をやっていたという設定.たまに菅原と月島(二年兵になってからは組んだ初年兵にも)に賄いが届けられたりなかったり.
地元の話なんですが,連隊があった場所の近くの橋を昔は「連隊橋」と呼んでいて,亡くなった祖母が「子どもの頃,将校さんが通る時はずっと頭を下げていた」と言っていたので,どのレベルの将校かは分からないけど,今の感覚よりも将校という地位は高く捉えられていたんだろうなあと思い,そうなると,市民とか警察に対する軍人の口調ってどの程度だったんだろうなあと悩んでしまった.
まったく関係ない話ですが,祖母は「皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ」というアレを諳んじられたので,よく知ってるねと言ったら,「だって,あなた,(尋常)小学校で覚えさせられるんだもの」という話で,うーむ,時代だなあと思ったことを思い出しました.
国立国会図書館デジタルコレクションで提供している資料の中から、著作権の保護期間が満了した図書及び古典籍資料全部が検索可能とのことなんですが,「この単語,この時代に使っていたのかなあ」という時に,年代区切って検索してみている.もちろん,書籍になるような物だけなので口語なんかは分からないけど.
炊事兵の選び方とか炊事班長の話はここから.炊事班長は古参の軍曹がやるそうで,別の資料に「炊事班長をやったら曹長に上がる」と書いてあるのを読んで,月島もそのうち炊事班長やって曹長になってたらいいなと思った.炊事班長自身は物資調達の事務処理に忙殺されて調理はしなかったみたい.なので,炊事班長時代に商人と顔繋いだり主計将校に会計教わったりして退役後はこぢんまり貿易商......を隠れ蓑に大陸の情報をせっせと仕入れて鯉登閣下に流してたという全うの仕方をするのが妥当な路線じゃないかなあと想像を膨らませてました.
できる予定の公園.ちなみに,揮毫の時に字を間違って「常盤」のはずが「常磐」公園にしてしまった渡辺師団長は,小学校中退で大将まで登った人です.(※名誉のために追記すると,この人は陸軍大学校を首席卒業している)
昔は田舎のバスはあそこの角で下ろしてくれと言えば下りられた.便利だったんだがなあ.
明治の頃は一等卒二等卒であって,「卒」が「兵」になるのは昭和3年なんだけど,じゃあ新しく入隊した人は何て言うんだろう,「新卒」はいやいやさすがに変だろうと思って検索したら小説が引っかかりました.この作品は大正5年の作品で,既に「新兵」とか「新入兵」と書いてあるので,「新兵」で良いのだろうな,と.
新井紀一という人は兵役も経験しているそうなので,この話の描写も参考になるんだろうなと思います.しかし,高村軍曹,鬱屈しているなあ......
| 二次SS |
日露戦争前,旭川・第七師団本部.
軍曹会議・おかわり(2022.10.14 23:00 - 10.15 22.50開催)のバイキングネップリアンソロ本企画に「テーマ(4)兵卒が見た月島軍曹日常の一コマ」として出した物の再録です.
なんだって十二月なんて冬に入営日が決まってるんだ、と最初は思った。荷物を背負って小遣銭を握りしめ、郷里の集落から旭川にやって来て、雪を踏み分け師団の門をくぐった途端に、怒鳴られながらあちらに集められこちらに歩かされて、よく分からないまま御真影に見よう見まねで敬礼したら、初年兵ということになっていた。だが、右往左往で始まった兵営生活を、初日のうちにそう悪いもんでもないかもしれないと思ったのは我ながら現金だ。何せ、兵舎の中はしっかりとストーブが焚かれていて、布団の上に霜が降りる郷里の家よりはよっぽど暖かかったのだ。それに、朝夕腹一杯にご飯が食べられるとくる。山盛りに盛られたのは紛う事なき白米で、最初は本当に食べてもいいのかと戸惑ったものだった。
煙草を吸うために寄った喫煙場所で久しぶりに会った同郷の幼馴染みにそう言うと、そいつはぷっかりと器用に輪っかの煙を吐いてから、
「それにお前は当たりだったじゃないか」
と曰った。
「当たり?」
「お前の班、班長は月島軍曹殿だろう?」
「そうだが......当たり?」
件の給養班長殿を思い出すのは容易だった。なにせ、朝晩の点呼の際に確認をするのも十日に一度の給与を手渡してくれるのもその小柄な軍曹殿だ。軍に入って最初に覚えた名前と言っても過言ではない。だが、その班長殿と「当たり」という単語が結びつかない。常に真っ直ぐに背筋が伸びていて、厳つく生真面目で号令も行動もきびきびと隙が無い。それに。
「お前はそう言うが、あの人はずいぶんおっかないんだぞ。こないだ、俺の同室二人を投げ飛ばしてた」
そのせいで、あの軍服の下は鋼のような筋肉でできていると分かったし、背が低いからと侮れば痛い目に遭うと知ったのだ。
「でも、投げ飛ばされる理由はあったんだろう?」
「まあ、夜の点呼後に曙に行こうとしたせいだけど」
「ほらみろ。俺のとこなんて酷いぞ。軍服のたたみ方がなってないとか難癖つけてきて、思いっきり殴られた。ほんの一寸ずれてただけなのに。見ろよ、ここ」
捲られた腕の中程に青あざがくっきり残っている。驚いて手を伸ばそうとしたら、幼なじみはさっと手を引っ込めた。
「触るなよ。まだ痛いんだから。――畜生、あいつ、一年ばかし早く入っただけの癖して」
忌々しそうにそう言うと、改めて煙草をすーっと吸い込んだ幼なじみは、ふーっとそれを吹いた。
「俺の班だけの話じゃない。初日に隣に並んでた奴なんて、武器の手入れがなっとらんって言われて、陛下に詫びろって一晩中小銃に頭下げさせられたらしい」
「銃に?」
「そうだ。こういう理不尽はないだろう、お前のとこ」
「そう言われれば、まあ」
「嫌いなんだそうだ、月島軍曹は、そういうことが」
確かに、あの厳格そうな班長殿は、厳格なだけに規則に無く意味も無いことはやりそうにない。
「それに、飯も『公平に』分けてるって聞いたぞ」
やけに「公平に」を強調するので、吐いた煙が立ち上るのを見上げている横顔を窺い見る。
「......違うのか、お前の班」
訊くと、ふん、と鼻を鳴らして、幼馴染みは呆れたように頭を振った。
「違う。違う方が普通なんだとさ。古兵殿が睨んでてな、結局、そっちを多く盛らないと酷い目に遭う」
ぽっかりとまた煙を輪っかに吐いて、幼馴染みは肩をすくめた。
「だから、当たりだって皆んな言ってるぞ、月島軍曹の給養班は」
そういうものか、と冷たそうに曇っている窓をぼんやりと眺めながら自分もふーっと煙草の煙を吐いてみた。
――そういえば。
入営初日に、盛られた白い飯を見て思わず「食べて良いのですか」と聞いた時に、鼻で笑うこともせずに、良いんだ、俺も初めての日は驚いた、と言ったのが月島軍曹だったのを思い出した。白い飯が甘いことも軍に入って初めて知った、と言ったのも。言われたとおり、初めて食べる白い米はほんのりと甘かった。かつかつと食べる自分のことをすこしばかり眺めて、月島軍曹はいかにも重要なことだったかのようにこっくりと頷いて、自分もまた止めていた箸を動かし始めたのだった。
風呂の当番になるのは初めてだった。入浴時間の始まる一六時に間に合わせようと大慌てで薪を焼べる。
「どうだ?」
一緒に当番になった同室の男が湯船に腕を突っ込んで水音を立てているが、浴室の外からは姿を見ることができない。
「少しぬるい!」
返ってきた声が焦っている。急いでもう何本か薪を手に取った時、誰かの足音が近づいて来るのが聞こえた。そちらを見て誰だか分かるなり、潜めた声で慌てて中に呼びかけた。
「おい、出てこい、月島班長殿だ!」
将校は将校集会所にある風呂を使うので、大隊に一つの兵卒用の風呂を真っ先に使うのは下士官ということになる。桶を引っ繰り返したような音がしてやきもきしたが、すぐに風呂から同僚が飛び出してきた。
「そんなにぬるいのか?!」
「......多分、大丈夫だ。今日は寒いから、ぬるくても最初のうちは温かく感じるはずだ。服脱いで、入る前に体も洗うし、時間は稼げるはず」
それを聞いて頷いて、薪をもう二本突っ込んだ。後は祈るしかない。部屋に戻るかどうするか、同僚と脇腹を突き合って、結局、ぬるいと後で怒鳴られるよりはと待つことにする。風呂に響く物音と水を流す音の後で、急に静かになった。心配になって立ち上がり、背伸びして格子の隙間から覗き込んでみると、常日頃は硬い表情を崩さない班長殿が、湯船に浸かって目をつぶり、すっかり弛緩している。溶けたような顔を見てパチパチと目を瞬いた時、湯船に浸かった班長殿が急に目を開き、驚いてひっくり返りそうになった。
「どうした?」
下で屈んでいた同僚がこちらを見上げて声をかけてきたのと、班長殿が声をかけてきたのは同時だった。
「風呂の当番か?」
「は、はい!」
焦ったあまり裏返った声を出してしまったが、班長殿はしごく静かに言った。
「もう二、三本薪を足してくれ」
「はい!」
今度はまともに返事をして、同僚に指を二本立ててから入れろ入れろと手で合図する。合図を受けて、素早く薪が焼べられるのを確認してから、
「入れました!」
と報告すると、おう、と返事が返ってきた。班長殿は、ぱしゃりと音を立てて両手で掬ったお湯で顔を洗った。それっきり、すっかり静かに湯に浸かるばかりで、何も言葉を発しないので、不安になる。同僚も同じ気持ちだったのだろう、隣で同じように背伸びして中を覗き込んだ。そうしているうちに、どやどやと人の足音が多くなってきて、他の軍曹たちが集まってきた。
お、月島か、しばらくぶりだな。いや、こいつ、十一月に入ってからはずっと居るぞ。さすがに入営時期ともなれば鶴見中尉殿も連れ回してばかりはいられないだろう。そういえば、和田中隊長殿が髭を震わせて探していたぞ。お前、とっとと顔出してご機嫌取っておけよ。当たり散らされちゃこっちも敵わない。
聞こえる会話は他の軍曹の声ばかりで、月島軍曹は、うん、とか、ああ、とかまともな単語を発していない。本当にお前は風呂に入ると動かなくなるなあ、と誰かが言うと、短い笑いが起こったが、それは親しみを含んだ物で、どうやら我らが班長殿は、下士官の間で一定の好感を得ているらしい。
湯船に浸かるような音が何回かしても特に怒鳴り声も起きないから、風呂の塩梅はなんとかなっているのだろう。あまり焚きすぎると今度は熱くなりすぎる。誰かが上がった音がしたので、様子をうかがっていた同僚と目配せし合って、立ち上がった。そろそろ自分たちの支度をしないと風呂に入りそびれてしまう。
軍曹たちが出てくるのと入れ替わりに今度は伍長たちがやってくる。ふと、後ろを振り返ってから、先頭にいた玉井伍長に話しかけた。
「あの、まだ、入っている軍曹殿がいらっしゃいました」
「なに、そうなのか?」
迷う様子で立ち止まった玉井伍長に、風呂上がりの軍曹が一人、後ろから抜きさり際に笑いながら話しかけた。
「いいんだ、大丈夫だ、月島だ、月島」
「ああ。月島軍曹殿でしたか」
それを聞いて、やってきた伍長たちがほっとした顔でそのまま風呂の方に歩いて行く。どうやら月島軍曹は鷹揚なのか意外と優しいのか風呂の順番ぐらいでは怒らないらしい。そういえば、さっきも怒らなかったしな、と同僚と頷き合うと、いよいよ自室へと急いだ。入浴前に洗濯だの武器の手入れだの済ませておかなければならないことが山ほどある。案外と時間が無いのだ。
二年兵が部屋に帰ってきたのでようやく自分たちの番だ、と自分で沸かした風呂に向かったのは一七時半だった。一年兵の番ともなると、風呂は芋を洗うような有様で、人の多さに湯船も洗い場もむっとしている。早めに済ませてしまおうと桶のお湯を体にかけるのとほとんど同時に手ぬぐいで雑に擦って、さあ、湯船にと振り返ったところで、ぽかんとしてしまった。
「おい、どうした」
「あの......班長殿、が......」
最初に入った所からずっと端の方に寄ってしまっているが、一番に風呂に入りに来たはずの人物がまだ風呂に浸かっている。
「ああ、月島軍曹か。大丈夫、あの人は上がる前に下の者が入っても怒らないから」
「いえ、怒るとか怒らないとかではなくて。のぼせてるんじゃないですか」
見て見れば、血色が良いと言うよりすっかり茹だって赤くなっているように見える。
「いつものことだ。大丈夫だろう」
「でも、最初に入りに来たんですよ?」
すると、相手は感心したように少しだけ目を見張った。
「へえ......。まあ、月島軍曹殿ならさもありなん」
呑気に笑っている相手と、肩までお湯に浸かって動かない軍曹とを見比べていると、よっぽど不安そうな顔をしていたのだろう、男が月島軍曹を指さした。
「大丈夫だって。見てろよ」
そう言われたが、最初、何を見ろと言われたのか分からなかった。だが、そのうちに気がついた。小柄な軍曹殿は、誰かが上がって水面が下がるともぞもぞと首まで体を沈め、誰かが入って水面が上がると今度はもぞもぞ浮き上がり、常に顎の辺りにお湯が来るよう調整しているのだ。
「な。意識はあるよ。いつも風呂に入るとああなんだ。気がつかなかったか?」
言われて、ゆるゆると首を振る。誰も気にしていないようだったから、今まで不思議にも思っていなかった。今日は幼なじみと班長殿の話をしたばかりだったのと、風呂の当番だったのとで、この常識外れの長風呂にやっと気がついたのだ。
「月島軍曹の数少ない悪癖ってわけだ」
そうか、風呂の時間は一人だいたい二〇分。だけど、この風呂場に現れる者の中では一番地位が高いから、誰も何も言わなかったのだ。それに。
「風呂に一時間半かあ......」
いつもの厳つい御面相からすっかり力を抜いてしまっている班長の顔を見て、少し笑う。やっている違反があまりに突き抜けていてあまりに緩い。腹を立てる気にもなれなかった。
いよいよ、最後の初年兵も上がってしまい、とうとう班長殿だけになった。
――本当に、最初から最後まで入ってた......
邪魔をして良いのか悪いのか迷ったが、係になっている自分らからすると、時間通りに入浴を終えてもらって後の始末を付けないとどんな叱責が飛んでくるか分からない。思い切ってまだ目をつぶっている班長殿に話しかけた。
「あの......」
ぱっとその目が開いて、少し怯んでいると、
「ああ。もう終わりか」
短く言うと、班長殿はばしゃばしゃと顔をお湯で洗い出した。その手も首も顔もすっかり茹だってふっくらと赤らんでいる。顔を洗って目が覚めたのか、溶けたようだった顔にいつもの精悍な表情が戻り、ざばっと勢いよく上がった体も、弛緩していた状態から引き締まった筋肉が硬そうに鎧っている。
「すまんな。掃除は手伝う」
「え、いえ、滅相も無い」
「違反の償いだ。これで目をつぶってくれ」
いつの間にかこちらの手元から束子を手に取った班長殿はそう言うと、ニ、と笑みを浮かべた。
「あ......はい」
――当たりだ。
思いがけないわずかな笑みに、突然、脳裏に浮かんだのは、幼馴染みが口にしたそんな言葉だった。
〈了〉
公式ファンブックのショート漫画でお風呂入ってスイッチ切れちゃったような軍曹が好きで,(本編では入れなかったけど)やっとお風呂に入れて良かったなあと思いながら書きました.水面下がるとこっそり肩まで沈んでるあたり,本当に「お湯に浸かる」という行為が好きなんだなあ.あと,鯉登少尉はお風呂に入れば鶴見中尉とお話ができるという.お風呂が全てを解決するよ!
気候なんかは「第一巻 通史一」を,兵営生活とか花街の地名は「第三巻 通史三」を参考にしました.入営日が12月1日なのは「第八巻 史料三」で知りました.最初,「冬支度」のテーマでSSを書きたかったのですが,当時の旭川で冬支度といえば何をすることなのかが分からなくて挫折しています.でも,12月1日が入営日なら,軍曹としての冬支度は初年兵を迎える準備なのかもしれないあなあと思いました.
「第八巻 史料三」は,北鎮記念館にも展示してある第七師団の『師団歴史』がまるまる収録してあって,興味を持って読むと想像が膨らみます.
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